作者の作品を恥ずかしながらほどんど読んだことが無いが、羅生門や蜘蛛糸から得た印象は今日まで"薄暗く遠くに仄かに希望の光が見えたかと思えば、呆気なく踏みつぶされる人間臭さをどこか感じる作品たち”そんな印象を本日まで持っていた。
しかしながらこの「ピアノ」という作品はその彼の人間らしい、どこまでもあざとさを感じるような雰囲気はなく、ただただそこにある情景に対して少しの怯えと否応なしに移ろう時の流れを肌に感じ、僅かの希望を込めているようなそんな感覚にさせられた。
舞台は関東大震災の翌年の横浜の秋。とある誰かのほんの少しの時間でのできごとを切り抜いた作品であるが、作者自身はこの震災について「大震雑記」の中で"作家の人生観を一変することなどはないであらう"と触れているがそんなことはきっと無いのであろう。
この「ピアノ」という作品に込めた1つの音色が意識的に鳴らされたのではなく、自然に鳴ったであろうことに対し、まるで意思を持って鳴らされたかのような情景をほんの少し入れることで、作者自身の中での不安感に対して希望と共に復興していくであろう周りの風景に思いを馳せたのではなかろうか。
ところで、この作品に出てくるピアノはグランドピアノであるのか、もしくはアップライトピアノであろうかという点が描写を思い描くにあたり非常に重要なポイントであることは読者たちは気付いたであろうか。
弓なりになるピアノということからはどちらなのか正直判断できかねないところではあるが、"壁にひしがれたまゝ"の文言から察するに壁側にほぼピタリと置かれたであろうピアノと震災は大正時代であり、1900年にヤマハがアップライトを完成させ裕福な家庭で次第に購入されるようになっていっている最中であることから、恐らくアップライトではなかろうかと結論が出てくるわけである。
ここでやっと私たちは崩れた家の壁側のある一か所に静かに置かれる蓋の開いたアップライトピアノへ思いを馳せることができるのである。
だがしかし、ここで更に問題がある。
家の崩れた跡という悲惨な状況下で、果たして蓋はあけたままになるだろうかということである。
アップライトでもグランドピアノでも当時の耐震強度の家の作りで、当時の最大震度である震度6の前に、蓋は果たしてそのままの状態を保てるのであろうか。
私の答えは否である。案外軽率に閉じられてしまう事を私は既に経験済みであるため、これは意図して震災後に蓋が開けられている可能性が高いであろうという事に気づかされ、そのことから私はある1つの可能性を見出した。
もしやこの家のピアノは、また別の誰かがこっそりと度々弾いているのではなかろうか。そのため蓋は閉じられることなくひっそりとその場所にたたずんでいるのではないだろうか、と。
主人公が誰も知らぬ音を保っていたと思っていたそのピアノは、また別の誰かの思いと共にそこで静かに時折音を奏で、ひっそりと時の流れに身を任せているのではなかろうか。
この作品には男かも女かも、ましてや年齢すら不明の登場人物がたった1人出てくるだけであるが、実はこの背景には他にも多くの震災に襲われながらも住み暮らす人々の希望の象徴として、片づけられることもなく、蔑ろにされる事もなくひっそりと人々の心の灯としてただそこに置かれていたのではなかろうか。
きっといつかは復興のため片づけられてしまうであろう、きっといつか人々が立ち上がり忘れてしまうであろう、それでもただそこに1台の静かなピアノが置かれていた。
その事実が人々の記憶から完全に忘れ去られてしまっても、その音色を主人公に知らせた、栗の木だけが忘れることなく覚えているのであろう。