小宮山良介という学生が、ある夏北陸道を漫遊した時に、小川温泉の柏屋という宿に宿泊する。友人である篠田から美しい湯女(江戸時代初期の都市において、銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性のこと)がいると聞いていたが、病気で寝込んでいた。その湯女は毎晩魘されていて側にいてやりたいが、異形が周りにいるので近づけないのだと、宿の者は説明する。そして、小宮山が側にいてくれないかと頼まれ、了承する。
湯女の話によると、毎晩同じ時間にやって来る女に「その病気を治してやる。」と破家に連れていかれる。闇衰えている彼女をびしびしと打ちのめし、男を思い切れば治る病気であるのになぜ思い切らないのかと責め立て、あまりにも苦しいので「思い切ります」と約束したが、想いを断ち切れず、また次の日も責め立てられ、さらに日に日に酷くなっているのだという。それを聞いた小宮山は、それは熱のせいだから大丈夫だと実際にあった事例を示しながら、湯女を慰める。そして、彼女が就寝した後、小宮山が用を足しにいった後に、大きな蝙蝠が彼女を連れ出すところを目撃してしまうのである―…。
作者である泉鏡花と言えば、1906年頃から自然主義文学が活発になった影響から、文壇的には影の薄い存在ではあったものの、能楽や江戸文学から強く影響を受けた鏡花の世界は、母恋いの情、鮮やかな色彩性、夢幻性を持つ(JapanKnowledge「泉鏡花」 参考)。
この作品は、終始語り口調で展開され、まるで実際に耳で怪談を聴いているような感覚に陥る。そして、鏡花の特徴ともいえるだろう、幻想的な描写があるシーンにおいては、恐ろしい怪談という意識を感じさせず、思わず見入ってしまう。特に、湯女を連れ出す大きな蝙蝠が舞うシーンは息を吞む程の美しさである。
そしてやはり一番に注目すべき点はその奇妙さ・奇怪さであろう。私は、背筋が凍るような恐ろしさというよりは、まるで背中を何かが這っているような妙な気持ち悪さを含んだ恐怖を感じた。小宮山が大きな蝙蝠を目撃した後の破家でのシーンはもとより、最後の小宮山と、彼の友人であり、湯女の恋煩いの相手である篠田とのシーンでも、何とも言えない不気味さがあり、読者にとって非常に居心地の悪い状態で物語は終わるのである。
鏡花の作品は怪奇小説という特性からも、近代文学の中では読みやすい作品が多いと感じる。『湯女の魂』は代表作ではないため、入り口にするには少しコアかもしれないが、読みやすいので、機会があれば手に取ってみてもいいかもしれない。