ストーリー・セラー

著者 :
  • 新潮社 (2010年8月20日発売)
3.87
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本棚登録 : 11277
感想 : 1442
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『これはフィクションです』、小説を読む限りは基本何を読んでもフィクションです。でもどこまでがフィクションなのかということは書いた人にしかわかりません。特に学校の歴史でも習うような史実を描くような作品になると書く人の腕次第で、本当にそうだったのかもしれないと感覚的に理解してしまうこともあると思います。一方でそれがその小説を書く人自身をモデルにしているのではないかと思わせる場合、それはもうどこまでが実話でどこからが創作かということは全く分からなくなります。人は他人のことが気になるものです。それが自分の好きな小説家のことであれば、興味は倍増します。『もしかしてこれは実話なのかもしれない』そう思って読み進める『読み手』の一方で、そう感じさせて興味を持たせること自体が『書き手』の意図だったとしたら、実話なのかも?と感じた時点でその『読み手』はすっかり『書き手』の術中にはまってしまっているのかもしれません。

『仕事を辞めるか、このまま死に至るか。二つに一つです』。衝撃的な宣告の場面から始まるこの作品。医師は彼の妻が『致死性脳劣化症候群』という病に犯されていることを告げます。『劣化するのは「生命を維持するために必要な脳の領域」のみ』というこの奇病。迷った挙句、『君は思考することと引き替えに寿命を失っていく。治療の方法はない。悪化させないためには努めて物を考えないこと』と彼は妻に告げます。寿命がいつまでかもわからないこの病気。彼は『こんなことになるなら、俺は絶対あの時君にあんなことを勧めなかったのに』と悔みます。『彼女は同じデザイン事務所に勤めていた同僚だった』と過去を振り返る彼。『エンゲル係数、服飾費、娯楽費』と『ぽんぽん出てくる微妙に口語らしくない単語』が会話に出てくる彼女がとても気になります。ある日、彼女が帰宅した後に彼女の机にUSBメモリを見つけた彼。『職場で使用が禁止されている』からと自身の中に理由を探し『兎の月というファイルをクリック』します。『それは小説だった。目が文章に吸いついて離れない。意識が持って行かれる 』というその内容。『すみません、私忘れ物っ!私物ですそれ、閉じてぇッ!見ないでぇ!』と駆けて戻ってきた彼女。このことをきっかけに二人の関係が動き出します。

Side:AとSide:Bから構成されるこの作品。分量もほぼ同じです。元々Side:Aのみだったのが単行本化の際にSide:Bが付け加えられたという経緯があるようです。なのでSide:Aだけで読み終えても十分な充実感があります。実際のところ、この系統の作品に弱い私は何度もこみ上げるものを押さえ、という繰り返し。ところがSide:Bに入って頭が混乱します。今まで読んできたSide:Aが急に遠ざかる感覚、込み上げていた思いがスッと潮が引くように遠くに引いてしまうような、なんとも言えない気分に苛まれました。そして、それだけではありません。Side:Bはさらにその中で二重に入れ子になっています。読んで気持ちを入れていた、その山場でスッと気持ちを持っていかれてしまう意外感。そして、最後の最後の一行で一気に物語を結末させる大胆さ。Side:Bをわざわざ追加することへの有川さんの意気込みを感じるとともに、これ、どこまでが実話でどこからが創作なの?という何ともモヤモヤした読後感が待っていました。結果論としてはこの凝った作りを興味深く読めたとは思いますが、『逆夢を起こして』、Side:Aだけで読み終えたかったかもとも感じました。

この作品で上手いなと思った点を二つ。一つ目。登場人物に一切名前が登場しません。主人公は『彼』と『彼女』です。親子が出てきても『父』『母』『義父』、会社でも『課長』『女子社員』と徹底しています。思えば具体的な名前が出てくるとどうしてもその名前自体に引っ張られるものです。この作品では、『彼』『彼女』で通すことで随分と不思議な世界観を生んでいました。つまり、読者のいろんな想像力で世界が広がる可能性です。だからこそ、実話かも?という気持ちも湧き起こります。二つ目。Side:Aは冒頭に『致死性脳劣化症候群』という病に彼の妻が侵されていることがまず告げられます。なんだこの病気は?『思考に脳を使えば使うほど、奥さんの脳は劣化する』なんて都合の良い病気があるのか?という疑問が湧くと共に、読者によっては不満を感じる人もいるかもしれません。これに対して有川さんは、この病気は『彼の妻だけに名付けられ、彼の妻だけに使われる病名』とさりげなく、でもはっきりとこれがこの小説の中だけの架空の病気であることを示唆します。小説はその世界の中で設定されたルールの中で楽しむものです。有川さんがはっきりとこう書かれている以上、その設定前提でSide:Aのストーリーに浸ればいいと思います。この一点さえ納得できればSide:Aは本当によくできたストーリーだと思いました。

Side:Aまでで終えるのと、Side:Bまで読み進めるのとでは読後感が全く異なるこの作品。小説家を主人公としていることで有川さんご本人のお考えもこうなのかなと興味深い記述も多々ありました。例えば、ある事象が起こった場面で『作家という生き物は良くも悪くも想像力が無駄にある。そしてその想像力が全力で最悪に転がったらどうなるか』という箇所など、思わず本音なのかなとも感じました。

小説家夫婦を主人公に2つのパターンの物語を比較しながら一度に楽しめる作品。特にSide:Aの純度の高さにはすごく愛と思いやりを感じました。作品全体としての大胆な試み含めとても楽しませていただきました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 有川浩さん
感想投稿日 : 2020年5月17日
読了日 : 2020年5月16日
本棚登録日 : 2020年5月17日

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コメント 4件

naonaonao16gさんのコメント
2020/05/17

こんにちは!

この作品、短編集に入ってる時に読んで衝撃を受けたんですよね…
電車の中であまりにも読むのが止まらずに乗り過ごした記憶があります(笑)

おそらくわたしはSide:Aだけ読んだということになると思うのですが、Side:Bも素晴らしい予感がしますね。

最近有川浩さんの本を勧められることが多く、ご縁を感じます!
今回も素敵な作品とレビュー、ありがとうございました!

さてさてさんのコメント
2020/05/17

naonaonao16gさん、コメントありがとうございます。
私は短編集は知らないのでこの作品が初めてですが、Side:Aが終わった次のページをめくって唖然としました。Side:Aだけで読み終えた方が良かったかも?とも思いましたが、こんな風に書けてしまうんだ、という有川さんの凄さを見れるという意味ではSide:Bも凄いなと感じました。有川さんの作品、私の場合まだまだ先が長いですが、今後も読んでいきたいと思います。

また、よろしくお願いします!

moboyokohamaさんのコメント
2020/05/17

さてさて様
フォローありがとうございます。
有川さんの作品っていいですよねえ。
外出自粛なのでギュウギューな本棚の整理をしたのですが有川さんの作品は全部キープです。
レインツリーの国が一番好きかなあ。

さてさてさんのコメント
2020/05/18

moboyokohamaかわぞえさん、はじめまして

コメントありがとうございました。
有川さんの作品、まだ二周目でこの作品で5つ目なんですがとてもいいですよね。おすすめのレインツリーの国も是非読みたいと思います。

今後ともよろしくお願いします

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