われは熊楠 (文春e-book) [Kindle]

  • 文藝春秋 (2024年5月15日発売)
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感想・レビュー・書評

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  • 直木賞候補ということで、手にした一冊。
    名前だけは知っていた不出生の「知の巨人」南方熊楠の評伝小説。
    「この世界を知り尽くす」「詰まるとこ、我は我のことが知りたいのや」「終生、学問をやり通す覚悟じゃ」
    インタビューによると、伝説には事欠かない、書きどころが多すぎたとのこと。
    前半は、刀のなくなった世で時世を作れるのは学問、徴兵逃れの意味もあったアメリカ行き、酒造業を継がせたい父との葛藤、夢を貫く姿、ロンドンでの徒手空拳からの大英博物館に出入りを許されるなどワクワクするような冒険譚が繰り広げられる。
    後半は、辛い出来事のほうが多くなる。男色については少し引いてしまうが、学問を貫く姿と飯の種、認められたい欲、弟のセリフ「凡夫に成り下がった」、ついに「自分が何者かわからず」死ぬまで続けた学問…
    ページを捲る手が止まらないこの魅力的な人物がその魅力そのままに描き出された面白小説。

  • まあまあ

  • オーディブルは岩井圭也『われは熊楠』を今朝から聞き始める。

    「我(あが)は、この世のすべてを知り尽くしたいです」、森羅万象すべてが興味の対象だった熊楠の底なしの我欲は、同時に、私利私欲によらぬ純粋な知的好奇心だった。だが、父親の説得もあり、「学問で飯が食えるんか?」で悩む熊楠に、羽山繁太郎の弟・蕃次郎が言った言葉。
    「鳥は、明日(あいた)も飛べるやろかと心配しますか。魚は、年取っても泳げるやろかと悩みますか。花は、来年も咲けるやろかと気ぃ揉みますか。天狗(てんぎゃん)さんの言うてることは、それらと同じ類の悩みちゃいますか」

    弟の常楠が兄の熊楠に言った言葉。
    「お父(と)はんは、兄やんがやっとることに意味なんぞない、言うてる。でもよう、我(あが)はそう思わん。兄やんがこの世の万物を蒐集することには、大変(がい)な意味がある。その証を得るためやったら、我はなんぼでも握り飯(にんにこ)つくっちゃる」
    「兄やんの凄さは、我が誰(だえ)よりも知ってる。兄やんは天狗(てんぎゃん)じゃ。天狗が人間の道理に縛られることはない」

    アメリカ留学を父に訴えかける熊楠。
    「聞いておくれ、お父はん。今日、日本人と欧米人との競争は益々激しなってる。誰(だえ)かが敵地に踏み入って、欧米人と直接切り結ばんならん。我らの存在を誇示せんならん。にもかかわらず、海外雄飛する日本人はほんのちっとじゃ。このままやと日本は淘汰される」

    アメリカからロンドンへ渡った熊楠は父の訃報を受け取る。
    「去来するのは、「親不孝」の三字であった。
    −−お前(まん)は千金を出させた挙げ句、死に目にも会わん親不孝者じゃ。
    −−南方の名ぁを知らしめるどころか、論文の一本もよう書けやん。
    −−馬鹿にしくさる兄貴と何が違うんや。どっちも放蕩息子やして。」
    「−−我は卑怯者じゃ。」

    雑誌「ネイチャー」の読者投稿欄に掲載された2つの質問「中国やインドなどにも固有の星座はあるのか」「各々の星座から民族としての近しさを判断できるか」に答える形で、熊楠初の英語論文「東洋の星座」がネイチャー誌面を飾ることに。熊楠はそれ以降、日本や中国の古典を数多く引用した論文を量産、ネイチャーをはじめとする科学雑誌への投稿を続けた。大英博物館の古物学部長ウォラストン・フランクスの知己を得た熊楠は、膨大な知識と東洋の文献を読みこなす語学力を認められ、大英博物館の仏教関係の収蔵品の整理と日本図書の目録づくりをまかされ、1年半後には、念願の大英博物館の図書館への入館証を入手する。

    「古今東西の書物が収蔵された図書館は叡智の海であり、この世を知り尽くしたいと願う熊楠にとって憧れの場所だった。組織に属さない熊楠のため、リード(フランクスの部下)が保証人となり、この度ついに図書館の円形閲覧室へ出入りする権利を得た。
     初めて閲覧室に立ち入った日、熊楠は我を忘れた。利用者たちは各々机にかじりついて書籍を読んだり、思索にふけったりしている。彼ら彼女らを取り囲んでいるのは、巨大な本棚の群れであり、おびただしい数の書物だった。新品の入館証を手にした熊楠は、その光景に打ち震えた。
    −−これは、夢か。
     ここには、この世の知という知が網羅されている。もしかすると、ここならば世界の正体を−−己の正体を、教えてくれる何かがあるかもしれない。大英博物館の円形閲覧室は、世界で最も熊楠の理想に近い場所だった」

    夢に現れた亡き父・弥右衛門いわく
    「お前(まん)はようやっと、緒についたに過ぎん」
    「論文の一つや二つ載ったとこで、高が知れてる。学問が成就できるか否か、そがな心配をするんは早い。お前には道が見えちゃあら。脇見せず、一意追究したらええ」
    「学者として名ぁ成せば、己を知ることができると思てるやろ。けどもそら誤りじゃ。浮世は一対の因果ではできとらん。一人であがく限り、真理はよう見つけやん。けども、お前が他者を知りたいと思たとき、ようやく真理への扉が開く」
    「ええか、熊楠」「お前は他者を見とらん。己を知りたいなら、己以外を見よ」

    オーディブルは岩井圭也『われは熊楠』の続き。

    ロンドンの生活でストレスがたまったをせいか、熊楠は生来の癇癪を爆発させて、大英博物館の閲覧室から出禁を食らう。家業の不振もあって仕送りが途絶えがちになり、やむなく14年ぶりに帰国した熊楠は、未知の隠花植物(花をつけない植物のことで、シダ、コケ、菌類、藻類、地衣類など)を探すために、人里離れた那智の原生林に閉じこもる。だが、孤独な熊楠は夢にうなされるようになり、夢遊病を発症したり、怪奇現象を体験したりして精神的に追い詰められ、2年足らずで下山する。この世のすべてを知りたいと学業に邁進してきたといっても、まだ何者にもなれていない自分。家業を弟にまかせ、生活費の面倒を全部見てもらう穀潰しの自分には生きている意味などあるのか。渾身の論文「燕石考」はネイチャーに突き返され、はじめて自信がゆらいだ熊楠は、膨張しきった自我を自分で制御できなくなって、おかしくなりかけていた。

    夢の中の亡き蕃次郎がいう。
    「悪(わり)こと言わん。山を下りてください」
    「熊楠さんは、人と交わることを知らん」
    「世界を知り尽くしたいと言うくせに、世のなかに背を向けちゃある。これは、矛盾やと思いませんか。世界を知りたければ、山を下りぃ」
    「場所ががなければ、作ったらええ」

    那智を出て、田辺に居を構えるも、なにもかも中途半端で、いまだ何者にもなれない熊楠は齢38にして中二病のど真ん中。そんな熊楠を心配し、旧友の医者・喜多幅が闘鶏神社の宮司の四女・松枝との縁談をもってきた。田辺周辺の神社の鎮守の森などで粘菌を採集していた熊楠にとって、当時猛威を振るっていた神社合祀などもってのほか。熊楠は地元新聞の活動家らと交わり、神社合祀反対運動に身を投じていく。

    「粘菌は、独特の生態を持つことで知られる。
     変形体と呼ばれる時期には、粘菌は自ら動き回ってバクテリア等のエサを捕食する。(中略)しかしひとたび周囲に食物がなくなると、小型のきのこのような形状に変化する。子実体と呼ばれる状態だ。子実体となった粘菌は胞子を撒き散らし、そしてまた変形体となる」
    「一見、変形体の時期にある粘菌は不定形の痰のごときものであり、その姿はいかにも死物を連想させる。一方、子実体へと変わればあたかもすっくと「生えた」かのようであり、こちらこそが活物であると言いたくなる。粘菌の種族の判別も、主に子実体によって行われる。
     しかし粘菌自身にしてみれば、変形体こそが活発に動き回りエサを捕食する活物としての時期であり、子実体は消耗を防ぐ死物としての時期である。死物こそが活物であり、活物こそが死物である。このように生死が裏返った生命は、熊楠が知る限り粘菌のみであった。
     粘菌を見ていると、地獄の衆生を連想する。人の世で罪人が死にかかると、地獄では新たに衆生が一人誕生する。生と死の意味が逆転している。死ぬことは生きることであり、逆もまた然りであった」

    熊楠は鎮守の森の生態系の貴重さを論文をまとめ、神社合祀反対運動の理論的支柱を提供し、その波が全国に普及していくにしたがって、熊楠の名も世の中に知れ渡っていく。だが、癇癪持ちで酒乱の熊楠は神社合祀を推進する役人に腹を立て、しまいには、地元のお歴々が集う集会で乱闘事件を起こしてしまう。人と交わることは増えても、相変わらずコミュ障は治らない。熊楠は付き合うには厄介な人物だったが、裏表はない傑物だ。だから、彼を応援する人はつねにいた。弟の常楠もそんな一人だったが、家業が傾くにつれて離れていった。かつて天狗(てんぎゃん)と慕った兄は、ただのうだつの上がらない凡夫に成り下がった。熊楠のために家1軒や2軒では済まない金額を投じてきた常楠は、兄にみずからの夢を仮託していたのかもしれない。

    オーディブルは岩井圭也『われは熊楠』が今朝でおしまい。

    おのれの夢を実現するためなら、ほかのことは顧みないエゴイストでなければ、他者に抜きん出て世に名を残すことはむずかしい。金を出してくれる弟も、学問の邪魔になる妻子も踏み台にして、おのれのやりたいことに没頭する。それによって得るものと失うものがあるのは、当然予想されること。頼みの綱である弟にまで無心を断られ、生活苦のなか、進学の夢を絶たれた息子・熊弥が自殺をはかり、精神を崩壊させたとき、熊楠はその事実と向き合うことはできなかった。

    「あんたのせいや。あんたのせいで、熊弥はおかしなったんじゃ!」
    「熊弥を返しぃ! 熊弥を返しぃ! 早う熊弥を……」
    「お願いします。お願いします。何でもするから、金も家も何もいらんから、どうか、どうか熊弥を返してください。おかしなってしまう前の熊弥に戻してください。お願いですから。お願いですから……」

    夢の中で、蕃次郎が熊楠を責める。蕃次郎は内なる熊楠が具現化した姿にすぎないから、その言葉は辛辣で、痛いところを容赦なく抉る。

    「熊楠さんは、熊弥が病んでもうたんが怖いんとちゃう」
    「己が病んでまうんが、怖いんでしょう?」
    「学問のおかげでかろうじて熊楠さんは平常でいられる。しかしいつ、熊弥と同じようになるかわからん。それがわかってるから、熊弥を懸命に看病したんでしょう。いずれ絶対治るはずやと、信じてたんでしょう。ほんで、治らんとわかるや視界の外に追い出した」
    「熊弥は、もう一人の熊楠さんじゃ。二人の間を隔てるもんは雲の膜よりも薄い。一皮剥いたら何も違わん。せやさけ、怖いんでしょう」
    「そもそも熊楠さんは、ほんまに己を知りたいんでっか?」
    「己を知った先にあるんは、どん詰まりとちゃいますか。そがなもん、本心から知りたいと思ってますか」
    「熊楠さんは、己を知りたいんとちゃう。己が、己のまま生きられる術を知りたいんじゃ」

    捨てる神あれば拾う神ありで、熊楠に愛想を尽かした身内もいたが、そんな熊楠を慕ってやまない人もいた。そんな熊楠に一世一代の栄誉の瞬間が訪れる。粘菌つながりで天皇陛下に御進講することになったのだ。それは熊楠がたった一人で掴んだものではなかった。かれを陰日向に支えてくれた大勢の人たちのおかげでもあった。

    「我は、生命とは、流転そのものやと思とります」
    「動物は血の巡りが止まれば息絶えます。植物は養分が行き渡らんようになれば、枯れ果てる。流転を止めた瞬間に生命は終わる。神島の森も同じです。どこか一つ切り捨てられたら血が巡らんようになる。たとえ黒松一本であっても、伐った途端に森は均衡を崩すかもしれん。そのせいで彎朱(わんじゅ)がなくらなんとは、誰にも言えんのです」
    「生きることは死ぬこと、死ぬことは生きることです。人間が生きるためには、他の生命が死なんならん。我も、ここにおる皆々様も、何者かが死ぬことで生かされちゃある。それは決して忘れたらならんと思とります」

    ふたたび蕃次郎に仮託された熊楠の悟り。

    「生きることは、出会い、交わり、別れる、その連続です。でも別れたから言うて、出会ったことは無駄にはならん。その人らは皆、心の土に轍を刻んでいく。熊楠さんはその轍を辿るだけでええ」
    「待て。問答やなしに、解をくれ」
    「ええ頃合いじゃ」「我らは流転している」

    答えは粘菌にあった。

    「いずれ胞子は地に落ちる。そしてその場所で分裂し、増殖し、変形体となってうごめく。時が来れば、また子実体として胞子を撒き散らす。その繰り返しだ。終わりなき流転。延々と続く、あちら側とこちら側の往復。それこそが生きるということだった。
    「生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること」
    「熊楠という存在を覆う膜は、とうになくなっていた。この世にあるのは絶え間なく続く生命の流れであり、己という存在はその流れのいち部分に過ぎない。あらゆる生命と混ざり合い、融け合い、一つになった熊楠は笑う。
    −−これが我の正体じゃ。
     それは、一点の曇りもない確信だった。」

    永遠に続く生命の連鎖。自分が生きている意味は、そこにしかない。

  • 市井の天才博物学者南方熊楠について読むのは、津本陽の『巨人伝』に続いてであるが、本作は熊楠の精神的苦悩により多くの比重をかけていた。挑んだ分野があまりにも広く、ある意味で体系的ではなかったので、学者としての評価をするのが難しい人なのであろう。「枠にはまらない」凄さがあるが、「枠にはまる」ことで学問の体系を作り上げることも事実で、枠にはまらなかった不幸が熊楠にあったきがする。

  • 図書館で借りた本

    南方熊楠、名前は有名で知ってはいるけれど、一体何をした人なのだろう?

    そんな興味で読み始めた本。どちらかと言うと、性格は破天荒なろくでなし(ろくでなしな偉人というと宮沢賢治を思い浮かべてしまう)。なぜなら、自分では働かないで親兄弟からの仕送りで生活をし、自分の好きなこと、学問ばかりをしていたから。専門分野は植物学。

    定職につかないで自分の好きな分野の学問だけを、それも学校には行かず書籍を読んだり、フィールドワークを中心に死ぬまでやり続けた人だ。小さい頃から癇癪持ちで、今で言うお坊ちゃまだったのだろう。慶應年代の生まれなのに仕送りでアメリカ、イギリスで合計14年も海外で暮らしている。今でもそんな息子がいたら普通はお金が続かない。それを慶應、明治の時代に出来たのだから、実家の財力は当時相当なものだったのだろう。

    自分に収入が無いのに働かずに好きなことを出来るのだから、多くの人にとって羨ましい生活だろう。勉強だけに集中出来たらいいだろうな、と羨ましく思うけれど、収入が無いのにそんなことは気が小さくて出来ない。

    いや、「気が小さくで出来ない」のではなく、「家にお金が無いから出来ない」のだろうか?(笑)億ションを何棟も持っていて、賃料という不労所得だけでバンバンお金が入ってくるとしたら、本を読んで勉強する以外にも、美味しい物を食べ旅行にも散々行くだろうな。宝くじに当たった時の夢想状態(苦笑)。

    それにしても昔の日本にはそれを許す風土、度量があったのだろうか。家制度で家督を継がない二男、三男も含め養っていかねばいけないから、度量が広くなったとか?(二男、三男でも無職というわけではない?)

    なにはともあれ、南方熊楠は「凄いな」と感心するより、「見習いたくはないな」と思う部分の方が多い偉人だった。

    そんな世界があるというか、こんな人でもいて暮らしていけたんだな、という点については面白いな、とも思えるけども。

  • ふむ

  • 何かを成し遂げるためには、多大な努力と強大な執念が必要で、さらに、大きな損失を代わりに手放す運命が待っていると感じました。

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著者プロフィール

いわい・けいや 小説家。1987年生まれ。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞(KADOKAWAより刊行)。著書に『文身』(祥伝社)、『水よ踊れ』(新潮社)、『この夜が明ければ』(双葉社)などがある。

「2021年 『人と数学のあいだ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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