今夜こそ、かねて計画していたとおり、僕はこの恐ろしい精神病院を脱走しようと決心した。母親のお鳥に連れられて内地からこの北国の黄風島に移住してきた。母親と二人でこの島へ着いたときは、かねて内地で親しくしていた森虎造というおじさんが迎えに出てくれて良くしてくれていた。一と月あまり、それでも物珍しく楽しい日を送ったが、或る日のこと、母親は下町へ行って、僕一人で留守番をしていたことがあった。僕には悪い病があって、いつもは手をつけては怒られるような戸棚の中や梱の底などをソッと明けてみるのが非常に楽しみだったのである。その日も秘密の楽しみを味わった後、くつろいでいると誰もいないと思っていた扉が急に開き、四五人の男が現れ、僕を見て何か言った後、精神病院に入れられた。この退屈な監禁室の生活に、ただ一つ僕を慰めてくれたものがあった。それは密かに身に隠して置いた一個の鍵であった。鍵は、古ぼけた珍しい形のもので奇妙なことにその鍵の握り輪の内側が、丁度若い女の横顔をくりぬいたような形になっている。この鍵は、森虎造おじさんの部屋から持ち出したものであった。面会に来た母親と森虎造おじさんの詰問するような態度に不信感を覚え、策を講じてなんとか精神病院からの脱走に成功したが、追手の魔の手が迫っていた。賞金が懸けられていたのである。「北川準一!」僕の名前が呼ばれ、振り返ってみると美しい振袖を着た美しい女が立っていて、僕の両腕の急所を締めつけていた。絶体絶命な状況である。僕はこの女のために、金に変えられて仕舞う運命なのであろうか。尼寺に逃げ込んだ僕は、年若い尼僧と出会った。そして今までの事情を語った。尼僧は快く僕を受け入れてくれたのであった。朝、目覚めて尼僧の姿を見たとき既視感を覚えた。尼僧は鍵を譲ってくれないかと頼み込んできた。その変わりに、僕の脱走の手伝いをすると。島からの脱走のために変装をしているとき、僕は気が付いてしまった。そのことに気が付いて、一人で島から脱走することをためらったが結局脱走することになった。すべてが終わり、僕は黙って傍の棚の上から島田髷のかつらを下すと彼女の頭にかぶせた。するとそこには、はっきりと鍵から抜け出した横顔の女が現れたのであった。
この小説は、主人公である僕が持っている鍵が重要な役割を果たしている作品である。若い女の横顔をくりぬいたような鍵は何なのか、何故精神病院に入れられ命を狙われるはめになったのか、読んでいて自然と続きが気になる作品である。