言葉は生きものなので、時代によって使われる言葉が全然違っていたりします。
いくら時代が変わっても、不変であるものを書いている小説もありますが、時代を切り取って、その瞬間を描いている作品は、時代にあった言葉を使わないと伝わらないものがあるのだと思います。
思いますが、とても厳しいときがあります。
例えば森鴎外などは、そろそろ現役の日本語から古典の日本語へとポジションを移してきています。
それはしょうがないことだなあと思います。
何しろ昔の人ですからね。
けれど、石原慎太郎は、今も存命の、現役の政治家の、同時代人です。
それが、こんなに日本語として違和感があるとは。
帰って宮沢賢治や太宰治の方が読みやすいくらいです。
「貴女(あなた)と会ったのは二度目ですよ」
「あら、前に何処で」
「なあおい。弟がね、電車の中で貴女を見つけたのだ。見初めたのかな」
「よせやい。やだな」
「あら」
なあおい。よせやい。
使いませんな、昨今は。
“奴を倒したのあ”とか“奴あ口が軽いぜ”とかの“あ”の使い方。
ヒリピンの選手。(フィリピン)
当時は本当にこんな言葉を使っていたのでしょうか?
使っていたのでしょうね。
お金に不自由することなく、楽しければとりあえず倫理観などとも無縁な、刹那的な生き方をする若者たちを書いています。
彼らを善とも悪とも断ずることなく、そのように生きるしかない乾いた空虚さなども書かれてはいるのですが、兄弟が出てくると必ず弟の純真無垢な部分が善となっているところをみると、弟・石原裕次郎に対する思いとか、粋がってはいるけれど何か満たされていない自分とかを書いているようにも思えます。
はっきり言って表題作は好きではありませんし、賭け事の描写に至っては全然理解もできませんでしたが、2点だけ。
世界観はよくわからないなりに、「ファンキー・ジャンプ」の言葉の勢いはすごいと思います。
自分の理想とする完璧な音楽を表現するために、ヘロインを打ち、体がボロボロになりながらもピアノを弾き続ける主人公の脳内からあふれ出ることば、リズム。
これには圧倒されました。
そして「鱶女」
だいたい先は読めるのですが、そして思った通りにストーリーは展開しますが、それでもこの作品は好きですね。
その時々に見せる表情を変える海。
海から現れたかのような謎の女。
謎の女ではあるけれど、まっすぐで健康的な彼女と、どこか歪んだような主人公の兄。そして村の男たち。
読んでいてわくわくしました。
わが人生の中で、石原慎太郎をほめることがあるとは思わなかった…。
だから読書は面白い。
- 感想投稿日 : 2015年5月3日
- 読了日 : 2015年5月3日
- 本棚登録日 : 2015年5月3日
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