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本 ・電子書籍 (1097ページ)
感想・レビュー・書評
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本文が二段組・約600ページのボリュームで、聞いたことの無い人物の話が次々に出て来るので、読了に時間を要した。訳者のあとがきがわかりやすい解説になっていて、あとがきを読んだ後に目次→本文と見直して理解することができました。
人類史としての新たな発見は続いており(既に発見されてはいたが欧米中心の主流な思想の前では無視されてきたことも多いらしい)、人類は当初から想像力に富み、知的で、遊び心をもっていたこと・・・新・真・世界史が語られている(と思う)。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これはとてつもないポテンシャルを持った本だ。
本の帯にあるこれまでの「人類史を根本からくつがえす」という謳い文句にはいささかの誇張もない。
人類学者グレーバーと考古学者ウェングロウのコラボは素晴らしい成果を生み出した。
有史以来と先史時代という対比があるが、人類の歴史が700万年、ホモ・サピエンスになってからでも20万年、言葉を獲得してからでも7万年とすると、ほとんど文字を持たない時代で占められており、その間の歴史は闇に包まれたまま、「単純化」されていたわけだ。
その先史時代と西側「文明社会」との出会い以前の社会を最新の研究成果に基づいて描き出す。
そこに立ち現れるのは、(未熟で野蛮な人間ではなく)遊び心と創意に満ちて成熟した人間像としばしば実験的な多様な社会のあり方である。
それゆえ著者たちは問うのである。
なぜ私たちは、このような暴力と支配に満ちた社会に閉じ込められるようになってしまったのか、と。
そこから脱出することの可能性を豊かに示してくれた希望の書。 -
ルソーとホッブズの言う「高貴な野蛮人」「万人の闘争状態」は黎明においては
間違いに過ぎない。かつての文明は一方通行の発展をしてきたわけではなく、
極めて自覚的、選択的に集団のあり方を選んできた、と言う趣旨。二週間かかった。 -
人類学やフィールドワークを行う学生にとっては読んでおく方がいい本である。さらに、世界史あるいは日本史について学習を疑う学生にもお勧めである。特に三内丸山遺跡についての言及で、縄文時代と弥生時代という区分がすでにおかしいということがはっきりわかるように書いてある。
また、部族、首長制、国家という順序ではない、ということを明確に書いている。
ハラリやジャレドダイヤモンドやピンカーなどの文明論を読んだ人やルソーの人間不平等起源論やトマスホッブスのリヴァイアサンを読むときには併読すべきほんであろう。
ただ5000円と高額なので、学生向きには文庫本で1000円でしゅっぱんされることを望む。 -
少々難解な文章で値段も高いが、歴史に対する見方がガラッと変わる十分に読む価値のある本である。閉塞まで行き着いた現代にあって新しい時代に生まれ変われる可能性と希望を感じさせてくれる。又、訳者あとがきも章ごとに丁寧に解説されており読解力不足の自分を助けてくれる素晴らしい内容。訳者あとがきから先に読むのもありかも。
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本書は、これまで西洋中心主義に毒されてきた人類史に対する一種の殴り込みの書といっていいだろう。
巷では「ビック・ヒストリー」が人気だ。人類発祥の物語から現代にいたるまでの壮大なスケールをグローバルな視点で一気にとらえたベストセラー作家が目白押しである。現代世界の抱える深刻な状況が、人々をして、そうした視点を養う物語を期待させているのかもしれない。
しかし、これら「ビック・ヒストリー」は西洋中心主義から一歩も抜け出せていない。それはホッブスとルソーの往復グラデーションのどこかに位置した焼きまわしに過ぎないのだ。
人類は邪悪であり、放っておけば「万人の万人に対する闘争」で北斗の拳も真っ青の暗黒世界の様相を呈する。だが人類は進化を続け、国家を生み出し、そこに暴力のコントロールを委ねることで安寧を得た。このホッブス版人類史観に対し、いや、人類の黎明期は無垢で平等主義で、平和な世界だった。しかし、エデンの園の物語のように、ある時から知恵をつけた人類は、次第に悪にまみれ、堕落していった。だからこそ、人類はもう一度自然状態に帰るべきなのだ、というルソー的人類史観が対峙する。
いずれも、かつての人類は善であれ悪であれ単純な存在にすぎず、それが時代を下るにつれ進歩・発展していったのが現代の我々だ、という暗黙の了解がその根底に流れている。
さて、西洋史観から見たこれまでの考古学、人類学に支配的な見方をざっとおさらいしておく。
巷に流布する人類史のテンプレは、こうだ。人類の黎明期は無邪気な狩猟採集民で、小規模な集団で暮らしていた。人数が少ないから、平等で暮らせた。ところが、「農業革命」が起き都市が出現すると、これが「文明」と「国家」の先駆けとなる。ここから文字、科学、哲学が現れる半面、家父長制、軍隊、大量殺戮、官僚制など現代にまで通じる人類のありとあらゆる悪が現れる、云々。
本書の2人の著者はそこに何度も殴り込みをかける。
当初、著者たちは、人類がいかにして不平等になったのか? という問いを立てていた。しかし、この問いこそが、先の西洋中心的視座から脱却できないでいる証しといえた。つまり、かつて人類は平等だったはずだ、という膠着した思い込みがなければ、そんな問いは出てこない。
そこで、問題設定を変える。人類は元来創造性にあふれ、成熟した存在であったこと。それゆえ、太古の黎明期から、人類は、どんな社会が自分たちにしっくり来て生きやすいか、快適かを試行錯誤しながら築いていった。ある時はヒエラルキーを築き、王を戴き、それが破綻を迎えると、今度は別の共和的社会を築いたり、そこから離合集散を繰り返して別の住みよい社会を打ち立てたりと、自分たちにマッチする社会を模索していった。
なのに、それがどうして今の私たちのように、そうした柔軟さを失ってしまったのか。「イヤだったらそこから逃げればいいじゃん」という自由な発想を喪失し、どこか別の暮らしやすい社会があるはずだ、と想像膨らませる力をすら委縮させてしまったのか。そして、ついには私たちに「この社会しかない」「資本主義しかない!」と思いつめさせるほど閉塞してしまったのか。こう問い直すべきなのだ。
つまり、平等の喪失ではなく、自由の喪失に対する問いである。
著者たちは、本書で、人類史をある意味「お試し」人類史という視点から再構成してみる。人類が様々な社会の可能性を試しては放棄し、試しては採用する。イヤになったら逃げればいいし、別の社会を築いてもいい、とばかりに試行錯誤を繰り返す。そうした壮大なスケールの一大遊戯が人類史なのだ、という視点だ。
例えば、農耕→余剰生産→階級そして国家の形成といったおなじみのストーリーの代わりに、狩猟採集民が積極的に余剰の生成を拒絶してきたことが強調される。あるいは、作物の栽培法を知っていても、あえて農耕を拒絶し、「余暇」を選ぶことで原初の豊かな社会を守ってきたなど、多様な展開のあり様を強調している。
また、例えば「分裂生成」といったキーワードでその多様性の展開を説明する。そこには2つの指向性がある。一つには、地理的平面的な動きで、借用の受容と拒絶といった流れ。ある社会集団が、お隣さんの集団から、特定の文化や価値観、習慣を真似して取り入れる。あるいは、反発してそれと真逆の習慣をことさらに採用してみせる、などといった展開だ。それは集団のアイデンティティの問題で、お隣りへの同一化か、あるいは反同一化で自分たちの独自性を保つか、といった動きだ。隣人と自分たちを比較してみることで、初めて人は自らを独自の集団だと自覚しうるのである。
もう一つは、支配の拒絶にかかわる動きだ。「国家に抗する社会」にかかわる人類学の側面である。
従来より、人間集団はスケールがでかくなると、トップダウンの支配でしかまとまらない、と信じられてきた。しかし、いくつかの古代都市には、集権的統治の痕跡やヒエラルキーの痕跡すらうかがえないものが存在する。あるいは、かつてトップダウンの権力センターだったと思しき宮殿跡地に一般ピープルの住居が大規模に展開され、以後何世紀もわたって居住してきたうえに、都市自体も拡大を続けていたという考古学的証拠が挙がっている。階級社会の否定と都市の繁栄がそこに見いだされる。つまり、何世紀も前に人類はすでに革命を成功させてきたのだ。革命は何も近代ヨーロッパの専売特権ではなかったという有力な証である。
本書は終盤に当たり、国家概念に対してメスを切り込む。かねてより社会学者たちは、あらゆる社会を「国家」かそうでないかで理解を推し進めようとしてきた。社会が複雑化すれば国家が形成されるし、国家が形成されているところでは社会が複雑である、といったように、おなじみの進化論的な思考パターンにからめとられてきた。
しかし本書でさんざん提示してきたように、社会のバリエーションは途方もなく、あまたの考古学上の証拠はことごとく進化論的パターンを裏切ってくれている。つまり「国家」概念とは、もはや現実を見えなくする有害な概念でしかない。そこで著者たちは「国家」に代えて、社会的権力の基盤となる三つの原理に分解してみようと提案する。
それは、①暴力、②情報(知)、③カリスマ、である。
具体的には、①主権、②行政管理、③競合的政治フィールド、といった形をとる。近代国家にはこの3つがいずれもそろっている。主権、行政装置としての官僚組織、そして政治家たちが競合しあう選挙制度。しかしこの三つがそろって機能するパターンのほうが、人類史上きわめて特殊であったので、これを「国家」のテンプレとするわけにはいかない。そこで、この3つの要素に国家を分解し、国家の起源の問いに代えて、それらがどのように編成され、支配の構造を作り出すのかを考察するなら、人類史はどう見えてくるのか。
ここで浮き彫りになったのは、我々が「国家」の典型とみなしている近代的国民国家がいかに異例の存在かということだ。ほとんどの社会組織は、これらの要素の1つ、ないしは2つを作動させているのみで機能してきた。3つすべてが合流し、しかも独特の形態をとって機能している点において、国民国家のありようは人類史上極めて異例とだいうことだ。
最後に当たって言及しておきたいことは、ケアと暴力の結びつき、そしてそれを「閉塞」の主要な要因であるとする仮説である。
本書において目指されたのは、平等の喪失ではなく、自由の喪失に対する問いへの模索である。自由の喪失とは、「閉塞」を意味する。人には元来、3つの基本的自由が備わっていたはず。①異郷で歓待を受ける基本的自由、②反抗する自由、③社会を新たに組み替える自由の3つである。これらが失われていく過程が「閉塞」だ。すなわち、故郷を離れても他所で歓迎してくれる保証がなければ、自由に逃れられず、逃げられないのならば、意に反して服従しなければならず、反抗が叶わない以上は社会を自由に組み替えるなぞ土台無理な話となる。そこには、それ以外の社会とのつながりを失った人々がパターナリステックに保護される「慈善」の空間がある。保護と閉鎖(逃げられないということ)、ケアと暴力(DVの温床だ)ーーこの論点は、グレーバーのかねてよりの問題意識であった家父長制の形成と絡み合いながら、アメリカ奴隷制、古代メソポタミア、古代エジプトをめぐって本書でたびたび取り上げられている。
グレーバーが本書を執筆後まもなく逝去したことは、本当に悔やまれる。家父長制に対する示唆、自由の喪失、「閉塞」の問題に関するインスピレーションを今後も多大に与えてくれただろうに。本当に惜しまれることだ、としみじみ感じた次第である。
個人的には、第4章 私的所有の出現の項目に特に興味が言ったので、最後に備忘録的に付け加えておく。
ローマ法に起源をもつ現代の「所有権」は、全世界に抗して保持された権利である。それに対応する古代人類史に広く見られた概念が「不可侵なるもの(聖なるもの)」だ。それは特定の人々のみがアクセスでき、それ以外の人々のかかわりを排除する。その特定の人々には、その「不可侵なるもの」に対する責任が負わされ、ケアと管理が託される。そして、その非日常的な集団内では絶対服従が誓わされる。
これに対し、ローマ法の所有概念は、ケアや共有する責任が排除される。人がそれをケアしない、あるいは意のままに破壊するという選択肢を与えているという点で、極めて独特だ。
古代ローマ法が登場する以前には、非日常の儀礼の場でのみそうした「私的所有」と思しき萌芽がみられた。すなわち、所有物に対する排他的権利の主張とともに有無を言わさぬ従順さを求める厳しい要求がなされる場に限って初めて、私的所有が存在を許されたということだ。もし私的所有に「起源」があるとすれば、それは不可侵なるものの観念と同じくらい古い。ということは、人類そのものと同じくらい古い可能性がある。問題は、その起源ではなく、私的所有がいかにして「聖なる領域」以外の世俗的場面の多くを秩序付けるようになってしまったのか、である。 -
人類学の最前線に触れられた。
狩猟採集時代→農耕の開始→大規模定住→都市化
という単純なラインで人類社会が発展してきたわけではないことが分かった。
社会というのは今我々が想像しているよりもはるかに多様でありうるのではないかと思うと実におもしろい。 -
壮大すぎる、しかし素晴らしい論考。
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なぜ我々は不快に耐えることが出来るのだろうという問いと、そうではなかった例を多数揃えているのはブルシットジョブと同じ構造である。
時空を超えて我々は共感的になりうる。ひとは進歩を信じたがるが、歴史のなかの人びとに共感できる変わらなさの方が素晴らしい。そういうトリップこそこの本を読む楽しみだった。
これほど切り取り方、読み取り方が無数にある本をこれまで読んだことがなかったかもしれない。 -
J・ダイアモンド等の描く単線的大きな人類史は、近年の考古学や人類学の成果からは否定され、生産様式、社会様式の選択は多様であり、直線的に進化するものでもないとする。確かにそのとおりかもしれないが、ダイアモンドの歴史がわかりやすいのに対し、複層的でわかりにくい。歴史を理解するための仮説と思えばいいのではないか。
・18世紀に西欧で不平等の起源が論ぜられるようになったのは、北米インディアンとの対話を通じて、社会的平等、自由権と私的財産vs自由とコミュニズムといった論点に気がついたから。カンディアロンク
・狩猟採取社会は平等バンドではなかった(モニュメントの考古学遺物、埋葬、アマゾンのナンビクロワ族等)。季節による集住、バンドから首長制、国家。
・狩猟採取社会も経済余剰を生み出し排他的所有権・私的所有権を生み出すことも。
・カリフォルニア狩猟社会では貝貨が使用され個人的所有権が確立、貴族制等はなし。北西海岸狩猟社会では貴族制、奴隷制、ポトラッチ。
・狩猟採取と農耕との断絶は小さく農耕革命なのではない。農耕を回避したり農耕と狩猟との参入・退出を繰り返したり、遊戯的農耕を選択したり。
・ダンバー数はホモサピエンスに適用できるのか。都市の成立に宗教や階級は必要条件ではない。狩猟採取社会のバンドは血族を主たる構成員としていない。ウクライナ周辺のクルガン文化の都市は農耕を主とせずモニュメントを造らず階級はない。メソポタピア最初期の都市、モヘンジョダロ、バリのスクシステム
・古典期テオティワカンはアステカ、マヤとは異なり平等主義的。
・近代的国民国家の定義として、暴力の支配(主権)、知の支配(行政管理)、カリスマの支配(競合的政治フィールド)の3要素を条件とし、それが例外的であるとする。しかし、考古学的証拠によらずとも例外的であろうし、考古学的証拠だけからでは例証できないように思われる。
・「歴史に関する大きな神話は、もはや通用しない」
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