セロ弾きのゴーシュ [青空文庫]

著者 :
  • 青空文庫
  • 新字新仮名
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感想 : 14
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  • 当初はセロがあまり上手くなく、周りから遅れを取っている感じがあったが、作中に出てくる動物達との会話や行動を通してセロの腕が上達し、最終的には公会堂で演奏が出来るようになる。
     本文には何がゴーシュを変えたのか、上手くなったきっかけなどはっきりとは書かれていないが、作中に出てくる動物が関わっていることは確かである。1日目は三毛猫、2日目はかっこう、3日目は小狸、4日目はネズミの親子。この4匹の動物はゴーシュに一体何をもたらしたのか。
     初日の三毛猫の「音楽を聞いてあげるよ。」という偉そうな発言にゴーシュは怒りくるう。その怒りという感情からゴーシュは感情のこもった音を出すことができるようになる。2日目のかっこうはドレミを治してほしいとゴーシュに頼む。一緒に練習するうちにセロの音程が直ってくる。3日目の小狸はリズムに乗って一緒に演奏して、リズムがずれてしまう原因を考えさせる。最後のネズミによって、セロの音で小動物の病気が治っていたことを知る。ここではゴーシュが、自分ではなく他人のために演奏することを表している。
     この作品は宮沢賢治のファンタジーの代表作の一つと言え、主人公のゴーシュも現実世界に実際に居るような人物像だ。その人物が動物達と触れ合いやセロの演奏を通し色々な体験をする。これは活動の原動力がなくなりそうな人々へ油をさすような作品だといえる。どこにでもいそうな冴えない演奏家のゴーシュは親しみやすく、自分自身に置き換えやすい。そんなゴーシュが動物達と出逢い、今まで忘れていたものを取り戻し、本人が気づかないうちに演奏力を付けて自信を持っていくのだ。ファンタジーであり現実世界では有り得ない話ではあるが、身近にあるものが題材とされ主人公のゴーシュの親しみやすい人物像から感情移入しやすい作品といえる。
     「ゴーシュ」はフランス語で「左」という意味で、そこから転じて「不器用」を意味する。そのためゴーシュは名前ではなくセロが下手であることからあだ名として「ゴーシュ」と呼ばれていた。また、セロは左手側に高音部がある数少ない楽器であることなどから、筆者である宮沢賢治は右手=近代的な理性主義や合理主義への批判としてこの作品をとらえている。
     この作品には「第六交響曲」、「シューマンのトロメライ」、「印度の虎狩」、「愉快な馬車屋」、「何とかラプソディ」とさまざまな楽曲が出てくるが、この5曲のうち楽曲が明確に判明しているのは、1曲だけである。ゴーシュや動物達の会話からどのような曲なのか自由に想像することができる。

  • 普通の衒ひで、二次消費者がちゃんと地獄を見ると言ふか、かっこうにはあんなんだし、意地の悪いふくろうまで、ゴーシュの家といふ癒しスポットへ行って治療を受けてゐる。
     彼はたぬきのいろいろを聞いて「はっとし」てゐる。
     そして、映画館でのソレで、あんなんなる。
     うーん。

  • 金星音楽団でセロを弾く係であったゴーシュ。この物語は、楽長に「靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくよう」と形容された彼が、演奏までの十日間の体験を通し「十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ」と言われるまでに成長する物語です。
    本作は作者である宮沢賢治が亡くなった翌年に発表された作品であり、「賢治童話作品成立史のおそらく最後に位置する」と言われています。
    演奏までの十日間のうちの四日間、ゴーシュは夜中、明け方までずっとセロを弾いています。そんな彼のもとに毎晩違った動物が現れます。あるときは三毛猫、あるときはかっこう・・・など皆理由は様々ですが彼にセロを弾いてくれるよう頼みにくるのです。そんななんとなく不思議な空間が心地よく、最後のゴーシュの台詞を読んだときに「もう一度読み返そう」と何度も思わせてくれる作品です。

  • この作品は、音楽団で周りの足を引っ張っていたためいつも楽長怒られてばかりいたチェロ奏者であるゴーシュがわずか10日間の動物たちとの触れ合いの中で成長し、音楽団からも賞賛される奏者になる物語である。私は最初に読んだとき、少し違和感を感じた。わずか10日間の間で、こんなに見違えるほどチェロは上手になるのだろうか?しかし、ゴーシュは演奏の技術が劣っていたのではなく、感情のコントロールが苦手な事がチェロの演奏に悪い影響を与えていたのではないかと思った。そして動物たちによってそのコントロールが出来るようになり、賞賛される奏者になれたのではないかと思った。動物たちは、それぞれ個性があり、ゴーシュのことを惑わせる。それによってゴーシュの音楽に感情が乗り、素晴らしい音楽になる。動物と音楽、全く関係なさそうな二つの繋がりが感じられてすごく素敵な作品だった。

  • 作品名から分かるようにこの作品の主人公であるゴーシュはセロ奏者だ。ですが仲間の楽手の中で一番下手でいつも楽長からいじめを受けていました。この楽団は町の音楽会へ出す第六交響曲の練習を行っている真っ最中でした。この音楽会には砂糖屋など音楽を専門職としていないいわゆる素人集団も参加するため音楽団が演奏において負けるわけにはいかないというプレッシャーが楽長、楽団を襲っており緊張が漂っていました。楽団のなかで一番下手なゴーシュ。楽長から目を付けられ厳しく指導を受けます。楽団での練習が終わるまで上手く演奏することが出来なかったゴーシュは解散した後、夜遅くまで、夜中も練習を続けます。これがゴーシュの凄いところです。彼は常に一生懸命なのです。ですが厭味ったらしい一面もあります。練習を終えて帰宅したゴーシュのもとに三毛猫がやってきます。猫はゴーシュに「トロメライ」という落ち着いた曲を弾いてくれるようお願いします。そこでゴーシュが弾いたのは重低音が響く早く激しい「印度の虎狩り」だったのです。三毛猫はのたうち回り苦しみました。ゴーシュにやめるようお願いするも、ゴーシュはそんな猫を見ているうちに面白おかしくなりさらに勢いよく演奏を続けます。猫は我慢ならず家から走って逃げていきます。ゴーシュは残酷なのです。しかし、猫がゴーシュの家を訪れたあと鳥のかっこうがゴーシュのもとを訪れます。三毛猫に行ったようにかっこうにも残酷な仕打ちをするゴーシュ。ですがかっこうの話に耳を傾けることでゴーシュの中で何かが変わり始めるのです。このお話の最初の部分で楽団長はゴーシュに「表情ということがまるでできていない。起こるも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。」と言っています。まさに音楽的なことを除いてみてもゴーシュに足りない部分はこのことなのです。かっこうの話に耳を傾け受け入れるとゴーシュの乱暴な部分が抑えられ、また演奏が上達します。続いて狸がゴーシュのもとに訪れ交流すると今度は楽器の欠陥に気が付きます。話に耳を傾け動物たちと交流を深めることで冷静さや優しさを得ると同時に演奏も格段に上達しついにはいじめを行っていた楽長から演奏技術を褒められるのです。自覚しているのに思うようにことが進まないじれったさ、歯がゆさ。他人にとって当たり前でも自分においては当たり前ではなく難しいというような現代人も共感できる葛藤が描かれています。この作品はそのような困難を克服する成長物語です。

  •  町の活動写真館でセロを弾いているゴーシュは、演奏が下手でいつも楽長に怒られていた。楽長からは、君の演奏には感情がさっぱり出ていない、どうしてもぴたっと他の楽器と合わない、君ひとりのせいでこの楽団が悪く言われてしまうと困ると言われる始末だった。ゴーシュは「じぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄い顔つき」になりながらも一生懸命練習していた。するとそんなゴーシュの元に三毛猫がやってきて演奏して欲しいと言った。しかしゴーシュは荒々しく演奏して三毛猫を追い返してしまう。その翌日から動物が毎日やってきて、演奏するよう頼むのであった。そして演奏会当日、なんとゴーシュはアンコールをすることになった。ゴーシュはからかわれていると思って荒々しく演奏を始めた。すると観客は皆真剣に聴き入り、叱ってばかりだった楽長も仲間たちも演奏が素晴らしかったとゴーシュを褒め称えるのだった。

     これはゴーシュが動物たちとの触れ合いを通じて、セロの技術的にも精神的にも成長する物語である。本作の魅力は動物との交流にある。まず三毛猫は演奏に気持ちを込めることを教えてくれた。今までのゴーシュは上手く弾くことだけを考えて演奏しているのに全く上達せず、みじめに感じていたのではないか。そんな時に三毛猫がやってきて、八つ当たりをしてしまうのだが、感情をぶちまけたおかげで少しすっきりしたのだと思う。だからその後にやってくる動物たちを受け入れることができた。次にかっこうは音階を教えてくれた。その次にやってきた狸の子はリズム感を教えてくれた。最後に野ねずみの親子は、ゴーシュの音楽が誰かのためになっていることを教えてくれた。ゴーシュが狸の子を微笑ましく思っている所や自身の悪い部分を受け入れている所、野ねずみの親子に一切れのパンをあげた所から精神的にだいぶ成長していることがわかる。そしてセロの技術や心の持ちようが変化したゴーシュは、自分の心のままに演奏して聴いている人々の心を動かした。また「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ」より、自分の弱さを認めて自身の行いを省みることができるようになっている。

     ゴーシュが成長していく様をユーモアに描いている部分が面白い。またゴーシュの元に動物が集まってくる様子は、物事に一生懸命取り組み努力する姿は人の心を動かすということを表しているのだと思った。

  • 子供の時に読んだ話を大人になって再読すると、あの頃の感覚がよみがえってきます。例えば、セロを「ごうごう」弾くという表現。ゴーシュの音色は「ごうごう」なのかと、その独特のオノマトペが頭の中に残っているのです。また、かっこうがガラスにぶつかってケガをしながら去るのですが、当時なんてかわいそうな、と思ったものです。再読すると、うっぷん晴らしのイジメです。

    実はラストは覚えていませんでした。今回、あれだけ動物を虐めたのだから報復を受けて当然ではないか、なんて思ってしまいました。けれどもゴーシュの荒れ方は、現代に置き換えれば、仕事でプレッシャーを受けた会社人間の発露、と見ることもできて、興味深かったです。

  • 私も合奏をしたことがあるので、他の人がまとめ役にあっていないと注意されると気まずく、自分の譜を覗き込んだりする経験があったから情景が目に浮かぶようだった。理不尽な扱いを受けている者を助けることができない、見て見ぬ振りしかできないようなところが、合奏以外の社会でも通ずるところがあると感じた。ゴーシュが一心不乱にセロを小屋で練習して、嵐のような演奏でとても人のためになってるとは思えないようなものでも、実は動物たちの役に大いにたっていたというところが、あなたの行動が実は誰かの役に立っている、頑張りはちゃんと見られているよという示唆なのかなと考えた。

  • タイトルは知っていたけれど、こんな話だったとは。
    2014/8/16

  • 動物のおかげでチェロが上手になったお話し

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著者プロフィール

1896年〜1933年。多くの愛好者をもつ詩人・童話作家。「銀河鉄道の夜」「グルコーブドリの伝記」「風の又三郎」など多数の作品がある。

「2023年 『セロひきのゴーシュ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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