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感想・レビュー・書評
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探検家、アルセーニエフはウスリー地方への踏査の折に、ゴリド人のデルスーに出会い、探索を共にする。彼を通して見える極東ロシアの厳しくも美しく、豊かな自然、そこに生きる少数民族とその悲哀。
本書は知る人ぞ知る名著で存在は知っていたのだけど読んだのは初めて。いかんせんマニアックが過ぎて絶版しても古本にはプレミアが付く始末。とても買えないので図書館でどうぞ。
さて、読む前はゴリド(ニニウ)のデルスーの自然観や自然の中で生きるために蓄積された知識や生活技術について、探検記の中で紹介していく本なのかな、と漠然と思っていた。実際にそのように読んでいて、実に緻密な自然環境の描写や行動の苦労、キャンプの楽しみをまるで一緒にウスリーの原野を歩いているように思えて興奮したものだ。中には極東の少数民族が中国人の迫害を受けてその生活様式を失っていく様子などの描写はあったけど、それはあくまでも淡々と記述された探検記録の一部だった。ところが老齢のデルスーが原野で生きていけないことを悟った終盤からはストーリーが一変して意味を持っていることに気づく。
これはただの探検記ではなくて、文明によってすり潰されてゆく、木々や川や山や、そこに生きる動物たち、そしてその自然に抱かれて生きる人々への悲哀を、デルスーを通して描くレクイエムなのだ。
終盤、原野での生活をあきらめざるをえなくなったデルスーは、アルセーニエフを頼って都会(ハバロフスク)に住むが、自然とともに生きる今までの生活とのあまりの違いに適応できず、森に帰ろうとして命を落とす。ここでは自分ではなくて他人に合わせて生きねばならない、と言って苦しむデルスーの姿がとても重い。とりもなおさずそれは文明からの同化圧力にさらされ、苦しみ、消えてゆく北方の少数民族の姿そのもので、アルセーニエフはデルスーの姿を通してそのことを記録にとどめたかったのかもしれない。そう思うと、この本に込められた悲哀が感じられてとても切ない読後感になる。ちなみに少数民族の生活を破壊し尽くす文明の手先として登場するのは中国人、朝鮮人、ロシア人、そして日本人だ。中世にかけてエミシやクマソを、近世から現代にはアイヌや琉球をすりつぶしてきた我が国の歴史を思う。
最後にはデルスーの埋葬場所までが都市化されて跡形もなく消え去ってしまう。その描写からは、自然とは何か、文明とは何か、人間らしく生きるとはどういうことなのかを問いかけられているような気持ちになる。いろいろなものをすりつぶして、すっかりその気になって文明の主人みたいな顔して生きている私たちは、時々自然から思いっきり横っ面を張り飛ばされることがある。そんなとき、この本を読み返して自然の中のちっぽけな自分がどう生を全うすべきなのか、じっくり考え直してみる機会にすることも一興ではないだろうか。
読み応えがあるのでSTAY HOMEで暇を持て余していたらぜひどうぞ。映画「春にして君を思う」と一緒に楽しむのもいいかもしれません。網走市の「北方民族博物館」で極東ロシアの少数民族たちについて予習をしてから読むとなお吉です。もちろん「ゴールデンカムイ」もね。詳細をみるコメント0件をすべて表示