破戒 [青空文庫]

  • 青空文庫 (2006年12月30日発売)
  • 新字旧仮名
4.46
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感想・レビュー・書評

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  • この小説は、まだ封建的身分差別が残る明治時代後半が背景となっています。主人公は、差別される身分出身の若い教師・瀬川丑松です。舞台となる明治時代の始まりには士農工商の身分制度の廃止、次いで解放令により穢多・非人の身分区別も廃止。すべての国民が平等となりました。しかし、時がたっても身分に対する偏見は残っており、主人公の丑松はそのことに対して強い不満を持っています。その一方で出身がばれたら全てが終わってしまうという恐怖と、父の教えである自分の出身を隠しとおせという戒めを守り教師生活を送っていました。 そんなある日、丑松の下宿先にいたお金持ちが穢多であることを知った人々が惨い追い出し方をしているところを目にします。丑松は、次は自分かもしれないという恐怖心から下宿先をお寺に変えることにしました。お寺にはお志保などの優しい人がいて、丑松は一安心しました。
     そんな差別に苦しむ丑松には尊敬している思想家・猪子蓮太郎がいました。彼は、自分が穢多であることを公言し、たったひとりで差別社会と戦っていました。猪子先生を尊敬してやまない丑松に、同僚で親友の土屋は先生から感化を受けすぎるのはよくない、自分たちは普通の人間なのだから穢多のために悩む必要はないと言います。その言葉は丑松に今まで見てきた差別を思いださせ、また悩むことになります。それでも、苦しい境遇と戦っているのは自分だけじゃないと思いなおし強くなろうと決めます。
     そんななか、丑松の父が亡くなったという電報が届きます。急いで古郷に戻るための舟の途中、丑松は自分の町の議員を見かけます。何とか顔を見られないようにやり過ごした丑松は、無事に古郷に到着し父の供養を終えます。その帰り道、偶然猪子先生に会うことができました。話をする中で、丑松は先生からいつまで素性隠す気だと問われます。しかし、父を裏切れないという思いとその場で告白する勇気がでず先生にひどい言葉を浴びせてしまいます。寺に帰り、このまま出身を隠して生きていこうと決めたとき、あの議員が訪ねてきました。実はこの議員、金持ちではあるが身分に劣等感のある穢多に目をつけ、政治家の自分が身内になることと引き換えにお金を得るという卑怯なことをしていたのです。議員は舟で丑松に気付いていて、丑松の身分のことを黙っているから自分と家内のことも黙っていてくれと脅しに来たのです。丑松は認めたら自分の人生が終わると思い、人違いだと言い続けました。
     次の日、学校へと行くと自分が穢多であることが議員によってばらされていました。そのことは丑松が学校を休むほどのショックを与えました。その間、猪子先生は議員の不正を大勢の前で告発し、またもひとりで差別と闘っていました。その話を耳にした丑松は、やはりすべてを先生に打ち明けようと決め、先生のもとへと向かいます。しかし、猪子先生は議員により殺されてしまいました。結局すべてを話すことはできませんでした。先生の死をきっかけに、丑松は自分の生徒の前ですべてを打ち明けることを決め、父の戒めを破ることにします。すべてを打ち明けたあと、辞表を親友・土屋に預けその場を去ります。丑松がいなくなったことに気付いた土屋は、事情を知るお志保と猪子先生の奥さんと共に探しに行きます。丑松は雪山の中にいました。一緒に探していた人の中にいつかの日に丑松がいた下宿を追い出された人がいました。丑松は彼から一緒に猪子先生の思想・考えを受け継ぎ一緒に戦わないかと言われます。丑松はその誘いを受け戦うことを決めます。これで物語は終わりです。
     破戒を読んで感じたことはいつの時代にも差別があるということと、差別は悪いこととわかっているのになくならないということです。実際にこの本が書かれた時代から差別はいけないことだと認識し声をあげている人が居たにも関わらず、今現在も出身・見た目・障がいの有無などで差別は起こっています。私たちはそのことをもっと理解し考えていかなければならないと思いました。

  • 中身について考えを述べることは誤解を招いたらいけないので、控える。

    ただ、後半は一気に読んでしまうくらい引き込まれた。
    教室で破戒するシーンは泣いてしまったし…

    中学生で読んでいたら、もっと主義思想が変わってきたかもしれない作品。
    内容はある程度理解できたし、読みやすかったです。

  • とても良かった。辛い気持ちが伝わり、心が苦しくなった。

  • 明治になったにも関わらず、差別され続ける穢多の男の葛藤を描いている。父の戒めを破らないように生きてきた丑松を苦しめていたのは世の中の差別的発想だけではなく、父に戒めそのものであると気づき動き出すことを決めた丑松に勇気付けられたり、共感する読み手もいるだろう。周りの登場人物を見て奮い立つ丑松の姿は現代社会で苦しむ弱い立場の人々に光を与えてくれるだろう。今は穢多という身分について歴史の授業で少し学ぶ程度だが、差別自体は日本だけでなく世界中にまだまだ存在していて苦しんでいる人が多くいる。世界的に有名な「アンクル・トムの小屋」のように、この作品ももっと読まれるようになると人々の差別に対する意識が変わるのではないか。重いテーマだが「差別」について考える機会を与えてくれる作品である。人間としての一面がはっきり描かれている作品であるので、皆一度は読んでいただきたい。

  •  テレビで市川雷蔵主演で映画化されたものが放送されると聞いて読み始めた(結局テレビは見ず)。明治39年に書かれたようなものが俺に読めるかなと思ったのだが、いざ読み始めるとすいすい読めて、単に社会問題を告発するというだけではなく物語としても読者をぐいぐい引っ張ってゆくのであり、なるほど長く残っているものには何かあるんだな、と思わせた。ちょっとテーマ的にあれだがマジ面白いから。

  • 島崎藤村は初めて読みました。穢多という階級がかつてあったこと、新平民となってからも続いた差別の過酷さを知りました。丑松が穢多だと知ってから手の平を返すような人々、でも変わらずにいた銀之助やお志保、生徒たちの尊さを感じました。かつて道徳の授業で同和問題について学びましたが、何故生まれで差別があるのか理解出来ませんでした。破戒を読んで心が痛かったです。父親からの戒めに煩悶する丑松は辛い描写でしたが、ラストは光が見えたようでほっとしました。

  • 名作。穢多である主人公の教師が、穢多を公言する先生と出会い、自分のことを隠していることを苦悩する。
    とても考えさせられる作品だった。
    差別問題というのがまだまじまじとあった時代に、尚更衝撃的な作品であったろう。
    島崎藤村は夜明け前しか読んだことなかったので、それはやったら長いという感想しかなかったので、印象変わりました。すごい作家だった。
    穢多出身だからといって主人公を貶めようとする同僚の方がいくら醜いことか。
    父に決して穢多出身であることを明かすなと遺言され、その一戒を破るから破戒。そこに至るまでの葛藤、悩み、懊悩、想像を絶するものだ。
    教室で生徒に告白するシーンは涙なしでは読めない。
    瀬川を引き留める生徒たちの純粋さにも心が打たれる。
    どうか差別のない世界へ。胸を打つ作品だった。

  • 差別について。同じ民族の中で作られたこの差別について、憤りと滑稽さとを感じたのは何故か?小説の中の世界に引き込まれると息苦しさや憤りを感じ、時を経てこの差別について(幾分)自由にものが言える現在の世界に立って吟味すると主人公始めこの差別に振り回される登場人物に滑稽さを感じるのだろう。翻って、そのような場が空気が作り出されていたという歴史に寒気を感じる。そうすると、この作品の重力からは逃げ出せなくなる。
    別の観点から。非常に美しい自然の描写によって示唆される超越的なものへの畏れ、恋の現われるさま、導いてくれる人への憧憬といった瑞々しい青年期の感情はことごとく挫かれてしまう。身分を隠すことは、これらの自然な感情を相対化してしまうからだ。そこにある心理的な機構は何だろう?情報の確かさはメタ認知によって調節されるということだろう。自己と他者の区別。自己と他者の視線からの自己の区別。他者からの攻撃を避けるための社会性と、それを基盤として生じる差別の関係性。

  • 青空文庫で見つけて、つまみ読みするつもりが読んでしまった。

    父親に同和出身と言ってはいけないと言われていた戒を破ってしまって社会を追われる主人公。
    名作だけれど、理不尽な差別を本人自ら背負う必要があるんだろうか、
    父が言うようにそれはないことにして生きたほうがよかったんじゃないかと思ったりした。

    『是この山国に住む人々を分けて見ると、大凡おおよそ五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶ばうさんと、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団ひとかたまりに成つて居て、皆さんの履はく麻裏あさうらを造つくつたり、靴や太鼓や三味線等を製こしらへたり、あるものは又お百姓して生活くらしを立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親おとつさんや祖父おぢいさんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物くひものなぞを頂戴して、決して敷居から内部なかへは一歩ひとあしも入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出おいでになりますと、煙草たばこは燐寸マッチで喫のんで頂いて、御茶は有ありましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤いやしい階級としてあるのです。もし其穢多が斯この教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親おとつさんや母親おつかさんは奈何どう思ひませうか――実は、私は其卑賤いやしい穢多の一人です。』

    『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒どうぞ父親おとつさんや母親おつかさんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽かくして居たのは全く済すまなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白うちあけたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』

    せっかく教員になっても、平民として普通に生きられずに、自分のその後の人生を台無しにしても、生徒の前でこういうことを言わずにいられないほど、自分で自分を賤しいとか、不浄と思って育つ人がいた、心の中でいつもあげていた悲鳴が出たのだということがとても悲しいと感じた。

  • 被差別部落出身の瀬川丑松という教師が、自分の父親の「隠せ」「忘れるな」という言いつけを破戒し、ついに身分を告白する、という物語。穢多とか非人とか四足とか新平民とか、色々な呼び方が出てきたが、とりあえず全部ATOKの辞書には登録されていない。差別的な用語だからだろう。

    最初は旧仮名遣いで読みづらく、一章あたりで50分近くかかったが、読み進めていくとどんどん慣れて一章あたり20分ぐらいで読めるようになった。全二十三章(表記は第弐拾参章まで)。

    破戒というタイトルは僧侶とお志保さんの関係にも関わっているようなタイトル。和尚さんは紛れもなく破戒僧である。その辺を相関させつつ、父親の戒を破ることが物語として展開されている。
    以下本文より――

    破戒――何という悲しい、壮しい思想だらう

    穢多の身分というだけで下等人種扱いされるのは明治の時代性だけだといえようか。現代にも出身や仕事でそうした差別が往々にしてある。人間が偏見を持ちうる限り、永遠に戦わせる物語であり、また人間の宿業として始末に負えないものでもあろう。

    個人的に気になったのは、最終版の――
    「御機嫌よう。」
    それが最後にお志保を見た時の丑松の言葉であった。

    という部分。もの悲しい終わり方をしている。二人の末路まで語り尽くさないことも文学の美学であろうか。反って締まりが潔く感じて、また厳しくもある。

    瀬川丑松の身の上は人ごとでは済まされない。いつ自分が非人扱いされるか、物語では風聞や噂話から展開されている。いかに人間の秘密が伝播しやすく、信用が当てにならないものなのか、良く勉強になった。

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著者プロフィール

1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。本名島崎春樹(しまざきはるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。明治学院普通科卒業。卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。『一葉舟』『夏草』と続刊。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。日本の自然主義文学を代表する作家となる。

「2023年 『女声合唱とピアノのための 銀の笛 みどりの月影』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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