日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

  • 双風舎 (2004年12月18日発売)
3.52
  • (7)
  • (14)
  • (27)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 160
感想 : 6

§ テーマ:選択可能性が無限大な再帰的近代において、我々は何をもとに意思決定・判断できるか?



§ 読書前の前提:自分のアクチュアルな課題に絡めた問い(解決したいこと)

- 自己決定はできているか? 正しいか? そもそもする必要があるか?
- 背景1:仕事(自社ソフトウエア開発)で自己決定が勧奨されている
- スクラム、アジャイル開発、ティール組織
- 背景2:プライベートでも自己決定が善とされている風潮
- 「自分の人生は自分で決める」というクリシェ



§ 読書後の結論:自分の正義(超越)を問い、自覚していることを確認し続けることを思い出してみよう

- 私は自己決定が善いから(内在)/しなければいけないから(超越)、するのか?
- 超越の場合、根源を認識しているか? 共同体内での同調を求めていないか?
- 自らの経験と思考に基づく実践(実部)を伴うか?
- エクリチュール(虚部)による説明が可能か?



§ メモ - 現状理解:(たしかに)自己決定は要求されている

† p.43
- 我々は伝統・共同性・自己を超えるもの(以下、『超越』)の存在を「信じて」いる(と「信じて」いる)
- 伝統・共同性・超越を前提として自己決定している
- 自己決定(するであろうという)責任の信頼の連鎖のもとに成り立っている
- ゆえに、主体は、自己決定「的に振る舞う」
- ゆえに、全体は、主体に罪をなすりつけ、現状維持に貢献している
‡ p.103
- 自己決定のためには『選択』が必要
- 選択ができない者は、選択できる者にルサンチマンを持つ
- 豊かな社会では、ルサンチマンを乗り越えられる
- 結果、「なぜ選択肢が豊富なのに不安なのか」を考える
- 自意識・自己決定の壁を越えられていないことに気づく
‡ p.202
- 究極のルサンチマンへの対峙《生きていること自体が他者の迷惑である》
- 自分の正義は誰かにとって不正義である
- cf. デリダ「法の力」:競争力の無い者の権利は社会にとって無意味である



§ メモ - 問題提起1:エクリチュールのもたらす誤謬、複素数空間としての現実での振る舞い

† p.27
- 『言葉』は他人から与えられたものを媒介とする
- 『言葉』は意思決定・判断に必要不可欠
- しかし、他人にわかるように語られた時点で《体験そのもの》は死ぬ(=文字になる)
‡ p.29
- 消失した経験を取り戻すために、再現前化=表象化しようとする(追体験の幻想)
- ドゥルーズ的『反復』、ゆえに『差異』が存在する
- 再現の不可能性(もう死んでいるから)にもかかわらず、我々は再現を希求し続ける
‡ p.46
- 本来性(体験そのもの)は『虚数的』である
- 「あるということにしておかないと、現にあるものまでなくなってしまい都合が悪い」
- 一元論への回帰(=二元論《内在か超越か》への回帰ではない)
‡ p.55
- ゆえに、自己決定とは虚構である
- 近代の複素数空間性《現前している存在⇄虚数的存在のエクリチュール》を維持するのが大事
- 「みんながこう言ってるからこうなんだ、という虚数」であることを、教養をもって認めること
‡ p.275
- この複素数空間上での実践が問われる
- 規定可能な前提(虚部ではなく実部)しか見えなくなると、錯誤・誤謬が起こる



§ メモ - 問題提起2:自己決定を阻むものたち──権限・共同体・責任

† p.72
- 権限を与えられたことで、自己決定した(できた)と思い込む
- 国家権力・親・上司・・・が介入しないことで、自己決定したつもりになる
- 大雑把な議論で無理に結論を出してしまう/出した気になる

† p.85
- 共同体に所属することで、自己決定した(できた)と思い込む
- 「あなたはこう主張しなさい」と使命された前提があって、初めてXX主義が達成される
- 実際はそんなことはない。ほとんどは文化的背景で決定される
- 相対化して本当に「自由に」選択をして初めて自由な自己決定が実現される
‡ p.106
- 「XX主義である」ことは不可能
- 「自分がXX主義(的なものを)を選んだ(といえるのでは)と他者の前で自認すること」のみ可能
‡ p.184
- 「自称XX」は無意味
- 何を実践したかという事実性だけが問われ、それにより「何者であるか」が決定する
‡ p.135
- しかし、共同体内での自己決定の共有は『滑稽』である
- 例。三島由紀夫。自分をたやすく他者に投影して、皆も同じだと信じ込む様
- 三島は愛国を強制しなかった(自己決定を尊重した)
- 愛国した振りをする輩の蔓延を知っていたから
- 自己決定が前提にないと、対立が存在しえない
‡ p.285
「XXは伝統を破壊する」への反論。それは単なるあなたの思い出であって、XXこそ伝統を見いだせる可能性がある
‡ p.153
- 我々は日本国民として存在している前提を自覚している
- 宗教と同じ構造(ある程度の方針を支持せざるをえない)
‡ p.208
- 例。ナチについてのドイツ民族の責任、日本人の戦争責任
- 最大でも「現実的に責任があると言える」としか言えない
‡ p.214
- 例。キリスト教におけるイエス
-「彼は救世主で善人だから信じるのだ(内在)」から、「彼は苦痛に耐えているから信じるべきなのだ(超越)」へのシフト
‡ p.96
- 自己決定せよ、という(共同体の)命令文にはアイロニーが含まれている
- 命令文に従うという振る舞いは、自己決定ではない

† p.198
- 判断に伴う責任(共同体を簒奪し解体機能を果たしてしまう可能性)
- 「彼らはこう自己決定したからXXだ」と他者に『決定』されてしまう余地がある
- これこそが《共同体と自己決定を巡るアイロニー》である
‡ p.220
- 自分が正義だと判断した事に対して、どのような基準で判断したのかという説明責任が発生する
- 最低限の倫理として、『超越』に対する自覚が必要

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年1月9日
読了日 : 2020年12月28日
本棚登録日 : 2020年12月28日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする