手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書) [Kindle]

  • 新潮社 (2025年1月17日発売)
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プレミアム

みんなの感想まとめ

享受の快を取り戻すための哲学的な探求が描かれています。現代の消費社会において、快適さが目的化し、行為が手段に変わってしまう危険性が指摘され、目的から自由であることが享受の快の必須条件であると論じられて...

感想・レビュー・書評

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  • 享受の快が目的に毒され手段化する。
    そうなりやすい今の消費社会の危うさ。
    脱目的化出来るかどうか。
    しかし、漠然と目的化してたものを哲学によって享受の快を取り戻すこと、守ることは出来るように思う。
    読んでよかったと思います。

  • 目的のための手段化の危険性

  • 3

  • ・行為が目的意識に満たされているとき、快適なものを享受するはずの行為は、手段として有用なものに変容してしまう。目的から自由であることが、享受の快の必須条件。

    ・社会がこのまま進み、すべてを手段化したとき、我々はそおらく、これまで見たこともないような依存症に出会う。「享受の快」がなくなってしまったときの依存症。

    ・人間には、何が道徳的で、何がそうでないかが分かっている。ということは、自分のあるべき姿が分かっている。=人間にとっての「目的」が、人間にはあらかじめインストールされている。

    ・快適なものは各人にとって大切なもの。その人の感性や感覚そのものに根ざしているから。

    ・すべてを目的へと駆り立て、何もかもを手段と見なす生とは、もはや主体が存在せず、経験する能力そのものを奪われた生。そこから逃れるヒントは、おそらく「習慣」

  • 『暇と退屈の倫理学』『目的への抵抗』の続きに一応位置される。

    カント哲学を軸に、嗜好品(快適なもの)についての分析がなされる。
    何らかの目的のために手段として行われる行為でなく、それ自体のために行われる行為(享受の快)を人間から奪ってはならないということが議論される。

    カント難しい

  • ・本書が提示する問い
    - 楽しむ(享受)とはどういうことか

    ・著者の見解
    - 何か目的達成のためにすることではなく、ただそれ自体が自分にとって、好き・心地よいと思える経験

    ・自身の見解
    - なんとなく昔から思っていたことに近い感覚があり、今回で以下に整理された。
    - 自分自身が「何もかもを目的のための手段とみなす病的な日常」を過ごしてきた。結果として、楽しむを表す代表的な「趣味」「遊び」という概念が、養われていない
    - 上記の行為に一種の「無目的からくる気まずさ」を感じており、没頭できていないシーンがあった。感覚としては、そんなことしてなにになるのさと。
    - また、[[ナナメの夕暮れ - 若林正恭]] の「ナナメの殺し方」にあるように、上記の行為のときに、誰かに「みっともない」と思われることが怖くて、没頭できない自分もいた。これは他人の世界を生きている証拠だ。
    - では、楽しむは各人で養わないといけないとあるが、具体期にはどうする?
    - 月並みな表現だが、マインドフルネスというのもキーワードだと思う。
    - [[ナナメの夕暮れ - 若林正恭]]の「ナナメの殺し方」にヒントがあった
    - 「肯定ノート」自分がやっていて楽しいことを徹底的に書き込む

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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