長編『家』を読み終わったタイミングだったので読んだ。時系列としては、『家』の上巻~下巻の中盤くらいまでの合間に起きた出来事で、藤村史で言えば『破戒』成立直前に小諸から上京~浅草新片町に引っ越すまでの間の出来事。人物名は『家』と全く同じで、
長女・みどり→お房
次女・孝子→お菊
三女・縫子→お繁
となっている。
Twitterのフォローワーさん曰く、藤村の自伝的小説の中でも指折り数える危険な小説とのことだったが確かにこれは堪えるというか、読者は「なぜこんなことを書くんだろう」と考えてしまわざるを得ない。特に三女の死については最初とあってあまりにも簡便に済まされていて幼くして葬られたにしても可哀そうだなぁ…と思ったのだった。
ただ、最後に書かれている「芽生は枯れた、親木も一緒に枯れかかって来た……」の解釈は読み手によって分かれそうなところでもある。これと別に、『家』を読み終えたら読もうと思っていた本では、この部分を「藤村は純粋に子供たちの死を悲しんでいたのではないのだろうか。子供たちの死によって、自らの文学の道も閉ざされることを残念に思っているのか」などと書かれていたが、私はどちらかというと、直前の「私は、何の為に、山から妻子を連れて、この新開地へ引移って来たか、と思って見た。つくづく私は、努力の為すなく、事業の空しきを感じた。」ということに着眼し、生活を立てるための文学が、逆説的に共に生きるはずであった家族を次々に奪っていってしまった、その悲嘆の表れである、と読んだ。『破戒』は彼の輝かしい文学的功績となりえたものの、それによって支払った代償は大きく、純粋に本人の中でも清算・消化しきれるものではなかったのだろう。それゆえの墓参りに行けぬひどい頭痛であり、『家』に書かれている通りの子供の思い出話を遮る姿である。「親木も一緒に枯れかかってきた」という表現に見られるのは、藤村の文学的功績への枯れ、ではなく、本人の体調に直結するような深刻な不良という意味ではあるまいか。
『破戒』が反響を呼ぶまで、家族は非常に切り詰めた生活であり、借金をしなければ生活できないほどに貧困に喘いでいた。神津猛や秦家当主に借りた金の重みや、子供たちの死などを経て、藤村は身近な人たちを多く文学に書いているが、それはある種、反省と記録と、そして何より自己救済の意味合いがあったのではないかと、最近よく考える。この作品もそのうちの一つだと考えれば納得はいく。が、痛ましいことに変わりはない。
そして『破戒』誕生エピソードであるこの前史を読んだ後、夏目漱石や田山花袋の破戒評を読むと、苦難の末に成った大作の栄光を感じざるを得ず、思わずありがたい気持ちになった。
このように、非常に没入感が強く感情移入の激しい作であるので、いろいろな意味で読むときには注意が必要である。特に、子を持つ大人などが読んだら厳しすぎて2、3日寝込みそう…心を強く持ってかかるべしである。