読んでみると、一見多情な女性と結婚した男性の苦悩がテーマであるようにとらえることも可能ですが、本当の愛とは何かというテーマが根底としてあるのかなと思いました。愛とは親子、夫婦、兄弟、姉妹、家族、動物、人類、自然などあげたらきりがないくらい、あらゆる対象に抱くものであって、愛とはそれらのあらゆる対象についてその現実をありのままに受容する覚悟であるとこの物語の場合定義できます。三浦は「愛のある結婚」がしたいと思っていて、その思いを貫き、念願かなって勝美夫人と「愛のある結婚」が出来たと思い込んでいました。しかし、勝美夫人は従兄を含めた複数の男たちと不倫をしていて夫人が複数の男と不倫しているという現実を受け入れられなかった三浦は、夫人と離縁してしまいます。それから「愛のある結婚」など所詮は子供の夢であり、本当の愛など存在しないと気づきます。「私」は「三浦の生涯の悲劇」と表しており、三浦自身の純粋さもなくなったことから「夢」から覚めたことを示しているのだと思いました。
もう一つの視点として、芥川が男女の複雑な恋愛関係を、明治文明開化の東京の風物に絡ませて書いています。これはこの作品の特徴の一つではないかと思います。視覚的イメージを通して、東京における西洋文化の受容の在り方を浮き彫りにしているのです。芥川龍之介の家は築地外国人居留地の一画にあったので、西洋から渡来した新しい文化と直接接触せざるを得ない特別な場所だったのです。しかし芥川が物心ついたときには文明開化の時代は終わっていました。そのため江戸的な情調に詩情を寄せる心、新思潮による日本の中に位置を占めていく西洋の詩的感覚の2種を持ち合わせていたのは当然のことだと考えられます。文章にも歌舞伎、浮世絵、花火などの東の旧の詩情と、仏蘭西窓、ナポレオンの肖像画、西洋風の書斎といった西洋的な詩情が混ざっており、近代日本の中で芥川龍之介は西洋の新思潮の受容と変容を吟味していたのだと思います。そして「この時代に追憶と思慕を感じる」という表現は、けっして子供時代の思い出に固執しているのではなく、明治開化期という「他者」の世界への知的・美学的な強い関心を持っていることを示しているのだと思いました。
この物語は曖昧な終わり方であるし、吸い込まれるような面白さや設定に目を向けるというよりも登場人物への共感や、明治文明開化の文化、風物と絡みつけた芥川龍之介の手際に注目して読むことをオススメします。