旅人ガドルフが嵐の中凛と咲く百合に出会う物語。
“いなびかりは、まるでこんな憐《あわ》れな旅のものなどを漂白《ひょうはく》してしまいそう、並木の青い葉がむしゃくしゃにむしられて、雨のつぶと一緒《いっしょ》に堅《かた》いみちを叩《たた》き、枝《えだ》までがガリガリ引き裂《さ》かれて降《ふ》りかかりました。(もうすっかり法則《ほうそく》がこわれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度《いちど》きちんと空がみがかれて、星座《せいざ》がめぐることなどはまあ夢《ゆめ》だ。夢でなけぁ霧《きり》だ。みずけむりさ。”
ガドルフの自らの憐れさに耽っている心情とまるですべてを破壊されてしまうかのような雷雨の激しさを表すうえで巧みな表現を用いていて、魅了されました。
“けれども窓の外では、いっぱいに咲いた白百合《しらゆり》が、十本ばかり息もつけない嵐《あらし》の中に、その稲妻《いなずま》の八分一秒《びょう》を、まるでかがやいてじっと立っていたのです。”
まるでかがやいてじっと立っていたという部分が嵐の中でも百合の花が凛と力強く、たくましく咲いていることを想像させてくれました。
“次の電光は、明るくサッサッと閃《ひら》めいて、庭《にわ》は幻燈《げんとう》のように青く浮《うか》び、雨の粒《つぶ》は美《うつく》しい楕円形《だえんけい》の粒になって宙《ちゅう》に停《とど》まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋《いか》って立ちました。(おれの恋《こい》は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕《くだ》けるなよ。)”
旅人ガドルフが激しい雷雨の中で偶然見つけた家で、嵐の中でも綺麗に咲く百合の花を見つけ、百合を自分の恋だと考え重ね合わせる場面が、感性が現れていると感じ、美しい比喩で、とても印象的だと思いました。また、この部分では庭の風景描写に、幻燈という比喩が用いられて、想像を掻き立ててくれているように思いました。
“たちまち次の電光は、マグネシアの焔《ほのお》よりももっと明るく、菫外線《きんがいせん》の誘惑《ゆうわく》を、力いっぱい含《ふく》みながら、まっすぐに地面に落ちて来ました。”
先程の電光はサッサっと閃いたとあったけれど、今度は“マグネシアの焔《ほのお》よりももっと明るく、菫外線《きんがいせん》の誘惑《ゆうわく》を、力いっぱい含《ふく》みながら”とあり、同じ電光でも巧みな表現で決して先程とは同じではない、強烈な電光を示しているように読み取ることができました。
これらだけでなく、一つ一つそれぞれの文章に用いられている丁寧な表現等が、より一層物語を彩っていて、感銘を受けた作品でした。