駈込み訴え [青空文庫]

著者 :
  • 青空文庫
  • 新字新仮名
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感想・レビュー・書評

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  •  愛憎劇という切り口から描かれる、ユダの裏切りに対する太宰の独自解釈が語られている作品。基本的にはユダの訴えの言葉を中心に語り口調で書かれており、初めはその語り手である「私」が一体何者であるか明かされないまま進んでいくので読者は戸惑いつつ読み進めることになる。そして最後にその正体が明らかになることで、これはユダの裏切りを描いたものだと知ることになる、といったこの構成は非常に優れたものであり、もう一度読み返したくなるような印象を与えている。加えてまるで読者が「旦那さま」となって目の前で訴えを続けるユダを見つめているかのような臨場感も、太宰の秀でた技術力を感じさせるものだ。

     ユダはキリストを売ることを、「ひたむきの愛の行為」だと主張している。作中で彼はキリストを愛している、自分のものであると訴えており、彼の生殺与奪の権を独占しようとしているところからも、ある意味では純粋ですらある、それでいて歪みくねった愛が読み取れる。愛ゆえの裏切りという、聖書には描かれていない彼の裏切りの背景が非常に豊かな表現で描かれていた。

     『私は、ちっとも泣いてやしない。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。はい、旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い。』
     この一節は私の中でもっとも印象深く残ったものだ。先には、ユダはキリストを愛していると述べた。ではこの場面ではどうしてユダはこのような発言をしているのか。おそらく彼は旦那様に、そして自分に嘘をついているのだと考えられる。作中で彼は意志がすぐに左右してしまうような人物として描かれており、愛しているからこそ自分が売る、しかし愛するキリストを売るなどというひどいことをどうしてできようか、と、決意を固めたと主張しつつも迷いを振りきれない彼の心情が読み取れる。そこで彼は、自分は商人だから金欲しさにキリストを売るのだと自分を納得させるためにこのように自分に言い聞かせていると考えられる。物語の最後の一節で自分は商人のユダだと明かしているのも、これに起因するのだろう。

  • 小説批評講座の課題で読んだ。イスカリオテのユダがイエスの処刑を訴える独白。遠藤周作氏はイエスの孤独をもっとも理解していたのはユダだと言うが、それが最も感じられる。ユダもまた孤独なのだ。

  • この作品の登場人物は語り手である「私」、「あの人」、旦那、です。
    『駆け込み訴え』は「私」が旦那に「あの人」に対する不満を吐露し、「あの人」が聖人でいられるのは自分のおかげであるというのに、それをわかっていない、と自分の苦労を語ります。「私」は自分の苦労と献身を認めてほしいと考えているのですが天の父だけがわかってくださればいいではないか、といわれてしまい、完全に「私」の思いは伝わっていません。「私」は、はじめは「あの人」への不満を語っていたのですが、次第に独占欲をあらわにします。旅の途中で出会った女性に恋に落ちたのではないかと考えた「私」は激情にかられ「あの人」を殺してしまおうと考えます。「私」は「あの人」への恨みを語りながらも独占欲をあらわにし、嫉妬にかられる様子も見られます。「私」の心境は最後まであやふやで矛盾にあふれています。ラストのシーンまで登場人物の明確な名前は登場しないのですが、キリスト教に詳しい人なら途中で招待をつかめるかもしれません。裏切り行為であると広く考察されているこの二人の関係を愛故であると解釈しているのは太宰の独特の感性によるものであり、まさに新解釈といえるでしょう。主流の考え方とは正反対の考え方でありながらつじつまを合わせることができる太宰治の手腕は見事だと思います。この結末になった理由も納得感を感じることができ、ほかの資料とも読み合せることで自分なりの新しい解釈を考えることもできます。
    またこの作品は口述筆記、という本人が声に出して読んだものを書き起こす、といった方法で書かれています。この作品を筆記した妻である津島美知子さんはその時の太宰の様子を「全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」と語っています。
    このころの太宰は口述筆記をしていますが、手が動かなかった、病気だった、といった事情があったわけでなく、なぜ生涯で書いた作品の数作品のみ口述筆記としたのか明確な理由はわかっていません。

    太宰治の技巧が光る『駆け込み訴え』、ぜひ読んで自分なりの考察を考えてみてください。

  • 昭和時代の小説家、太宰治により1940年「中央公論2月号」にて出された作品。イスカリオテのユダを主人公とした視点で、イエス・キリストに対してどういう感情を持っていたのかを述べるという形式を取っている。太宰流の一人語りで物語が進む。面白いと思った点が主に3つある。1つ目に、物語が太宰流の1人の視点のみで語られるため、感情の変化や乱れが目まぐるしく見られる。その変化や乱れを追うのが面白い。乱れの一つとして、語り手の感情描写の中に「愛と憎しみ」「期待と失望」「信頼と疑い」のような同じ人間のうちに相反する感情が描かれている。そのアンビバレントが面白い。2つ目に、キリスト教の優しさとユダの卑しさや、悪の対比が面白い。太宰治は「姥捨」において「ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す」と記している。その通り、ユダが卑しくなるにつれてキリストの素晴らしさが目立つ。その対比が面白い。語り手の卑しさの一つとして、語り手は主に自分がどう思われているかによって主に対して抱く感情が変わるというのがある。ユダはキリスト教を愛しているといっておきながら、キリスト教に失望されたとき簡単に感情が変わる。主が足を洗ってくれたとき、「あなたはいつでも正しかった、優しかった、貧しい者の味方だった」というのに、その後自分の裏切りがばれ、主に嫌われているとわかった瞬間に主を「意地悪」といって売る。このように主の評価によって主をどう思うかがコロコロ変わる。このような部分でユダの芯のなさや、中途半端な忠誠心、承認欲求などの醜い部分が描かれている。この部分を読んだうえでキリスト教と対比すると違いが露骨で面白い。
    3つ目にギリギリで手が届かないようなもどかしさ、予想と異なる展開が面白い。語り手が主に求めている言葉と実際に主がいう言葉にズレがあったり、語り手が完全に改心し上手くいくと思ったら主が語り手を触発するようなことをいってしまったり、「それをいわなかったら上手くいったのに」という部分が多く、ギリギリのところで手が届かないもどかしさを感じた。それと同時に、今度は上手くいくかと思ったらだめでの繰り返しなので何度も自分の予想を外す展開になるのが、読んでいて飽きることがなく面白いと感じた。

  • 読んだ日にちちゃんと覚えてない。 世界で一番好きな小説。「嫁を貰って私とイエス様とマリア様とで桃園で暮らしましょう」っていうところ、ユダはイエスの幸せを本当に願っているんだなと感じた。エゴをむき出しにして「私と二人きりで暮らしましょう」と言わないところが好き。結局はエゴをむき出しにして殺してしまうんだけど。殺したことによって「ユダが一番好きなイエス」を思い出の中に閉じ込めることができたのかもしれない。

  • 口述筆記で書かれていて、戸惑いながらも一気に読めてしまう魅力的な作品。最後に語り手が何者なのか分かったときには驚いた。私はキリスト教や福音書についてはあまり詳しくなかったので誰なのか予想が出来なかった。勘のいい人は気づいただろうか。これを機にキリスト教について調べてみようと思う。
    語り手ユダのキリストへの愛情や憎悪が書かれていて面白かった。しきりに自分がキリストより「二月遅く生まれた」を言っていることが違和感に思った。そんなに年齢が大事なのか。日本の上下関係的なものを感じる。もしかするとユダはキリストと対等になりたかったのではないだろうか。だから「二人きりで一生永く生きる」と言ったり、足を洗う場面で恍惚としたりしたのではないだろうか。主であり師である人にプロポーズのようなことは言えないし、足を洗わせるなんて出来ないだろう。実際に他の従者たちは戸惑っている。また、ユダのキリストへの恋愛感情的なものも感じる。ただし愛情、憎悪、独占欲、執着がない交ぜになって歪んでいる。正反対の言葉が次の行で出たりしていて本心が分からなくなっている。全部本心であろうが。無報酬の愛と言いながらも受け取ってほしいと言っている。「キリストが死んだら自分も死ぬ」と言っているのに、少し話すと「キリストを殺して自分も死ぬ」と言っている。最後はキリストを密告して自分は生きている。他に「美しい人」と言っているのに「だらしが無え」と言っている。しかし、問題となるのはキリストとユダが同性愛的関係であるかどうかではない。問題なのはどうしてユダの感情が歪んでしまったのかである。キリストはユダからの愛情は受け取らなかったとユダの言葉からうかがえる。与え続けても一向に相手から何も返ってこない。上下関係がなくても無報酬の愛と言っても一向に何も返ってこないのは不平不満が募るだろう。これがユダのキリストへの愛情を歪ませていった原因のひとつだと考えられる。それに、ユダは年老いた父母も土地も捨ててきたと言っている。自分から捨てたのでこれを引き合いに出すのは逆恨みだとは思うが、持っていたものすべて捨ててキリストに尽くしてきた。それなのに、何も返してもらえないことに不平不満が募ったのではないか。
    ユダは最後の晩餐でキリストが寂しいと思っていることに気がついた。そこから私は密告なんてしなくてもいい展開になるのではないかと思った。しかし、キリストからユダに密告を促した。ここでキリストが促さなければ密告されることはなかったと思う。

  • 人間関係のあるあるを感じた。

  • ヨーロッパ文化論の課題で読んだものだが、やはり太宰治の本は難しかった。愛憎に悩むユダのお話なのだが、一回読んだだけでは自分にはよくわからなかった。課題のレポートは大丈夫だろうか。

    おすすめ度:
    ★★★☆☆

    あぶらむし(海洋政策文化学科)

  • この作品は、1940年に太宰が発表した口述筆記の作品である。物語は、一人の男が自らの師の横暴を訴えに来る場面から始まり、そこからずっとその男の語りによって話は進んでゆく。最後の場面では、この作品の主人公はユダであり、師とはキリストであることが明かされる。ユダは、世界的にも裏切りものの代名詞であり、銀30でキリストを裏切ったことから、金銭にがめつい嫌なやつだと思う人も少なくはないのではないか。キリストからの評価も、「生まれなかったほうが、その者のためによかった」と言われているなど、散々な評価である。(『マタイによる福音書』26章24節より)しかし、この作品はそうした従来の「嫌なやつ」とは異なり、「キリストを愛していたからこそ、キリストを憎悪し、裏切りを決意してもなお割り切れない悲しい人間」としてのユダを描いている。聖書内でもキリストではなく、ユダに着目したのは、既成の道徳観に反逆した無頼派の一人である太宰らしい。また、この他にもこの作品の注目すべき点は退廃的な美しさが溢れる真に迫った文章である。これにより、ユダのキリストへの愛憎が、より強調されている。「他人に殺されるくらいなら、いっそこの手であの人を殺したい」と言ってしまうほどの激情が、生々しくも儚く描写されている。また、太宰作品は、『走れメロス』しか読んだことないという人も多いのではないだろうか。この作品は、あの爽やかな文体とは正反対の雰囲気であり、太宰作品の新たな一面が見られるだろう。

  • ユダの情緒が不安定

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著者プロフィール

1909年〈明治42年〉6月19日-1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名は津島 修治。1930年東京大学仏文科に入学、中退。
自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、戦前から戦後にかけて作品を次々に発表した。主な作品に「走れメロス」「お伽草子」「人間失格」がある。没落した華族の女性を主人公にした「斜陽」はベストセラーとなる。典型的な自己破滅型の私小説作家であった。1948年6月13日に愛人であった山崎富栄と玉川上水で入水自殺。

「2022年 『太宰治大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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