存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

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本棚登録 : 837
レビュー : 39
著者 :
Keiichiro Oeさん 哲学   読み終わった 

哲学者・東浩紀氏が28歳の時に発表したデビュー作です。

J.デリダのテクスト読解というテーマに絞り込まれた内容ですが、本書で展開される「否定神学」「単独性」「無限後退」への挑戦、といったモチーフは、著者のオタク系の仕事や、諸々の活動にも引き継がれてはいます。また本書は見ようによっては「柄谷行人や高橋哲哉といった斯界の重鎮に対する、若き学者からの挑戦」と捉えることもできるかと思います。

奥付によると第9刷、2002年3月15日。わたしが大学に入った年です。この本には傍線、書き込み、謎の目印といった、貧乏学生当時の悪戦苦闘の跡がたくさん残っています。それからも著者の他の文章を読むのはもちろん、講演を聴きに行ったり、ネット上の討論を録音して何十回も聴いたり・・。一時期は、わたしの知的好奇心そのものが、東浩紀氏をハブ(あるいはキュレーター笑)として成り立っていたといっても過言ではありません。しかし本書を最後まで通読できたのは、ようやく今年という体たらくでした。

そのようなわけでいろいろと思い入れのある本ですが、簡潔に一箇所だけ採りあげて、「粛々と」レビューしたく思います。以下引用します。

"「動的生成」とは、表層が「深層profondeur」から生成される過程を意味する。ここで、「静的」、「動的」という用語上の対称性に惑わされてはならない。静的生成は二つのセリーを前提とする。しかし深層は「セリーには組織されない」。つまり動的生成は、静的生成に論理的に先行している。したがってドゥルーズはここで、第二十六セリーまでが主題とした「二重のセリー」の理論そのものの成立条件を問うていると考えてよい。とすれば『意味の論理学』は、内容的に大きく二つに分けられることになる。「表層」の二セリー、つまり経験的世界と超越論的非世界の関係について考察する冒頭の二十六セリーと、「表層」そのものの存在可能性について問う最後の八セリー。"(P.206)

ここはP.196~ 「appendix - ドゥルーズ『意味の論理学』について」という、本書のテーマと接続しうるドゥルーズの議論を考察した補論の一部分であり、この補論の構成において、起承転結の「転」に相当する重要な部分です。

この文章そのものの解説は手に余りますが、ここには、わたしが著者の仕事に惹きつけられた根本的な理由が潜んでいるように思いました。例えば、あいまいさを断ち切る接続詞のシャープな使い方、ゆるぎない文末の処理、そして読者を導くある種の「理系」的分かりやすさ。

ちっぽけな自分、そしてその自分を取り囲む圧倒的な世界、社会、人間、先人たちの偉大な達成の数々・・。著者からわたしが受け取ったものは、それらに対峙し、そのおもしろさを感じ取るためにきわめて有用な装備としての、「言葉の使い方」であったように思います。なかなか身の丈に合わないところが難点なのですが・・

『神は言っている、ここで死ぬ定めではないと--』

レビュー投稿日
2014年1月18日
読了日
2013年12月23日
本棚登録日
2013年5月20日
3
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