現代思想入門 (講談社現代新書) [Kindle]

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  • 講談社
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  • 「入門のための入門」を標榜する現代思想入門書。主に「1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学」を対象としている。全七章に「現代思想の読み方」が付属して約230ページの新書。

    本書の核として扱われる思想家はデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人で、三章までがそれぞれに充てられている。名前は知っていても難解なイメージが先行して手を出しづらい思想家たちの思考の特徴をそれぞれ、「概念の脱構築」「存在の脱構築」「社会の脱構築」と定義し、初心者でも理解しやすい範疇でわかりやすく大枠を伝える。本書の主役にあたるこれら三人の思想家については、後につづく章でもたびたび登場する。

    第四章では現代思想の源流としての、ニーチェ、フロイト、マルクス(さらにショーペンハウアー)を取り上げる。「秩序の外部、あるいは非理性的なもの」にはじめて着目した思想家として、現代思想の基本的なコンセプトの原型として理解できる。第五章は、第四章と三章までの前後をつなぐような意味合いで、主にラカンの精神分析の概要を解説する。

    「現代思想のつくり方」という一風変わったアプローチの第六章は、現代思想の4つの原則を提示し、これまでの振り返りと、続く第七章の予習を兼ねる。第七章ではエピローグ的に「現代思想」のその後、として「ポスト・ポスト構造主義」を紹介する。巻末の付録では「現代思想の読み方」として、「現代思想を読むための四つのポイント」を挙げる。そのうえで実際にドゥルーズとデリダの文章を引用して、ポイントを踏まえての読み方を検証する。第六章以降は、本書全体のなかでは補足的な役割を担う。

    身近な例もふんだんに交えた丁寧な説明で、難解でとっつきにくい印象の強い現代思想への興味を損なうことなく導入してくれる。わかりやすさへの工夫と並んで特徴的なのが、本文中でたびたび紹介される、それぞれの思想家や思考法にまつわる入門書を中心とした関連書籍の豊富さだ。「入門書のための入門書」と宣言するだけあって、本書をきっかけに読み手がそれぞれの興味に従って次に進むための配慮がなされている。かつ、付録の「現代思想の読み方」は一種の読書論として、読書の基本姿勢について有用なアドバイスを与えてくれる。

    上記のように読み手への心遣いが非常に手厚い入門書となっており、とくに入門を謳いながらもかなりの知識を要求するケースも珍しくない哲学・思想関連の読み物にあっては異例ではないだろうか。それだけではなく、現代思想を学ぶことが、「複雑なことを単純化しないで考えられる」ようになり、生きていくうえでの指針を与えてくれるというメッセージも、学習のモチベーションや知的な好奇心をかきたててくれる。様々な観点から読み手に寄り添うことに徹した良書だと思える。

  • この本は、「現代思想(ポスト構造主義)」について、わかりやすく解説された本ですが、私にはなかなか難しく、なかなか理解できませんでしが、とても魅力ある本でした。
    哲学を丁寧にわかりやすく解説できる著者の知識に感心しました。
    「実存主義」から「構造主義」そして「ポスト構造主義(ポストモダン)」の後、「ポスト・ポスト構造主義?」という位置付けの現代の哲学者が、現在、何のテーマについて考えているか?なども解説されており、ちょと哲学にも興味が出ました。
    この本がベストセラーになった!というのもいいですねー。

  • 哲学者・千葉雅也氏による”現代思想”入門。
    とはいえいわゆる、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダに代表される現代思想の著作はもはや古典といってもいい(ジャック・デリダは2000年代はじめに亡くなっている)。

    彼らの哲学は「ポスト構造主義」といって一括りにされることが多いが本書はそのポスト構造主義の巨頭3人の思想を核として書かれている(ちなみに著者の専門はジル・ドゥルーズ)。

    本書を俯瞰すると、
    第1〜3章までがフーコー・ドゥルーズ・デリダの基本的な解説。

    第4章で、彼らの哲学形成に影響を与えたニーチェ、マルクス、フロイトの概説。

    第5章は、フロイトの流れをくむ精神分析家ジャック・ラカンについて。彼の思想に対する距離の取り方が、フーコー・ドゥルーズ・デリダの哲学にも反映されていることを示唆。
    ここで「否定神学批判」(+東浩紀『存在論的、郵便的』への言及)という重要なワードが説明され、

    第6、7章では、フーコー・ドゥルーズ・デリダを批判継承した「ポスト・ポスト構造主義」(なんてややこしい!)の哲学者たちを紹介(マラブー、メイヤスー 、ハーマンとか)。
    さらに、否定神学批判に対するよりつっこんだ議論あり。上の三者の思想が図式化されもするが私はこれにいちばんびっくりした。

    おまけになんと付録で、ドゥルーズやデリダの厄介なテクストを具体的に引用しながら、読み方のコツまで伝授してくれている、まさに至れり尽くせり。自分が哲学書を読み始めた頃に本書があればどれだけよかったか。なんかテレフォン・ショッピングみたいになってきた(今もあるのかな?)。


    のみならず、本書のタイトルは、アクチュアルな、”いまにつながる”思想という意味での”現代思想”入門でもある。

    ちょっと言い方がよくないかもしれないけれど、巷にあふれているそんじょそこらの自己啓発書よりも、よほど優れた自己啓発書だと思う。

    ひとつは、「二項対立(わかりやすい例でいえば「善と悪」とか)にとらわれない!実践的思考メソッド」が紹介されていると言い換えることもできる。
    (これを突き詰めて行くと、「ほっといてくれ!」の思想になるという解釈であってるかな)

    もうひとつは、「できる限り悩まない!新たな世俗性を生きる」という人生論。悩みという近代的ドツボにはまらないライフハック。ここは千葉氏の『勉強の哲学』と合わせて読みたいところ。(また『動きすぎてはいけない』で展開されたアイロニー/ユーモア論への理解が深まってよかった)

    ここめちゃくちゃ重要だし参考にしたいと思った。
    とくに、「第3章 フーコー 社会の脱構築」の「新たなる古代人になること」、それから「第7章 ポスト・ポスト構造主義」の「世俗性の新たな深さ」のくだりは必読。再読するつもり。

    というわけでフーコー・ドゥルーズ・デリダなどの著作を読むきなんてさらさらない、という人にとってもきっと多くの発見があるだろう本だ。

  • とりあえず読み終わったദ്ദി ˃ ᵕ ˂ )
    理解出来たかと言われるとうつむいてしまうけど。
    取っ掛りにはなる。離れたくはないところだが、自分の言葉では語れない。
    こういう事を考える人達の名前や存在を知れてよかった。今はそこまで。もっと早く読めばよかった。

  •  Audible でラン中に聴取。自分が本を「聴いて」読むことに慣れてきたせいかもしれないが、本書は相当に聴きやすい。読まれることよりもむしろ聴かれることが前提となっているのではないか。おそらく大学等での講義録を基にして書き起こされたものなのだろう。テーマ自体は難解な思想を扱うものだが、工夫に富んだ精緻な再整理によって、驚くほど理解しやすいものになっている。ちょっと混みいっている本だと何度も聴き返せさねばならずランニング中には適さないが、本書は良質なパラフレーズが多用されており、多少の聴き逃しがあってもついていけるのが良い。

     「二項対立の脱構築」を中心軸としてデリダ、ドゥルーズ、フーコーを取り上げ、さらにその源流としてのニーチェ、フロイト、マルクスとラカンらの精神分析に遡っていくことで本書のテーマである「秩序と逸脱」にアプローチしていく。その後のコンテンポラリーな思想になると議論が入り組んできて理解しにくい所もあるが、全体の構成のわかりやすさが語り口の柔らかさと相俟って、すんなりと頭に入ってくる。本書で紹介される思想家たちの哲学に直に触れようと思うと相当な覚悟がいるのだと思うが、著者のような優れた媒介者のフィルターを通してそのエッセンスに気軽に触れられるというのは、我々のような一般市民にとって本当に幸運なことだと思う。

  • 難しい現代思想を“分かりやすい言葉で説明してくれているから読んで良かった。あとはどれだけ、曖昧な知識を確かなものにするかということと、この哲学者たちの世の中の捉え方に触れて馴染んでいくかということになりそうだ。そういった意味では、千葉雅也さんの功績は大きい。これは自分に限ったことではなく、多くの読者がそう思ったに違いない。
     ただ、そう遠くないときにもう一度千葉雅也さんの著書に触れないと、もう二度とこの世界に足を踏み入れることは無くなるだろう。

  • 現代思想として前半は、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの3人を取り上げ、脱構築(二項対立からの逸脱)を解説。後半は一旦ニーチェ、フロイト、マルクス、(カント)を振り返りながら、さらに精神分析と現代思想をラカン、ルジャンドルを取り上げながら解説。最後には現代思想の作り方として、排除されている他者性の発見、超越論的前提の設定、極端化、反常識を考えることを紹介。ポストポスト構造主義あたりはかなり難しいのですが、ハーマンのオブジェクト指向やラリュエルの非哲学を紹介。
    構造主義は西洋白人中心主的な歴史の発展性に疑問を投じた功績はあるものの、構造的な見方をした場合、責任が生じにくいため、主体性が相対的に低くなるという課題があったと考える。脱構築では、構造主義の相対主義的な要素は受け継ぎつつ、二項対立や秩序の外側へ逃走線を引き、他者性を排除しない前提を立てていく姿勢を感じた。

    現代思想に触れることで、秩序を強化する動きを警戒し、秩序からズレるもの、差異に注目でき、複雑なものごとをより高い解像度で理解できるようになれるとのこと。確かに難しくはあったが、物事のとらえ方の参考になる考えはたくさんちりばめられていた。完全に消化は仕切れないが、問いや疑問が生じたため、次の哲学の扉を開けるキッカケになる本だと思います。

  • 読みたいと思って購入はしていたが、難しそう…という思いでなかなか手が伸びなかった一冊。
    「入門書の入門書」的な位置づけだという触れ込みもあり、どれぐらい理解できるかと思って読んでみた結果…いや、全然難しかったなという印象。
    特に第四章以降はまるでお手上げでした。興味はあっても自分に哲学というジャンルは向いていないのかな…と軽く落ち込みました。。
    なんとか第三章までは読んでみた。デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ここまではある程度理解はできたと思う。
    超ざっくり言えば、何でもかんでも白か黒かで分けてそこに優劣を決めてこっちが良いこっちが悪いと決めつけて管理するようなことはやめて、もっと多様性を認めて他者を尊重しあっていきましょうと言ったところだろうか。
    (…やっぱり大して理解していないかもしれない。。)
    いつかこの本を再読して普通に理解できる人間になりたいと思いながら、そっと本棚に戻させていただくことにする。。

  • 哲学や思想の中でも、現代思想に特化しているのがこの本。哲学者たちの超読みにくい書物の概要と要点を、時代背景やその系譜などを踏まえて、かみくだいた言葉で説明してくれる本です。
    代表的な人物や思想はもちろん、私たちが生きる現代にまでその思想の流れが含まれるのも特徴。
    新書でわかりやすいながらも、読み応えはばっちりなので、長期休みやまとまった移動時間などに腰を据えて読むことをオススメします。

  • - ストーリーを通じて頭の中に現代思想が論点にしていることのマップを作ってくれる本。
    - ***
    - 第一章 デリダ
    - 黄色のハイライト | 位置: 58
    - 現代思想を学ぶと、 複雑なことを単純化しないで考えられる ようになります。 単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになる でしょう。
    - 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。 それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
    - 確かに現代思想には相対主義的な面があります。後で詳しく述べるように、 二項対立を脱構築する ことがそうなのですが、それはきちんと理解するならば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK」なのではありません。そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。みんなバラバラでいいと言っているのではありません。 いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンス なのです。
    - このように、二項対立のプラス/マイナスは、あらかじめ絶対的なものとして決まっているわけではなく、ひじょうに厄介な線引きの問題を伴うのです。その線引きの揺らぎに注目していくのが脱構築の思考であると、まずは言えると思います。
    - 大きくフランス現代思想を捉えるには、「差異」というのが最も重要なキーワードです。ポスト構造主義=現代思想とは「差異の哲学」であると、ひとことで言ってよいと思います。
    - 「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティティ」と対立しています。同一性とは、物事を「これはこういうものである」とする固定的な定義です。逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考です。
    - 今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、 ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針 なのです。
    - ですから、 何か「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくようなイメージでデリダの世界観を捉えてほしい のです。
    - 人が何かを主張するときには、基本的に、そこに含まれている二項対立をこんなふうに分析することが可能なのです。  まずこの発想をとった上で、ここでマイナスの側に置かれているものをマイナスと捉えるのは本当に絶対だろうか? という疑問を向けるのが、脱構築の基本的発想です。
    - 大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。 脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入する のです。自分が自分に最も近い状態でありたいということを揺さぶるのです。 「自分が自分に最も近い状態である」というのは哲学的な言い回しかもしれませんが、それがつまり同一性です。それは自分の内部を守ることです。それに対して、デリダの脱構築は、外部の力に身を開こう、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という 鎧 を破って他者のいる世界の方に身を開こう、ということを言っているのです。
    - ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただきたいのですが、すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした 未練こそが、まさに他者性への配慮 なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要があるのです。  脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思います。
    - 逆に言うと、人が何らかの決断をせざるをえないということは「赦す」しかないのです。決断の許諾とそれが排除しているものへの批判は、仕事をし、社会を動かしていかざるをえないという現実性においてバランスを考えるしかない。そしてそのバランスをどうするかに原理的な解決法はないのです。ケース・バイ・ケースで考えるしかない。
    - このように本書では、差異や他者からの訴えの重要性を説明した上で、しかし決断や同一化はそれはそれでせざるをえないものなのであって、それと他者性との向き合いが拮抗するなかで生きていくしかないのだ、ということを強調します。そのことをはっきり言う現代思想の入門書であるということが、大きな特徴だと思います。
    - 第二章 ドゥルーズ
    - 有名な概念ですが、 横につながっていく多方向的な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。
    - AとBという同一的なものが並んでいる次元のことを、ドゥルーズは「アクチュアル」(現働的) と呼びます。それに対して、その背後にあってうごめいている諸々の関係性の次元のことを「ヴァーチャル」(潜在的) と呼びます。我々が経験している世界は、通常は、A、B、C……という独立したものが現働的に存在していると認識しているわけですが、実はありとあらゆる方向に、すべてのものが複雑に絡まり合っているヴァーチャルな次元があって、それこそが世界の本当のあり方なのだ、というのがドゥルーズの世界観なのです。  アクチュアルな次元においては、Aとそれ以外の非Aという独立したものがあるわけですが、ヴァーチャルな次元ではAと非Aという対立が崩れ、すべてが関係の絡まり合いとして捉えられる。このような意味で、ものの存在をある同一性とそれ以外という対立関係から解放し、普遍的な接続可能性として捉えるところが、「はじめに」で予告した「存在の脱構築」の核心です。   一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている ──という世界観は、一九六〇─七〇年代に世界中に広がっていった世界観だと思いますが、これを哲学的に最もはっきり提示したのがドゥルーズだと言えると思います。
    - 一般的に差異というと、Aというひとつの同一性が固まったものと、Bというまた別の同一性が固まったもののあいだの差異、つまり「二つの同一性のあいだの差異」を意味することが多いと思いますが、ドゥルーズはそうではなく、 そもそもA、Bという同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている、とでも言うか、いたるところにバランスの変動がある、という微細で多様なダイナミズムのことを差異と呼んでいるのです。世界は、無数の多種多様なシーソーである。  一方、同一的だと思われているものは、永遠不変にひとつに固まっているのではなく、諸関係のなかで一時的にそのかたちをとっている、という捉え方になります。先ほども言ったように、このことを僕は「仮固定」と呼んでいます。ちなみにドゥルーズ自身はそのことを「準安定状態」と呼びます(これは科学の用語で、これを哲学に応用したのはジルベール・シモンドンという哲学者であり、ドゥルーズはその議論を参照している)。同一性を、準安定状態=仮固定として捉え直すのです。
    - 生成変化は、英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir) です。この動詞は、何かに「なる」という意味です。ドゥルーズによれば、 あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。 事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。
    - 結果、最後の仕上げも、究極の完成形を目指さなくてよくなります。どこまで行ったってプロセスなんですから、それをある程度のところで「まあいいや」と終わりにする。このようなことを『ライティングの哲学──書けない悩みのための執筆論』(星海社新書) という本で説明しました。  こういうことも実はドゥルーズの思想とつながっているのです。 すべては生成変化の途中であると考えたとき、すべてを「ついで」でこなしていくというライフハックになる。すべての仕事をついでにやる ──これがドゥルーズ的仕事術ですね。
    - ドゥルーズ+ガタリの思想は、外から半ば強制的に与えられるモデルに身を預けるのではなく、 多様な関係のなかでいろんなチャレンジをして自分で準安定状態を作り出していけ、ということだと言えるでしょう。
    - 僕自身は、精神分析的な家族関係の解きほぐしが無意味だとは思いません。ただ、それだけですべてが解決する、そこにすべてが集約されているともまたドゥルージアンとしては思いません。ここはダブルで考えていて、まず家族関係の分析は、それはそれでやったらいい。と同時に、そこにすべてを集約させないで、より多様な関係性に自分を開いていくのです。それはつまり、自分が小さい頃にどんなものを外で見てきたか、どんな人間関係が家族の外に広がっていたか、といったことです。
    - リゾームとは、本章の冒頭で言ったように、多方向に広がっていく中心のない関係性のことです。そして重要なのは、 リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある、と言われていることです。 それを「非意味的切断」と言います。 つまり、すべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる、と。
    - こういうふうに無責任の重要性なんて言うと、そんなことがなぜ重要なのかわからないという批判があるかもしれませんが、たとえば誰かを介護しなければいけないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。関わる必要があっても、関わりすぎないという按配が問われるわけです。  見捨てられ、不幸な目に遭っている人たちが多いという社会批判的な認識から、より関わりが必要だということが言われるのは、その通りだと思います。だけれど、 関わりばかりを言いすぎると、それによって監視や支配に転化してしまうという危険性があって、それに対するバランスとして、関わりすぎないということを言う必要もある、というのが僕がドゥルーズから引き出している重要なテーマなのです。
    - むしろ、より温かい社会を目指すからこそ、「すぎない」ことが必要とされるのだ、というのが僕が言いたいことなのです。
    - 第三章 フーコー
    - 支配する者/される者が相互依存的になっているのだとしたら、フーコーはそういう構造の外に逃れることはできない、とでも言いたいのでしょうか?  そうではありません。フーコーの思想につねにあるのは、権力構造、あるいはフーコーの言葉で言うと、「統治」のシステムの外を考えるという意識です。ドゥルーズの用語で言えば、秩序の外部への「逃走線」を引くということがフーコーの狙いなんです。
    - こうして、体が動くより前に踏みとどまる空間が自分のなかにできていく。だから近代的個人は、本当に監視者がいるかどうかがわからないのに、不正行為を、殴り合いを、共同謀議をしなくなるのです。自発的に「大人しく」なっていく。   これが個人的な心の発生だとも言えます。今日のプライバシー、個人的なものというのは、そういった自己抑制と共に成立したのです。  逆に言えば、それ以前の時代には、そういうふうに自分の行動を前もって管理するという力はもっと弱かっただろうと推測されるのです。つまり、人々はもっと行動的であって、マズいことをやらかしたら、その都度に罰せられるだけ、という面がもっと強かったのではないか。
    - 大規模に人々を集団、人口として扱うような統治が成立していきます。こちらの側面をフーコーは「生政治」(bio-politics) と呼びます。生政治については『性の歴史Ⅰ』で説明されています。 生政治は内面の問題ではなく、もっと即物的なレベルで機能するものです。たとえば病気の発生率をどう抑えるかとか、出生率をどうするかとか、人口密度を考えて都市をどのように設計するかとか、そういうレベルで人々に働きかける統治の仕方です。  新型コロナ問題を例にしてみると、「感染拡大を抑えるために、出歩くのを控えましょう」といった心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったって出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病気が悪くならないようにするために、ワクチン接種をできるかぎり一律にやろう」というのが生政治です。
    - ですから、 近現代社会においては、規律訓練と生政治が両輪で動いている と捉えてください。その上で、今日では、心の問題、あるいは意識の持ち方に訴えかけてもしょうがないので、ただもう即物的にコントロールするしかないのだという傾向がより強まっていると言えると思います。つまり、生政治の部分が強くなってきている。
    - 「心から脳へ」という最近の精神医学の転換も、大きく言えば、生政治の強まりだととることができます。
    - 近代において初めて、良いアイデンティティと悪いアイデンティティが成立した……そして、ここは理解が少し難しいところだと思うのですが、 アイデンティティなるものが成立するそのときに、良いアイデンティティと悪いアイデンティティという二項対立が同時に成立した のです。それ以前の人間の人生はもっとバラバラだった。ただし、根本にはキリスト教的な、自分は罪を犯してしまうのではないかという反省性があり、それが後に近代において本格的に統治に利用されるようになっていくわけです。
    - というのは要するに、変に深く反省しすぎず、でも健康に気を遣うには遣って、その上で「別に飲みに行きたきゃ行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的なんだという話です。こういう世俗性こそがフーコーにおける「古代的」あり方なのです。
    - 第4章 ニーチェ、フロイト、マルクス
    - むしろ 非理性的なものの側に真の問題があるという方向転換 がなされるのです。その代表者がニーチェであり、フロイトであり、そしてある意味でマルクスなのだということです。  すごく雑に言ってしまえば、「ヤバいものこそクリエイティブだ」という二〇世紀的感覚、あれを遡るとこの三人になる ということです。
    - 今日、 自分がはっきり意識できない、よくわからない理由で何かやってしまった というようなことは、「無意識だった」と言われますが、そもそもそういう使い方で無意識と言うこと自体がフロイトの発明ですから、二〇世紀以後の我々はフロイトの思考の影響下から逃れられなくなっていると言えます。人間は自分のことすべてをコントロールできてはおらず、何か「やってしまう」という、いわば自分のなかに別の自分がいるというか、意識を裏切る「盲目的な意志」(ショーペンハウアー) に動かされている面があるわけです。
    - 精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当てはめることではなく、ありとあらゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけてしゃべっていく過程を経て、徐々に、自分が総体として変わっていくことなのです。
    - つまり、 無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、自分の人生のわからなさは、過去の諸々のつながりの偶然性なのです。  今自分にとってこれが大事だとか、これが怖いとかがあり、それについて物語を持っているとして、「それはあのときにああいう出会いがあったからだ」と振り返るときのその出会いは、たまたまそうだったというだけ、そしてそのことが深く体に刻まれてしまったというだけであって、その「運命」に意味はありません。たまたまです。  でも人間はまったくわけもわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくない。我々は意識の表側で必ず意味づけをし、物語化することで生きているわけですが、その裏側には、それ自体でしかない出来事の連鎖があるのです。  ただそのことに直面するのが通常は怖いので、人はさまざまな物語的理由づけをします。しかし精神分析の知見によれば、まさにそのような物語的理由づけによって症状が固定化されているのです。むしろ、無意識のなかで要素同士がどういう関係づけにあるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症状が解きほぐされることになるのです。
    - すなわち、 同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見すること だと思うのです。こうして、みずからの力を取り戻すという実践的課題において、ニーチェとフロイトとマルクスが合流することになるのです。
    - 第5章 ラカン、ルジャンドル
    - 表面の秩序というのは二項対立的な組み立てです。そこから逃れるものは、デリダであれば脱構築によって問われるグレーゾーンであり、ドゥルーズだったら逃走線の先の外部ということになります。人間の思考や行為には整序されたものだけでなく、不合理な力の流れに任せている面があって、本当の人間理解に至るには、秩序をはみ出すようなディオニュソス的で 禍々しいものを人間に見出すのでなければならないのです。   精神分析は、ひとつの人間の定義を与えます。それは、「人間は過剰な動物だ」ということです。 過剰さ、あるいは秩序からの逸脱性。僕はよく「人間はエネルギーを余している」と言っています(これは方言っぽいですが、「余らせている」より「余している」という言い方がなんとなく僕には自然 です)。
    - 本能のレベルに異性愛の大きな傾向があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベルにおいてたとえば同性愛という別の接続が成立することがありうるのです。 性愛のことだけでなく、何か特定のものに強い好みを持ったりとか、そういう自由な配線が欲動の次元で起こるのです。  本能的・進化論的な大傾向はあるにせよ、欲動の可塑性こそが人間性なのです。
    - まず言っておくと、とにかく、 人間がいかに限定され、いわば「有限化」されるか ということがここからの主題になります。つまり、有限化が主体化なんです。
    - 成長してからの欲望には、かつて母との関係において安心・安全(=快楽) を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽) を味わったことの残響があるのです。
    - これを手に入れなければと思うような特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象a」と言います。 人は対象aを求め続けます。  ラカン理論はひじょうに意地悪で、何らかの対象aを仮に手に入れたとしても、本当の満足には至らないということを強調します。対象aというのはある種の見せかけであって、それを手に入れたら幻滅を同時に味わうことになり、また次の「本当に欲しいもの」を探すことになる。そうやって人生は続いていく。  そう言うと人生は虚しい感じがしますが、でもそれでいいんです。 もし何か手に入って、「よし、これで人生の目標が達成されたぞ」となったら、その後生きていく気力がなくなってしまいます。結局、何らかの対象aに憧れては裏切られるということを繰り返すことによって人生は動いていくのです。
    - この捉えられないXというのは、二項対立を逃れる何か、グレーで、いわく言いがたいものです。人間はなんとかそれを捉えるために新たな二項対立を設定して、だがまた取り逃し……というように生きていく。   このようなXに牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。
    - 第6章 現代思想のつくり方
    - 黄色のハイライト | 位置: 1,872
    - 僕の仮説ですが、フランス現代思想をどうつくるかというとき、三つあるいは四つの原則を立てられると思います。それは、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、です。四番目はやや付け足し的かもしれません。
    - そこで、言葉に無理をさせる必要が出てきます。というか、こういうときに言葉に無理をさせるのが哲学者の面白いところです。「ある」というのは我々にとって根本的ですが、さらにそこから外れるものをかろうじてすくいとるために、存在するとは「別の仕方で」、「別様に」というふうに、 もはや副詞でしか言えないこと を言おうとするんです。結果、「存在するとは別の仕方で」で止める、という無理やりの表現がつくられ
    - この言い方には反感を持つ方もいるかもしれませんが、ポスト・ポスト構造主義の段階を説明するには、やはり「逆張り」という言葉が便利です。これまでの現代思想で是とされてきた「差異の方へ」という方向づけに対して、逆張りをする。つまり、同一性の側に何らかの肯定的な意味を持たせるということです。ただし、それは差異が重要ではないと言いたいのではなく、差異の思考をより押し進めるためにこそ同一性の側にもう一度注意を向けるという展開をとるのです。
    - このようなメイヤスーのポジションを現代思想の展開のなかで捉え直してみましょう。先ほどから出ている言葉ですが、「意味づけ」というのがキーワードです。  デリダ、ドゥルーズ、フーコーにおいて共通して問題とされているのは、「これが正しい意味だ」と確定できず、つねに視点のとり方によって意味づけが変動するという、意味の決定不可能性、あるいは相対性です。
    - しかし、メイヤスーの議論はそういった「常識的に考えて歴史的事実はちゃんとある」というような話よりもっと深いところまで到達しています。  揺るぎない客観性は数学的だとされるわけですが、メイヤスーの場合は、事物を数学的に記述すれば世界の真理がわかるという話には留まりません。前章で述べたように、メイヤスーによれば、この世界がこのようにある、ということには必然性がなく、世界はたまたま、偶然的にこうなっているのであって、だから世界は突然別ものに変わるかもしれない。客観的世界は根本的な偶然性の下にある、という主張にまで進むのです。
    - フランス現代思想、あるいは悪い意味でのポストモダン思想は、「物事は相対的で、どうにでも言えると言っているから陰謀論を招き寄せてしまう。だから客観的事実をちゃんと追求しよう」などと言われるわけですが、メイヤスーにおいては、「確かに客観的事実というものはあるのだが、客観的事実の客観性を突き詰めるならば、客観的事実は根本的に偶然的なものであり、いくらでも変化しうる」という、より高次の、実在それ自体に及ぶ相対主義のようなものが出てくることになります。

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著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

千葉雅也の作品

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