不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 宗教に関する知識が圧倒的に不足する自分には、やや難解でした。
    本書を手に取ったのは、大好きなコラムニスト小田嶋隆さんがコラムで絶賛していたからという単純な動機から。
    でも、それだけではありません。
    米国のトランプ前大統領が、不法移民の取り締まりを強化する「不寛容政策」を推し進めたことで、「寛容」に対する社会の関心が高まりました。
    私も、その一人です。
    では、寛容とは何か。
    その歴史的な背景をひも解いたのが本書です。
    読了し、「寛容」に対する認識を新たにしました。
    本書を読むまで私は、俗に「寛大な処置」などと言うように、罪を軽減したり、あるいは立場を異にする人を許容したりするという意味で「寛容」をとらえていました。
    しかし、歴史的には、「大きな悪を回避できるなら、小さな悪を許容する」というように、打算的に用いられてきたようです。
    キーマンは、英国生まれの神学者ロジャー・ウイリアムズ。
    一般には政教分離原則を提案した人物として知られますが、米国の「寛容」の歴史を読み解くうえで、絶対に欠かすことのできない重要人物だったよう。
    ウイリアムズは、英国ロンドンでピューリタンとして生まれ、米国へ移ります。
    米国ではロードアイランド植民地の設立に関わりますが、米国インディアンを公正に扱い、終生、彼らとの交友を大切にしました。
    もっとも、性格は苛烈で、ある面では頑迷でもあったようです。
    ウイリアムズが一貫して唱えてきた「寛容」とは、「評価しないけど受け入れる」「嫌いだけれど共存する」という態度でした。
    実は、この態度は、中世的な寛容に根差してもいます。
    読後、気持ちが楽になりました。
    だって、内心では相手をどう思ってもいいということにほかならないのですから。
    内心では相手をどう思っていようと、受け入れる、共存する。
    これが、寛容の骨法。
    一読の価値ありです。

  • 寛容の本質は礼節である。相手を嫌っても良い。考えや価値観の違いなど認めなくて良い。異なる信仰など受け入れなくて良い。つまり心の中で何を思っても良い。ただし相手への礼節を守ること。その姿勢が寛容である。人は誰しも不寛容。だからこそ、ゆえに不寛容は寛容の基盤になり得る。

    そうした考えがなぜ建国以前のアメリカ大陸に芽生えたのか。
    中世の寛容論を紹介しつつ、建国以前のアメリカ大陸に渡ったあるピューリタンの生涯を通じて、寛容の精神というしたたかな共存の哲学がいかに生まれたかをアメリカ建国史とキリスト教を踏まえて浮き彫りにする。これは良書でした。お薦め。

  • 多様性という言葉が内包するのは、他者の意見を理解しろ、そして甘受せねばあなたの人間性を問われますよ、といった倫理の強要ではなく、寛容…理解できない思想でも最低限の礼節を守ること、なのだ。もちろん皆ひとつの方向へと向かうわけではない、しかし異を唱えるものを叱責・排除してもその社会は健全なるかたちへと成就しない。寛容は苦痛を伴う。真っ向から対立する信条に対峙せねばならないからである。心地よいものだけを追いかける方が断然楽である。その風潮はAIに盲信するネット社会が根底にあり、SNS等で "心地よさ" を助長して "糾弾" "淘汰" を正義だと誤信する。どこまでいっても "分断" しかないメソッドよりも "寛容" という茨の道の先により良い社会があるのではなかろうか。

  •  「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」、冒頭の一節に、「寛容論」の本質を定置し、それと対比した「不寛容論」を、アメリカ植民地時代の歴史に見る。
     民主主義社会の分断が指摘されているが、自らの正義を絶対視しない、誰かを批判する際にも、礼儀と礼節を持つ、というロジャー・ウィリアムズの言説へのコメントは、今が、そのような時代だからこそ重要なのだろう。

  • 最初に「宗教への寛容度が低い日本と中国は、宗教を重視する割合も低い」というデータが示される。

    これは実感として納得できる話である。
    「クリスマスも正月も祝い、結婚式は教会、葬式は寺。だから日本人は宗教に寛容である」というのは、ただの幻想であるということ。外来宗教との接触が少ない(浅い)からこそ、すべてを浅く取り入れることができ、深く浸透することはない。その浅さが寛容かのようにみえるだけである。

    寛容(不寛容)をテーマにした本書は、ロジャー・ウィリアムズという中世のピューリタンを軸にして語られる。
    内容はほとんどウィリアムズの評伝に近いが、彼の人生を通じて寛容(不寛容)とはなにかに光を当てる。
    ウィリアムズの対抗馬として用意されるジョン・コトンとの比較により、その光はさらに強さを増し、宗教という元来は不寛容な代物から寛容の精神を導き出すアクロバティックな論理は、なかなか見応えがある。


    何度となく書かれるのは、寛容とは不愉快な隣人を受け入れるということである。
    自らの良心と照らし合わせて、それが悪であったとしても、しぶしぶ受け入れるということ。

    本書のラストで、現在のリベラルが持つ欠点が抉り出される。リベラルの態度は、手放しで受け入れるのが基本である。しかし、それはかんたんなことではない。他人事なら綺麗事も言えるが、自らの身に差し迫った悪に対して無条件に寛容となれという命令は、なかなかハードルの高いところである。

    その点、本書の結論は実践的でもある。
    なんでも受け入れるのではなく、しぶしぶ受け入れるということ。本書は寛容のハードルを下げるために書かれたといっても過言ではないと思う。

  • 不寛容がまかり通った植民地時代のアメリカで「寛容」を説いた神学者ロジャー・ウィリアムズの人生から、寛容とは何かを読み解いた本。

    「人は、未知のものには不寛容に、既知のものには寛容になりやすい。」
    人は知らないものに恐れをいだく。寛容になるには「自分と違うもの」を受け入れること。そして、相手を知ろうという気持ちが大事。

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著者プロフィール

1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)学務副学長、同教授(哲学・宗教学)。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体‐‐寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社)、『反知性主義‐‐アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『異端の時代‐‐正統のかたちを求めて』(岩波新書)など。

「2019年 『キリスト教でたどるアメリカ史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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