心理学者の河合隼雄さんの著作の中でよく参照されている児童文学なので読んでみた。
なので「たましいの文学」とか「若者の困難な生」とかという視点で読んだのだが、1967年のアメリカという設定が身近でなかったし、しっくりこなかった。
河合さんは自身の著作「日本人とアイデンティティ」(創元社or講談社)のなかで、「LSD兄ケビンのこと」などの児童文学について以下のように述べている。
『児童文学を「子どもの目」から見た世界を描くものとして捉えるとき、そこには、たましいについて実に多くのことが語られているという事実に気づかされるであろう。児童文学作者の今江祥智は、このことをある神父さまの言葉として、次のように語ることによってうまく表現している。「人間とは何か、生きるとは何かということを、それを昔は神学という学問でやった。それが、神学だけでは駄目だとわかったときに、文学が生まれた。文学だけではどうしても律しきれない幅広さと壁が出てきたときに、心理学というものが生まれ、それが20世紀の後半になって複雑多岐になって、それでは律しきれないものを一挙に原点にかえす形で児童文学というものが今人間をわかろうとしているって」(雑誌『飛ぶ教室』1983年)。この言葉を、「たましいということについて」と置きかえると、筆者の考えとまったく同一となる。たましいの文学としての児童文学に寄せる期待は大きいものがある。』
しかし、大人が児童文学から「たましいの理解」を導きだすのは、逆に、なにか不純なものを私は感じる。大の大人が、なんの先入観もなしに児童文学を読めるものだろうか?なんらかな高貴な甘い匂いが漂っていないか?
やはり「朝に悟りを開かば、夕に死すとも可なり」で、泥臭い中に居ながらでも、私は単刀直入な答えが欲しい。
- 感想投稿日 : 2024年7月28日
- 読了日 : 2024年7月28日
- 本棚登録日 : 2024年7月22日
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