感想・レビュー・書評
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書くということ、考えるということ、彼の徹底した姿勢がこういうものを生むのだと思う。
詩というよりは、もっとことばとか存在とか、生きるということ、彼にとっては詩というのは、生きて在るというそのこと以外の何ものでもない。
ただ、考えるということを小説や歌、詩というものにしなければ置いておけぬというのが、彼の生きた当時の様相だったのだと思う。だからこそ、詩というものの形式というものにこだわらなければならぬ。
考えるということはこの身ひとつでできる。そこに、文語とか口語とかない。そして、どういうわけか、考えるということをどうやら日本語で行ってきた。ならば、この身ひとつで考え切ってみせる。徒手空拳でことばに挑むのだ。
詩人というのは、他人が勝手に呼ぶものだ、自分で考え、それを書く。その結果、詩と呼ばれるものになっただけのことだ。まとまっているはずない。だいたい、そんなふうにものを考えていない。考えているのは雅語によってではない。日本語だ。そして、そのことばをもって考える、このおれだ。
きっと折口信夫と出会って対談していたら、もっとおもしろいことばが聞けたに違いない。どうも、同じ匂いが彼らからはしてくる。詳細をみるコメント0件をすべて表示
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