ブクログ談話室

感情移入の仕方

    未回答
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  • 雑談
わたしは感性が鈍いのでしょうか。本やドラマ、映画などを見て、自然と涙が出るようなひとに憧れます。
涙を流す行為そのものに憧れてるんじゃなくて、自然と涙がこぼれるほど感動を噛みしめられるひとに憧れます。
そういうひとたちは、やっぱり感性が研ぎ澄まされていたり、感情移入がうまかったりするのでしょうか?
わたしは情景は頭にうっすらと浮かんだりしますが、感情移入がうまくできません。感動はするけど、表面上の感動というかなんというか、自分的になんだかしっくりこないんです。
どうやったらうまく感情移入ができる(しやすくなる)か、みなさんが普段していることなどを具体的に教えてください。お願いします!

3/27 追記
感情移入だと抽象的なかんじなので具体的に言うと、
物語をただ傍観しているんじゃなくて、自分がその物語の人物になってその物語を体験しているような感覚になりたいです。

3/28 追記
回答締め切りました!
回答してくださった方、本当にありがとうございました!
質問No.953
みんなの回答・返信

求められていないのを覚悟で最後に一つだけ。

はろーすみす様の言われる通り、
主観と客観なのだろうな。
主観より客観を。情緒より論理を。
常に正しいとした価値観を持つ事は、
個性でもあり、それゆえに、
自分を制御するディシプリンを持つ事は気高きこと。
学校の勉強は常に客観を求められる。
作文でさえ点数を付けられれば、
良い点を取るには客観的に思慮しなければならない。
0
回答No.953-08643
コメント 13件
だけど一つだけ。
客観や論理が自分を傷つけようとするとき、
それに悩まない主観を持つ勇気を持つこと。

客観的考察や論理的思考は、
社会的に正しい見解を与えてくれるが、
それが自分自身の精神、心の健康にとって、
常に正しいとは限らない。
ときとしてそれは、歪んだ認識を与える。
「なぜ自分はこんなに生きることが辛いのか」
そんな漠然としたものをもし感じたときは、
自分の客観性や論理を疑う必要がある。
> あると思えばある ないと思えばない
> 吉兆と思えば吉兆 災いの兆しと思えば災いの兆し
> すべては人の心しだいということだ
蒼穹の昴 最終回 「永遠の昴(すばる)」より
ふゆっきさんありがとうございます!
えっとここからはふゆっきさんの意見とはあんまり関係ない、わたしの見解かもしれないんですが、わたし的にはふゆっきさんの意見と繋がっていると思うので、よかったら聞いてください。
おそらくわたしとはろーすみすさんのやりとりを見たと思うんですが、はろーすみすさんはわたしに、客観的に本を読む行為に関して、『他人の身に起きた出来事に感動できるなんて素敵』って言ってくださったんですが、そういうのもひっくるめて、やっぱりわたしは主観的に本を読む行為に憧れてしまいます。客観的に本を読んでいると、物語を傍観してる自分で、それはあくまでも自分だからです。
役者さんもよく言いますが、人間は一つの人生しか経験できないけど役者は台本の数だけいろんな人生の経験ができる。わたしは本を主観的に読んで感情移入してその物語を自分で経験してるようになりたいです。でもそれは客観的に本を読んでしまうわたしにとってはとてもむずかしいことです。だからぐちぐち言ってもしょうがないんですが、やっぱり諦められないです。
なんかここまできて自分の言いたいことがあやふやになってきちゃいました(笑)
まぁでもこれも個性として受け入れるしかないのかなって思います。
人間の脳(ミラーニューロンも含む)にとっては想像上の事も現実の事も同じように処理をするんです。つまり小説の読み方と現実の捉え方というのは相互作用すると考えられます。小説を客観的に読めば現実も客観的に捉えやすくなる。現実を主観的に捉えれば小説も主観的に捉えやすくなる。のではないかと。
マザーテレサは言います。思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつかあなたの運命になるから。
僕は最近涙脆くなったと感じています。でも昔はそんな事はなく客観的でどこか冷めていて自分には自分が無いと感じていた。そこで昔と何が変わったかと考えるとやはり現実の捉え方じゃないかなと思うんです。根本的には価値観であり世界観です。意識的に客観的であろうとか主観的であろうとか切り替えるのは無意識ですから無理です。
だからもっと根本を変える。科学的根拠、論理的思考、客観的考察が常に唯一の答えであり世界であるという捉え方をやめた。科学は観測者の感情を排除する。論理は言葉以外を排除する。客観とは多数の主観の寄せ集めでありそれらの共通項が互いに約束された現実となる。そんなものが世界の全てであるという考え方を止めようと思った。
僕は自分を変えるべき差し迫った理由があった。うつ病です。初めから世界観を変えようと思っていた訳ではない。自分はなぜ生きにくいかと問い続けて色々な本を読み考えた。多少なりとも主観的になる事で僕は少し安定した。僕の考え方が誰にでも有効か分からない。でも、主観的になるには?と問い続ける事で全然違う答えが見つかるかもしれないとも思う。
ニュートンとデカルトをキリスト教が利用したのが今多くの人が思っている世界観だと言われている。世界は絶対的な客観が可能でそれが全てを知る神である。西洋で生まれた科学はそういう神が見通した世界観の上に成り立つ。もちろん現代日本の学校で習う事も全部そう。だが本当にそうなのか、我々の世界観は僅か300年前に生まれたものでしかない。
あ。そう、演劇の稽古には感情開放っていうのがあるんだ。僕も少し参加した事があるけど、あれは少し面白いと思うよ。
うーん。そんなに悩むことかなぁとは思います。悪い意味でなく。
というのも、私もちゅろすさんと殆ど同じだからです。同世代の人に比べて本や映画は多く読んだり観たりしている方ですが、そうそう滅多に涙するようなことはありません。ただ、胸の奥がきゅううってなったりはします。
なので、別に感動していないわけではないのです。
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回答No.953-08640
コメント 5件
個人的な見解ですけれど、「泣ける人」と「泣かない人」の違いは、物語を「主観的」に捉えているか「客観的」に受け止めているかによるものではないでしょうか。
主観的に読む(または観る)人は当然、知らず知らずのうちに感情移入するタイプなので、作品内の出来事をさも自分の体験として置き換えます。結果、自然と涙が溢れてくることも多くなる。だって言ってみれば自分自身の経験なんですもん。
一方で客観視するタイプの人はいわば見守り型なため、自分の感情と劇中の物語との間に一定の距離感を保っています。だから相手を想って感化されはすれど、ダイレクトに“自分のことのよう”には感じられないのかな、と。

ただ、これって特に意識して得た見方でもなんでもなくて、気付いたときにはこうだったんですよね。それは主観読みの人が客観読みできないのも同じです。正直変えるのは難しいと思います。
でもそれで自分が受けた気持ちを“表面上の感動”と否定するのはちょっと違う気がします。だって主観であれ客観であれ、感動したことは事実なんです。感性が鈍いなんてとんでもない。むしろ他人の身に起きた出来事に感動できるなんて素敵なことじゃないですか。その感情を否定してしまうのは哀しいです。

質問の趣旨から大分ズレてしまってすみません。似たような立場の人間の一意見でした。
回答ありがとうございます!
わああああああ、納得!見事に的を射抜かれた感じです!
はろーすみすさんの見解からすると、わたしとはろーすみすさんは客観的に見る方なんですね。うーん、やっぱり変えるのは難しいんですか。
『主観であれ客観であれ、感動したことは事実』
『他人の身に起きた出来事に感動できるなんて素敵』
こんなことが言えるはろーすみすさんはもっともっと素敵です!
あと、表面上の感動なんて言ってすみませんでした。でもわたしは前に、無理やり涙を流してるときがあって、そう思ったときもあったんです。哀しいことですよね。
えっとなんかすごい勉強になったので、ハートマークつけさせてもらいます。あとフォローも。
はーっ!なんかモヤモヤが晴れてスッキリしました!本当にありがとうございました!!
あくまでも僕の場合の、
僕自身の解釈なんですが。

何か無意識のうちに、
自分で自分を縛っている心理が、
感情を抑圧している。
「じぶんとはこうあるべきだ」とか。
「自分がこうのほうが他がうまくいく」とか。
それで感情を出さない分、
周りに合わせる為にそれを、
理解力と想像力で補おうとする。
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回答No.953-08631
コメント 33件
たとえば。この状況は経験から、
面白いと判断出来るから、
自分もきっと面白いはず。
だから笑えばいいと理解する。
笑っていれば、
自分も面白いような気がする。
けれど、それは感情ではなく、
外から自分を見るような客観的な感じ。
そしてそれで不自由がないから、
自分の感情に必要性を感じない。
だけど、何か自分は他人と違う感覚が残る。

ちょろす様とは違う?
それとも似てますか?
うーん。どうなんでしょう。わたしは面白いときは素直に笑うようにしてます。この行為がそうなんでしょうか?
少なくとも自覚はないです。
あと前に友人に、何考えてるかわからない、とか言われたことあるんですけど、それは関係あるんですかね?
自覚は出来ませんね。ほとんど無意識だから。
ご友人が何を感じてそう言われたのか分かりませんが、
感情をあまり表に出さないからとも受け取れます。
下でも書いたけど、人は相手の行動を見て、
脳内でシミュレートする事で気持ちを察する。
それをお互いがする事によって意思疎通が潤滑になる。
相手の顔を見て会話が出来ないというのは、
相手の感情を察する上で、
大きなハンディキャップとなるだけでなく、
脳内でのシミュレートの精度にも関わってくる。
そしてそのシミュレートの精度は自分の感情の、
豊かさに直結する。感情は人に伝える為のものだから。
感情は人に伝える為のものなんですかぁ。
わたしは何考えてるのかわからない、って言われるとなんだか嬉しくなります。
あと、自分が思ってる自分と他人が思ってるわたしがすごい違ってて、なんか変な気分になって、それもまた嬉しかったりします。あ、良い印象のときはですけど。
あぁ、凄く分かる。人に分からない自分っていうのは人と違う自分だから、それって個性的で素敵だって思ってた。
感情は人に伝える為のものっていうのは、感情は人に伝えなきゃ意味が無いっていうことじゃなくて、人間っていう生き物になぜ感情があるか考えたとき、それはコミュニケーションの道具として生まれたんじゃないかなと思うんだ。
ミラーニューロンの話に繋がるけど、人間は赤ちゃんのとき快と不快の感情しか持っていない。それが母親や他の人とコミュニケーションするうちに豊富になっていく。母親の行動を脳内でシミュレートするが始めは上手くいかない。
それがだんだんと自分の感情→行動というシミュレートとそれに対する母親の行動→感情というトライ&エラーを繰り返すうちに赤ちゃんは感情というものを覚えていく。だから感情を人に伝えるかどうかは自由だけど、本来、感情がコミュニケーションの道具である以上、その役目もまた人間関係において重要じゃないかと思うんだ。
心理学では心にはジョハリの窓という四つの窓があるとされる(wikipedia参照)
。ウィキの解説にある通り、盲点や秘密が未知の領域に広がれば自然と開放される自己も大きくなる。つまり、知らない自分を自分や相手が見つける事で、相手に見せる自分も自然と多くなるということだそうだ。
そうなんですよねぇ。
何考えてるか分からないって言うひとが増えるたび、わたしって特別なのかも!とか思っちゃったり。ってこれはわたしの場合なんですが(笑)
なにからも特別なんてないってわかってるから、一時的な自己満なんですけどね。
でもそれは、わたしのなかに特別でありたい!普通はやだ!っていう感情があるからかも。
このブクログをはじめたのも、他人とは違う、新しい自分を見いだすためです。
わたし自身、不思議なひととか、なんか他の人とはちょっと違うところに努力してるひとが好きなんです。
だから、好きこそものの上手になれ(あってる?)で、そうなりたいなぁって。
話変わって感情の話。
たしかに言われてみればそうですね。コミュニケーションの道具。
感情は表に出せば伝わるけど、出さなければわかりませんからね。
否が応にも出ちゃうときはあるけど。でもその場合をのぞいて、わたし的に感情を表に出すひとは、まわりのひとに自分をわかってほしいんじゃないかなーと思います。まわりのひとみんなに。
わたしはなんというか、みんなにはわかってもらわなくていいんですよね。本当にわかってもらいたいひとだけにわかってもらえれば。
だからそういうひとの前では感情をできるだけ出すようにしてます。
まわりのひとみんなに感情を出さないのは、人見知りするせいでもあるんですが。言っちゃえば出さないっていうよりは、出せない、ですね。
・・・って矛盾してる?(笑)
でも少なくとも、さっきもいったとおり、本当に
わかってもらいたいひとだけにわかってもらえればいいなって思います!・・・ん?はい(笑)
でもふゆっきさんのジョハリの窓の話見てから、まわりのひとに感情をさらけだすのもいいことかなっとか思ってきたり。
って自分どんだけ矛盾人間なんだ!(笑)なんかついに脳みそごちゃごちやになってきちゃいました(笑)
ってかこのスレの文字数はんぱじゃないです(笑)
学生のときってテストの点数で優劣決められて、学校でも家でも塾でもそんな単純な価値観を押し付けられるから、そこから他のものを求めたくなる。僕は成績が悪かったから尚更、自分の存在意義の為に「個性」って言葉に憧れていたなぁ。人と違う事する事が自分の存在意義、存在価値に繋がるってずっと思ってた。でも今はちょっと違ったりもする。
良い成績→良い大学→良い企業→良い給料という敷かれたレールを外れて社会に出てみると何の事はない普通にレールにしがみつく生き方が幾らか大変に思えてきた。同時に人と違う事をするのが個性じゃないんだとも思った。個性という評価は自分を人に認めさせる事なんだと考えた。だから他人と違うなんて意識しなくていいんだとも思った。
学校なんていう集団の中にいると自分って普通なんだってよく思って人と違う事したけど、ネットの世界とかだとちょっと人と違う事したくらいで人から特別視なんてされない。その程度の事って普通だったりする。じゃあ何が自分にしか出来ない事かっていったらそれは自分の中にある事なんだよなぁって思う。自分の経験からしか言えない事とか。
「好きこそものの上手になれ」って凄く良いと思う。誰に言われるでもなく他人に流されず自分の好きなものを貫くのはとても価値ある事だと思うよ。結局それが一番効率がいい。"クオリティ・オブ・ライフ" 今を充実して生きることが一番大切。レールにしがみつく勉強は効率が悪く辛い。そして辛い事は必ず報われるってのは大間違いだ。
感情の話。僕が思うのはコミュニケーションにおいて重要なのは感情を分かって貰う事よりも感情を分かろうとする事じゃないかと思う。自分が感情を表に出すのは相手にも感情を表に出して貰うため。そう思ってる。皆が感情を出したとしても誰かが受け止めなければ意味が無い。皆が感情を分かろうとすれば皆が互いに理解し合う事出来る。
だから、微妙な精神論だけど分かって欲しい相手に感情をさらけ出そうとするのではなくて、感情を分かりたい相手に相手が感情をさらけ出しやすいようにまず自分から感情をさらけ出すべきなのかなと思う。「分かって欲しい」って言うのは誰しも思うけど、それだけじゃいけなくて世の中には「あなたを知りたい」ていう言葉が必要なのかな。と。
人は矛盾する生き物だよ。論理体系だって必ず矛盾を含むとゲーデルは言う。ましてや人間の感情や意識という情報体系は論理や言葉だけじゃ語れない。だから誰しも矛盾を抱えながら生きていて当然じゃないかな。論理なんて自分を正当化する道具でしかないし、議論ってのは結論を出すものじゃなく互いの立場と主張を理解する為のものだから。
わたしはあまり勉強には執着してなかったんですが、
『人と違う事する事が自分の存在意義、存在価値に繋がるってずっと思ってた。』
これはまさに今の自分かもしれないです。
なんかふゆっきさんの文章読んでてすごい頷いちゃいました。
『辛い事は必ず報われるってのは大間違いだ。』
これは自分的にいいなぁと思いました。
感情の話については、もー見事に納得させられました!
『コミュニケーションにおいて重要なのは感情を分かって貰う事よりも感情を分かろうとする事じゃないかと思う。』
いままで気づかなかったけど、確かにそうだなぁ、と。
もう言うことなしです。
おまけの与太話。小学校の国語の授業なんかで小説を読むのに著者のプロフィールとかその時代の時代背景とかを習って、この部分の主人公の心情は著者の何々を反映しています。とか習うんだけど、本などマルキシ読まなかった僕はそれがどういう事なのかさっぱり分からなかった。なぜ主人公と著者を比較して語らなければならないのか、なんて。
中学高校になっても本は多少読むし、国語は得意科目だったけどそれがはっきりとはまだまだ分からなかった。それがはっきり理解出来たのは二十歳越えてからだったかな。教科書という本を読まなくなってからだ。それで分かった。教科書ってただ知識を詰め込むための本で、でも本当に大事なのは知識ではなく思考なんだということ。
教科書に書いてある事は全て正しいとされて、それがテストに出るから覚える必要がある訳だ。でも本当は世の中にはそれほど確定的な事なんてなくて、どれが自分にとって重要な事かって判断を常に迫られる。そこで重要なのがその文章を書いた人がどういう立場の人で何を目的に書いたのかということ。つまり小学校で習った国語力なんだ。
本を読んで何かを学ぶ上で大切な事は、そこに書かれた結論でも論理でもなく自分が著者の思考を追うその過程にある。飢餓を無くす上で必要な事は食料を送る事ではなく食料の作り方を広める事だとよく言われる。それと同じ。僕らは学校で食料ばかり与えられてきた。しかし、本当に大事なのは食料そのものを作る知恵のほうなんだ。
ペーパーテストでは食料ばかりが問われ食料の作り方はほとんど問われない。東大でも行かないかぎり。その事に先生はほとんど無頓着で、だから学校の勉強って奴は面白くなくて非効率的なんだな。公式の仕組みは授業でやるけどテストでは公式に当てはめて、いかに早く正確に解くかが問われるだけだ。そこで大事な事が殆ど抜け落ちていたんだ。
機械の操作を仕方を覚えて賢くなった気でいてはいけないんだ。機械がどうやって動いているか、機械をどうやって作ったかが本当に重要なんだ。過去の偉大な発明家や思想家の思考を追う過程を追体験する事が、本当に学ぶという事なんだ。それはちょうど小説の登場人物に感情移入するのとなんだかちょっと似ている気もするんだ。
頭の回転の遅い僕はそんなことを20代でやっと気付いた。これも客観性より主観性を大事にするようになった一つの要因かもしれない。あ!文字数はんぱじゃないのでこのへんで。。。200文字づつにまとめて書くのって難しい(´・ω・`)読んでくださりありがとうございました。
ただ答えを求めるんじゃなくてなぜその答えになるのかを考えるってことですよね。わたしが読んだ本から引用すると、『what型じゃなくてwhy型』っていうことですかね。
なんかふゆっきさんの文章読んでたらふゆっきさんの言ったことをまとめた本が欲しくなりました(笑)ぜひ出版してくだs(
恥ずかしながらわたしまだ学生で本もあんまり読まないし、あんまり深く考えない性格だし、未熟の塊だし、滅茶苦茶な文章で言いたいこともあやふやだったのに、付き合ってくれてありがとうございました!
ちゃんと読んでくださって、解ろうとしてくれて、いろいろ教えてくださって本当に本当にありがとうでした(;ω;)ブワッ
拙い文章ですみませんでした(;ω;)ブワワッ
ふゆっきさんという人物を忘れないためにフォローさせてもらいます!
(フォローしなくても忘れないと思いますが…)
また機会があって、ふゆっきさんが迷惑じゃなかったらお話したいです。
あと蛇足?ですが、最後のしょぼんの顔文字がツボです。かわいい(笑)

では、ありがとうございました!(*ω*)
勝手な想像ですので、違っていたら適当に読み飛ばしてください。
いわゆる「泣ける本」とか「泣ける映画」など前評判に期待して
自分の感想とのギャップを感じてたりしていませんか?
世の中にはそれこそ一生かかっても読み切れないほどたくさんの物語があります。
自分だけの「泣ける」物語が必ずあるはずです。
それまでひたすら読み続けることだと思いますよ。
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回答No.953-08627
コメント 2件
回答ありがとうございます!
ギャップ・・・たしかにそれもあるかもしれないです。家族みんなが泣いていて自分が泣いていないと、あれ?ってなっちゃいます。
家族みんなが泣いてるとき、自分も感動はしているけど、ただ悲しいなぁとかで終わっちゃうんです。浅い感動というか。
泣こうとして踏ん張れば泣けるんですけど、それは自然な涙じゃなかったり。
泣く、泣こう、とかあんまり意識しないで素直な気持ちで本や映画を楽しみたいんですよね。それがうまくできないんですけど。
ってなんか回答と噛み合ってない意見になってしまいました。ごめんなさい。
当たってるも違ってるもないですよ!ありがとうございました!
ミラーニューロン ←wikipediaにもあり

この本によれば人は自分が動作するのと同様に他人の動作を頭でシミュレートして相手の気持ちを察する。その頭の部位がミラーニューロンでアスペルガーはそれが未発達だという仮説が有力です。現在ミラーニューロンを鍛えるには相手の行動をそのまま模倣するようなエクササイズが研究機関で行われている。
0
回答No.953-08624
コメント 3件
むずかしいいいいい(笑)
Wikipediaに書いてあることはすごいむずかしい!ww脳科学のお話になっちゃうんですね。
わたしの理解力がないのはただ、本をあんまり読んでいないからですかねぇ。情けないです。
相手の行動を通して相手の気持ちを察する・・・これはたぶん人並みには出来てるんじゃないかなぁと思います。思い込んでるだけかもしれませんが(笑)
それにしても、ふゆっきさん物知りですねー!
僕は10代の頃から凄く悩んでいたのですよ。
自分には自分が無いんではないかとか。
周りに合わせて面白い事、悲しい事を理解は出来る。
文章を解釈して想像する事も得意だった。
でも、なんていうか自分にはクオリアがないって。
で。やっとここ数年かな。
そういう事を本読んで勉強する余裕が出てきたから。
下に書いた者です。
「アスペルガー症候群(高機能自閉症)」又は、
「統合失調質人格障害(スキゾイド型人格障害)」について、
調べてみると良いかもしれません。

難しい名前ですが、怖い病気などではありません。
性格のちょっとした癖を医学的に名づけているだけです。
0
回答No.953-08607
コメント 3件
わぁ、わざわざありがとうございます!
Wikipediaで調べてみたんですが、なんだか難しかったです。
会話能力はあるけどコミュニケーション能力がない。これはちょっと掠ってるかもしれないです。
そうですか。
ちなみに下のAQ診断はアスペルガー症候群を含む、
自閉症スペクトラムを簡易に診断するものなんです。

コミュ力、なかなか難しいですよね。
気付けば目線を逸らして人の話を聞いてしまう。
そうなんですよね。なるべく見るように心がけてるつもりなんですが、なかなか難しいですよね。
こんにちは!

私は特に何も意識していませんね・・・。
ただ力を抜いて、文章に集中していく内に移入していく感覚です。

あえて言うなら、時々、休憩がてら今まで読んだ内容を頭の中で映像にしてみる事ですね。あの場面はどんな情景なんだろう。主人公はどんなのかなと考えて見る事。

これを少しずつ繰り返す内に頭の中で自然と彼らが動き回ってくれるんじゃないでしょうか。

移入しようと力まない事、想像の翼を広げ
0
回答No.953-08606
コメント 2件
て行く事。これが近道なのかな~と私は思います。

参考になればいいですが^^;
回答ありがとうございます!
ふむふむ。
・頭のなかで映像化
・力を抜いて文章に集中
このふたつがポイントなんですね。
頭のなかで映像化は、寝る前にやるのが良さそうですね。今度実践してみます。
ありがとうございました!
  • 名無しさん 名無しさんの回答 2011年03月27日
回答になってないかもしれませんが…
自分がたくさんいろいろな経験をすると、その経験を重ね合わせたりできるようになると思うので、より登場人物に感情移入しやすくなるというのはあるかもしれません。
たとえば、私は角田光代さんの「八日目の蝉」で、過去に経験したことないくらい感動して号泣したのですが、これはもし自分が実際に子どもを持つ母親でなかったら、ここまで入り込めなかっただろうな、と思います。
3
回答No.953-08605
コメント 2件
名無しさん 名無しさん 2011/03/27
だから、これから年を重ねて、いろいろな人や物事に出会っていくことで、少しずつ感性が磨かれていく、ということはあると思いますよ。
本に限らず、映画を観たりコンサートに行ったり、たくさんの人と新しい出会いをして、いろいろなものを手に入れてください。
回答ありがとうございます!
なるほど。経験が経験を呼ぶんですね。わたしは経験が浅くてまだまだ未熟だから、わかっていないのかもしれないです。
経験は大切ですよね。
どんな過去でも経験として、人生の糧として、ちゃんと生かされるんですね。とても参考になりました!わたしも少しずつそうやって感性を磨いていけたらいいなって思います。ありがとうございました!
感情移入って「コレ」をしたからできるというのではなく、気がつけば入り込んでて、「泣いてるし、笑ってるし、苦しんでるし…」なのではないでしょうか? なので、ちゅろすさんが「感性が鈍い」というのではなく、ただ感情移入できるものにまだ出会えてないだけだと思います。 感情移入してる(する)ものって、人によって同じものとは限りませんし数も違うと思うので、気にせず自然に出会えるものを待ってみればいいかと。
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回答No.953-08600
コメント 3件
回答ありがとうございます!
うーん。やっぱりそうなんでしょうかねぇ・・・気がつけば入り込んでる・・・入り込めないんですよね。うーん。
自分的には、想像力が他のひとよりも無いんじゃないかなって思うんです。だから、これから出会うだとか、まだ出会ってないとかじゃなくて、なんというか、本じゃなくて自分の方に欠点があると思うんですよ。
追記です!あの、わたし、
自分の方に欠点があるって言ったんですけど、よく考えたらその欠点は、経験の少なさ、知識の薄さなのかな?って思いました。
カイリさんの言ってた、
自然に出会えるのを待つ→もっといろんな作品に出会え、ってことですよね。
だからわたし、もっと本や映画を読みまくって、そしたらいろんなモノが知れて、そこからいろんな気持ちが生まれて、そこからまた成長していきたいなって思います。
よくわからない文章でごめんなさい!
ありがとうございました!
友達との会話で聞き役に回る。
相手の顔を見て聞く。
相手の目を見て話す。
会話中に咳払い、肘を突く、髪をかきあげるなど、
相手の動作をコピーする。

↓AQ診断を受ける事をお勧めします。
http://www.the-fortuneteller.com/asperger/aq-j.html
念のためですが、この数値が高いと10代後半から、
うつ病に悩むケースが増えます。実際僕もそうでした。
0
回答No.953-08596
コメント 1件
回答ありがとうございます!
診断やりたいんですが、携帯にアクセス制限かかってて見れないです。せっかく教えてくれたのに、ごめんなさい。
パソコン没収されているので返してもらったらやりますね!ありがとうございました!
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