合わせて「如是我聞」も読む。
まず、「如是我聞」は、太宰の感情が文字に移りすぎていて、読むのに疲れる。まさに感情を爆発させるがままにさせたような文章で、他者に読まれることをまるで意識しておらず、読むのに大変苦戦した。
反対に、こちらは感情を廃しており、大変読みやすい。
読みやすさ云々は抜きにして、総合的に見ると、「志賀直哉に文学の問題はない」は「如是我聞」よりも痛烈な志賀直哉批判であると言える。私的な感情論を抜きにして、的確に志賀直哉の小説を批判しており、私自身が「暗夜行路」を読んだ際に残ったモヤモヤがスッキリ晴れていくのを感じた。
そもそも、「暗夜行路」には、苦悩がなかったのである。あたかも苦悩しているかのように描かれていたが、本質的な苦悩は何一つなく、「暗夜行路」の主人公(=志賀直哉)はただの恵まれたドラ息子であり、その恵まれた、甘やかされた生活の地盤を揺るがすような出来事に対峙することが一度もなかった。『これが名作と呼ばれているのか』と一時自身の読解力を疑問視したのが、これを読んでなるほどスッキリ晴れ晴れとした。
『この阿呆の健全さが、日本的な保守思想には正統的な健全さと目され、その正統感は、知性高き人々の目すらもくらまし、知性的にそのニセモノを見破り得ても、感性的に否定しきれないような状態をつくっている』
まさにこれだと思った。目がさめるような、志賀直哉ひとりに留まらず、あらゆることに当てはめることができる見事な一文である。