増補 責任という虚構 (ちくま学芸文庫) [Kindle]

著者 :
  • 筑摩書房
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感想・レビュー・書評

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  • 「悪い行為だから我々は非難するのではない。逆に社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶ」

    暑さ2cmの豆腐みたいな文庫で読み応えあった。
    題名のとおり、本書は因果原則に即して社会的に認知されている「責任」という概念の危うさを、社会心理学での研究成果や、過去の哲学者の思考などさまざまな面から記述している。
    本書は2008年に上梓されており、恐らく自己責任論が広く語られるようになった社会への危機感が動機となっていると思われる。
    この問題意識はマイケル・サンデルも異なる背景からではあれ持っていると思われる。
    自分の意思で行ったことの責任は自分が負担する、これが自己決定論であり。社会やこのロジックを根拠として動いている。これは反対側もそうで、成果を得られる代わりにリスクも負担するというロジックが基底となっている。
    この「責任」というものが虚構だということがバレたら社会は崩れる、でも崩れないなぜなら、原因の果ては隠蔽されているから。責任は自由意志を原因として生成されるものだけど、自由意志は曖昧であり、なので責任も虚構である。
    自己責任論は自然現象における因果原則を社会や人間にまで拡張した考え方であり、著者はこれを虚構と読んでいる。ここでの因果原則の機能は宗教にも通じるものがある。人が生きていくために生み出したのが宗教であり、因果原則の社会への持ち込みである。

  • 本書の意図は普遍主義的な規範論の否定であり相対主義の擁護である。責任や責任概念を前提とする規範体系は、人間の相互作用の中から析出するものであって、絶対不変(であるが故に普遍的)な根拠を持ち得ない。にもかかわらず、歴史的・文化的文脈の中では疑い得ない確実なものとして人々に受容され、簡単に取り換え可能でもない。したがって、相対主義を擁護するからといって懐疑論に陥る必要はない。この結論には100%同意する。だがその「論証」には少なからず疑問がある。

    著者は偶然を必ずしも排除しないが、責任の前提としての自由意思は頑なに否定する。自由意思は因果論で説明できないと言うのだが、因果論で説明できないことは「存在」しないことを意味しない。物事には必ず原因があるという因果論自体が一つの認識枠組であり、人間を離れた「客観的」なものではない。因果論を論理的に突き詰めると因果の起点として不動の動因たる神を要請せざるを得ず、「底」が抜けているのは規範論も因果論も同じなのだ。著者は生命の自律性を認めながら、これを自由意思と区別するが、例えばベルクソンのように、自律性と自由意思は判然たる境界を持たないグラデーションの両端として理解することも可能で、むしろその方が自然だ。行為が遺伝や環境の影響を受けるのは当然だが、遺伝や環境の影響だけで行為が帰結するとも言い切れない。評者は自由意思が存在すると言いたいのではない。存在しないと断定する根拠は乏しいということだ。だがいずれにせよ、著者の本当の狙いである普遍主義的規範論を否定するために必ずしも自由意思を否定する必要はない。著者も言うように、責任や規範が人間の相互作用の結果であるなら、どの道普遍的なものたり得ず、その相互作用が自由意思によるかどうかはさして重要でない。

    次に「虚構」という言葉の使用について。著者としては「虚構」と「現実」の二元論を便宜的に導入したのだろうが(便宜的でないとすれば著者の理解が中途半端なのだ)、著者の最終的な立場からは両者を区別できない筈で、逆効果としか思えない。「補考」で斎藤慶典氏の批判(虚構と現実は区別できない)を取り上げているが、斎藤氏の疑問に正面から答えてない。虚構という概念は現実ないし真理という反対概念を前提として初めて成立する。「色即是空」は関係論であって虚構論ではない。虚構という言葉は無用の混乱を招くだけだ。ついでに言えば、虚構が隠蔽されて初めて秩序が可能になるという言い方も逆立ちしている。ここには秩序には根拠がある筈だという近代的思考の残滓が顔を覗かせている。秩序を自明なものとして受容する者にとって秩序とは端的に存在するもので、初めから根拠など必要としていない。したがってその不在を「隠蔽」する必要もない。贈与の循環について、モースの説明とレヴィ・ストロースの説明は同値だという、実に鋭い関係論的洞察ができる著者だけに残念だ。

    そして最大の問題は著者自身が本書の意義を十分に自覚してないことだ。全ての規範は虚構だが、人間は虚構なしに生きられないのだから、臆することなく虚構と戯れるがよい。これが本書のメッセージだとすれば、そんな開き直りに何の意味もない。自らは記述に徹するとして、べき論に固執する哲学者を批判した筈の著者が、最後に実存に回帰してしまっては哲学者と大同小異だろう。著者は「虚構」の機能を精緻に分析するが「虚構論」の機能には無頓着だ。機能主義を徹底するなら、機能の記述にとどまらず、「機能の記述」の機能を記述せねばなるまい。犯罪行為を犯罪者に帰属させることが責任の機能だとして、それを「虚構」として記述することの意味は? 犯罪の刻印を帯びて社会から排除された反価値は、逆に社会の価値観を変革する創造的な力を潜在的に持つ。そうした犯罪の「効用」を破壊してしまわないためにも、違法と合法の境界はあくまで暫定的な「虚構」に過ぎないという自覚が大切なのだ。それが「虚構論」の機能に他ならない。

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著者プロフィール

小坂井敏晶(こざかい・としあき):1956年愛知県生まれ。1994年フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第八大学心理学部准教授。著者に『増補 民族という虚構』『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)、『人が人を裁くということ』(岩波新書)、『社会心理学講義』(筑摩選書)、『答えのない世界を生きる』(祥伝社)、『神の亡霊』(東京大学出版会)など。

「2021年 『格差という虚構』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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