本作は初夏の午後に、大学教授の長谷川謹造がベランダの籐椅子に腰をかけて読書をしているところから始まる。
冒頭の部分では、長谷川の読んでいるストリントベルク話のほかに、妻が日本を愛すアメリカ人であるということと、その妻と一緒に買いに行った岐阜提灯について触れられる。この「アメリカ人の妻」と「岐阜提灯」の二つは物語の終盤に「外国」と「日本」という対比として再度出てくる。また、長谷川は文明が進歩しても精神的には墜落しているこの時代の日本を、日本特有の「武士道」が救済するという考え方を持っていることも語られるが、それも終盤になると意味が機能するようになっている。冒頭の穏やかな空間の中で出てくる意味があるとも思えない要素たちを、終盤で意味のあるものにするという伏線からは、芥川の技巧をみることができるのだ。
そのような、とりわけ大きな変化のないその空間に、一人の客が訪れることで物語は展開していく。客は西山篤子という、長谷川の生徒である西山憲一郎の母親だ。西山憲一郎はこの春に腹膜炎で入院をしていたのだが、その西山憲一郎が亡くなったということである。その話を聞いた長谷川は内心動揺をするが、息子の死を話しているとは思えないほどに冷静で、微笑を浮かべている母親を見て不思議に思う(第一の発見)。ここで長谷川がベルリンに留学していた際の話が出てくる。このベルリンの話はウィルへレム第一世が崩御した際に下宿の子どもたちが感情をあらわにして悲しんだという内容だが、これは「外国」を表していると同時に、息子を亡くしてもなお冷静な母親を強調する役割も持っているのだ。
ベルリンの話が挿入されたあとに、長谷川の第二の発見がある。何かの拍子に落とした扇子を拾おうとした長谷川は、膝の上で手巾を裂かんばかりにかたく握り、布を震わせている母親に気がつく。それを見た長谷川はこの母親に日本の女の「武士道」を感じる。これが前述した「武士道」の伏線回収である。その晩に、長谷川は日本を愛す「アメリカ人の妻」にこの話を聞かせ、その熱心な聞きぶりに満足をする。しかし、読みかけのストリントベルクの一頁を見て、その気分は害されることとなった。そこには「日本の女の武士道」を否定するようなハイベルク夫人の手巾の話があったのだ。ストリントベルク、つまり「外国」の作家に否定される堕落した日本を救うはずの「武士道」。それを読んだ長谷川は頭を振って「岐阜提灯」を眺め、見て見ぬふりをする。ここに、芥川による当時の社会批判が含まれているのではないかと思う。