やむにやまれず

著者 :
  • 講談社 (2001年9月1日発売)
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感想 : 2
3

世代論というのが嫌いである。そんなもので一括りにされてたまるかという気がする。その一方で、本を読んでて「分かるなあ、この気持ち」とつぶやいていたりすることがある。その時代の空気というものがあり、それを吸ったものでないと、到底分からない手ざわりのようなものがあるのだ。単に世代でくくるのでなく、人の性向、学歴、仕事等まで含めていけば、人のメンタリティーを形成することにおいてかなりの部分で共通するものがあるのかもしれない。

「団塊の世代」という言葉をよく目にする。戦後のベビーブームの時代に生まれた人たちを指していう言葉だが、世代というなら、同じ年代に生まれたすべての人を指しそうなものだ。しかし、文脈から見ると、大学を卒業し、サラリーマンになっている人たちを指して使われることが多いように思われる。ちょうどその年代が、大学進学がめずらしくなくなり、サラリーマンという職業が台頭してきた時代と重なっているのだろう。田舎で百姓をしていたり、親の後を継いで大工をしている人も同じ日月の恩恵を受けているはずだが、彼らを指して使われることの稀な言葉である。

思うに、百姓や大工という仕事は昔からあり、世代によって横につながるよりは、縦につながることの方が自然な職業である。第一、仕事がはっきり見える。それに比べると、かつては知的エリート層の専有物であった大学も、マスプロ化されることによって、その権威をなくし誰もが行けるところになっている。格別な修業は必要としないサラリーマンという職業もまた顔の見えない職業と言えるだろう。何かで差異を見つけようとすれば、世代くらいしかないのかもしれない。

ややもすれば上の世代からも下の世代からも揶揄されがちに使われる「団塊の世代」に属し、さらに悪いことには文学好きであった関川氏は、小説という「嘘話」を書くときにも、自分の年齢という自意識から自由になれない。18の短編の主人公はすべてと言っていいほど限りなく実年齢に近い男性に設定されている。それだけでなく、独身者であることまで著者と同じである。つまり、小説とは言うものの、ここに書かれた話は身辺雑記として読まれてもなんの不思議もないものである。

本来なら誰もわざわざ読もうとも書こうとも思わない、中年の独身男の優柔不断な生き方や、手前勝手な口上を、何ら事件らしい事件の起きない日常生活に紛らせて書くというこの手法は、意匠こそ現代風に装われてはいるものの「私小説」として知られるあまりにも日本的な小説作法と同じである。この臆面もない自己言及癖は、やはり「団塊の世代」につきもなのだろうか。それとも、北方の地方都市から上京し、私立大学の文系を目指すような人に共通する心性なのだろうか。

自分の世代にしか分からぬ気分というものを書いてみたいが気恥ずかしい。だから「やむにやまれず嘘をつく」(第18話)という次第でもあろうか。個人的見解ながら、小説として読もうとすると、各編で見られることだが結末の一文が余計に思える。腰砕けの感がするのである。蛇足というべきであろう。独特の切り口を見せるノンフィクションの方が著者の持ち味を活かせるように思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2013年3月11日
読了日 : 2001年12月12日
本棚登録日 : 2013年3月11日

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