芽生 [青空文庫]

  • 青空文庫 (2000年7月8日発売)
  • 新字新仮名
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青空文庫 ・電子書籍

感想・レビュー・書評

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  • 長編『家』を読み終わったタイミングだったので読んだ。時系列としては、『家』の上巻~下巻の中盤くらいまでの合間に起きた出来事で、藤村史で言えば『破戒』成立直前に小諸から上京~浅草新片町に引っ越すまでの間の出来事。人物名は『家』と全く同じで、
    長女・みどり→お房
    次女・孝子→お菊
    三女・縫子→お繁
    となっている。
    Twitterのフォローワーさん曰く、藤村の自伝的小説の中でも指折り数える危険な小説とのことだったが確かにこれは堪えるというか、読者は「なぜこんなことを書くんだろう」と考えてしまわざるを得ない。特に三女の死については最初とあってあまりにも簡便に済まされていて幼くして葬られたにしても可哀そうだなぁ…と思ったのだった。
    ただ、最後に書かれている「芽生は枯れた、親木も一緒に枯れかかって来た……」の解釈は読み手によって分かれそうなところでもある。これと別に、『家』を読み終えたら読もうと思っていた本では、この部分を「藤村は純粋に子供たちの死を悲しんでいたのではないのだろうか。子供たちの死によって、自らの文学の道も閉ざされることを残念に思っているのか」などと書かれていたが、私はどちらかというと、直前の「私は、何の為に、山から妻子を連れて、この新開地へ引移って来たか、と思って見た。つくづく私は、努力の為すなく、事業の空しきを感じた。」ということに着眼し、生活を立てるための文学が、逆説的に共に生きるはずであった家族を次々に奪っていってしまった、その悲嘆の表れである、と読んだ。『破戒』は彼の輝かしい文学的功績となりえたものの、それによって支払った代償は大きく、純粋に本人の中でも清算・消化しきれるものではなかったのだろう。それゆえの墓参りに行けぬひどい頭痛であり、『家』に書かれている通りの子供の思い出話を遮る姿である。「親木も一緒に枯れかかってきた」という表現に見られるのは、藤村の文学的功績への枯れ、ではなく、本人の体調に直結するような深刻な不良という意味ではあるまいか。
    『破戒』が反響を呼ぶまで、家族は非常に切り詰めた生活であり、借金をしなければ生活できないほどに貧困に喘いでいた。神津猛や秦家当主に借りた金の重みや、子供たちの死などを経て、藤村は身近な人たちを多く文学に書いているが、それはある種、反省と記録と、そして何より自己救済の意味合いがあったのではないかと、最近よく考える。この作品もそのうちの一つだと考えれば納得はいく。が、痛ましいことに変わりはない。
    そして『破戒』誕生エピソードであるこの前史を読んだ後、夏目漱石や田山花袋の破戒評を読むと、苦難の末に成った大作の栄光を感じざるを得ず、思わずありがたい気持ちになった。
    このように、非常に没入感が強く感情移入の激しい作であるので、いろいろな意味で読むときには注意が必要である。特に、子を持つ大人などが読んだら厳しすぎて2、3日寝込みそう…心を強く持ってかかるべしである。

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著者プロフィール

1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。本名島崎春樹(しまざきはるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。明治学院普通科卒業。卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。『一葉舟』『夏草』と続刊。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。日本の自然主義文学を代表する作家となる。

「2023年 『女声合唱とピアノのための 銀の笛 みどりの月影』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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