台湾に関する旅行記はいろいろあるけれど
岸本葉子さんの台湾の旅は、
静かで優しい目線と
語り口で
台湾の姿を伝えてくれる。
今よりもかなり昔になるけれど
現代の台湾へと移り変わってくる時代の間を、歩いて、出会って…
気張らないけれど、少し旅先の微熱のような気分で
見つめて、感じたことが
現地を旅する友人の話を聞いているように
心に入ってきて
ふと匂いが感じられるような
まるごと一冊、台湾に浸りきった本。
読んでいても、台湾熱が沸き起こってくる気がする。
でも、それはフィーバーではなく
微熱なのが、台湾らしい気がする。

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会話の後ろにその町の音が聞こえてきそうな気がする
いきいきとした、アジアの色々な顔が見えてくる本。

台湾の描写も紀行というより、一編の短編小説のようで
青年との出会いと別れは、旅する人のよさも切なさも
短い一編のなかに織り込まれているような
どこからか古い台湾の音楽が流れてきそうな気がする
候孝賢に映画化してほしいような話

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「奇怪ねー・一個日本女生眼中的台湾」
という日本人女性が書いた本が台湾で話題になり
大ヒットしたその著者の日本語で始めての書き下ろし。


ガイドブック、と一言でいうには
あまりに普通でなくおもしろい。


普通でないは失礼?かもしれませんが
でも例えばお土産ものをどんなのだ、何処で買えばいいと紹介するのは
ガイドブックの定番中の定番ですが

『普通のものは持って帰るな!~地味だけど価値あるお土産~』と題されたコーナーから
地味、とかいう話じゃない
普通はまず持って帰ろうと思わないだろうな…と思う
お土産の数々、オンパレード。

なんだけど見ているうちに
最初は食べ物関係がズラーッと並んでるし
うぅっ食べたい。

これ貰ったら嬉しいかもしんない…
と思えてくるのがあら不思議。

ご自分で全て撮られてる写真も添えられてる文章も
「ホントに好きなんだこれは美味いんだ~」
という本気の声が聞こえてきそうだから?


「秘伝 香港街歩き術」 を思い出してしまいましたが
あちらがILOVELOVELOVE香港な本なら
こちらは台湾を愛してしまった本、のような気がする。
どちらもその愛は深い。


熱~い愛は時に傍目に暑苦しいこともありますが
ご安心ください。
しりあがり寿?と思うような脱力系のイラストや
ポワンとした面白さ。

著者の愛し方は、苦しくなるような愛ではなく
笑門来福な愛のような感じだからでしょうか。

もちろん変だけではない、台湾の文化もあれば
新しくてお洒落なもの、古くていとおしいもの
どれもきちんと入ってるし
ガイドブックとしても、とても個性的ではあるけれど
「台湾旅行の一つのスタイルの提示」になってる。
ただどれも底にあるのが
自分も愛していて、人にも愛してもらえたらいいな
という気持ちが感じられる所だという気がする。

だからどこか普通でないところにも
目を奪われるだけでなく
なんか気持ちも寄ってっちゃうのかもしれない。


好きになった人の数だけ愛し方もあります、
という感じも程よくていい。

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恩田陸の「私と踊って 」という短編集を読んでいて
最後に収められている唯一横書きの短編で
「東京の日記」を読んでいるうちに
この本とシンクロというか
どこかで繋がっているような気がして
先に読もうと思っていた本を後回しにして
こちらを先に読んでしまった。


小説とは、小説を読むとはなんだろう?ということを
根源的なところから、なんだろう?とあらためて
読んでいるのかなと感じ


エンタテイメント的なとっつきやすさはないものの
言葉と取り組んでいる人から今出てきた小説なんだなぁ
と読んでいても感じるような
存在しない小説だけれど
一つ一つの短編は世界のどこかを切り取ってきたような
それぞれの、手触りや、色や、喧騒や怒鳴り声、雨…
今どこかで起こっていることのような
各短編の世界に入り込みながら
けれど一つの小説が終わると、その部屋から出ていることに気付く。
その部屋に入った覚えもなく、いつの間に・・・とおかしく思いながら。


だから、本自体に入り込んでいるわけではないような気もするし
でもたくさんのドアが並んだ
本という建物に入り込んでいるような気もして

一つ読み終わると、
存在しない小説の間に挟まる編者解説を
今度はその建物の廊下や中庭に出て
時々迷子になったりもしながら
読んでいるような気がしていた。


各短編の内容にではなく、本の形式は
自由であることに抵抗のない人でいれば
いつまでもその建物の中で無限に居られるような
本なのかもしれない。

私は一度読んで、今度は
自由について考えながら
幾つかの短編をまた読んでいる。


存在しない小説は存在しないことで、こうして、どうとでもいくつでも、増えていくのかもしれないし
私が今居る場所は間違いなく日本だけれど
存在しない小説を読んでいるこの建物は
いったい世界のどこに存在しているんだろう?と思いつつ

恩田陸は小夜子からずっと読んでいたのが
ちょっと離れていて、久しぶりに読んだからか
ジャンルとしても様々な
短く繋がりのない話のつまった短編集だからなのか
少し始めは読みにくく、入っていきにくい気がした。

それが「台北小夜曲」など、内容を知らずに読んだのに
そして恩田陸の小説を幾つか読んでいても
エッセイなどは読んだことがなく
台北についてや、ある人物をモデルにしたという登場人物など、
出てくるとも全く予想もしていなかったものに
出会ったからか
なんだかそれも恩田陸らしい、恩田陸の本に似合った
不思議のような気もして
その辺りから入り込んで読むことが出来た。


その「台北小夜曲」などもよかったけれど
最後の一編「東京の日記」が印象的だった。

架空の日本の東京に滞在する外国人の日記という形式の
唯一横書きの短編は
けれどそれだけ架空の形式でありながら
今の空気がして
ある種の作家は
未来を見ようとしているからではなく
肌に感じることもふくめて、今を見ているから
未来について鋭いことを書いていることがあるのかもしれないと
以前感じたことを思い出した。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 小説

中島らもの雑誌連載中に急逝のため絶筆となったものを
亡くなった後に未完成のまま単行本で出版されたもの。
だから「よれよれだったのに、絶筆だからという
理由で出された本だったらどうしよう」
と思って、出てしばらくしてから読んだらいい本だった。

新宿のホテルに一人住まいする68歳になる作家、小歩危ルカの
ロックでパンクで反社会的なようでまっとうでクールでアホで…
「近未来私小説」と書かれているように、
中島らもの今までとこれからが
詰まっているような小説

らもさんはもう病気とか薬とかで、年々
「よれよれよれ」となっていってるようで
対談とか本人が喋ってる類の本を色々読んでいても
もう「イタタタタタ」と言いたくなるくらい
「こけて顔面強打した」だの「大やけどしてずるっと剥けた」だの
いう話が多くなり続けていたし
一読者としても「ホンマにもう、何してんねん」と
心配したり、それでももう冗談かどうかもワカラナイ無茶な話に
笑ってしまったりしていた。そういうあれやこれやを受け止めてくれる
周りの人にもとても恵まれていたんだろうと思う。
ご本人は「それはあれやな、オレの人柄や」と言いそうな気もしますが…


ただ色々あっても最後まで
「ヘンにまともに立派そうなこと」とか
そういうことは言わなかったから
ぐちゃぐちゃなことをしてても好きな作家だった。


それでも絶筆となった本が、内容がよれよれだったりしたら悲しい…
淋しいな~っ、と思っていたのだけれど。
かっこよかったし面白かった。
読み始めたらもう、絶筆とかそんなことも忘れて
夢中で読んでいて
途中、のはずがそこで終わっていることに
ホントに「あっ・・」と絶句した。


途中までで、もう続きが読めないのが残念。
それであんな「カッコイイじじい」になったらもさんが
見られないのも。

でも、やはり死後出版された対話集のタイトルが
「なれずもの」

「みんな何かになりたくてなられへんかったから」
という意味でのタイトルらしいけれど、
そういう人なので
途上でポッと消えてゆくさよならも
それでええねん
ということかもしれない。

カテゴリ 小説
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旅する女は何だかいとおしい。

というような台詞は似合わない。


でも読み終えると、著者も次々登場する各地の方々も
いとおしく思えて来る。


ただこの本はもう何回読んでもお茶吹きそう
笑い転げているうちに読み終えた。




読んでいるうちに、身近な人の話を聞いてるような気がしてきて
「もう、てるちゃんはホンマに!」と近所のおばちゃんみたいに
ついつい言いそうになるくらい
( バシバシ肩とか叩きながら )
とっても親しみがわくような気がしてしまうけれど
こんな人はそこらにはそうそういそうでいない。



世界に最初に世界へ飛び立つ勇気が出たきっかけは
おかん(おかあさま)が
ある日突然「おかあちゃんは腹話術師になったんや」と言い出したから
という人は
そうそうもなにも、この人くらいしかいてない、と思うけれど

そんな風にして日本を飛び出した、たかのてるこの
最初の記録から始まるアジア旅行記。


そんな調子で転がるような勢いで語られる
旅の話は単なる面白話を超えて
生きてる!生きてる!っていう生きていることそのものの
喜びに聴こえてくるのだけど


そうそうポジティブでない人間(私)でも
動いて食べて人と会って別れて喜んで悲しんで
とにかくめいっぱいやってみたら?
と思えてくるからあら不思議。そういう本。


でも、見てると疲れてくるような
前向きさもあると思うのだけど、そんな感じはないのは

著者あとがきにあるように

”でも永遠なんてこの世にはありません。人も自分自身も変わり続けています。
 本当はいつだってかけがえのない時間が絶え間なく流れていて、
 そんな中で
 私たちは生きています。
 実際に旅に出る出ないは関係なく、毎日のかけがえのなさを知っている人は
 みな、私と同じ「旅人」だと思っています。
 そして、私は精神が「旅人」の人としか、
 本当の友達にはなれないような気さえしています。”


こんな文章を書く人でもあるからかもしれない。

05年テレサの没後10年の年に出版された本が文庫化されていたので再読。





10年かけて、没後から遡るように丁寧になされた取材と調査に基づいていて
著者からの理解と愛情が感じられる。



前半では、どちらかというとおしとやかなイメージのあったテレサの
案外率直でサバサバした物言いから
歌手という華やかな表の顔だけの人ではなく
一人の自分の考えと意見を持つ
大人の女性であるテレサが浮かび上がってくる。


ただこの本は読んで行けば行くほど、後半にかけて徐々につらくなっていく
それは一つの出来事から、徐々に自分を見失っていた時期の
姿も書かれているからかもしれないし、結末の分かっている小説を
読んでいるようなやり切れなさがまだ
何処かにあるからかもしれない。
人の一生にどういうものであれ判断を下せる言葉などないのだけれど
その最後はどうして寂しく感じてしまう。


一人異国で生涯を終えた、という事よりも
歌手になりたくて生涯を歌っていたい、歌うことだけは止められない
と願っていた人が歌手として大きな存在になればなるほど
様々な事情に翻弄され、疲れてしまい、やがては歌えないと言うようになり
そしてそのまま逝ってしまった事がとても寂しい事に思えたから。


個人的な考えだけれど
テレサの心の中にあったのではないかとずっと思っていた
のは「まだ見ぬ故郷の美しさ」だった。
だからあんなにも場所を問わず人の心に
歌声は浸透したのではないかと思っていた。

それは現実に生まれ育った台湾を想う気持ちとは
また別のものとして、あったのじゃないだろうかと


訪れたこともない国を故郷、と呼ぶのは日本にはあまり
馴染みの無い考え方かもしれないけれど
外省人として台湾に渡った第2世代という背景や、今よりもずっと遠かった
両岸という事情に、尚更夢は美しく理想化されていたのかもしれないと
ずっと思っていたのだけれど。


その美し過ぎた夢故になのかどうかは私には分からない。
ただ確かにテレサの中に存在していただろう
「理想の一つ」がうち砕かれた時に
どれほどテレサが心傷付き、全てに背を向けたくなったのかという
想いを追いかけて、心に寄りそうようにして
丹念に書かれている本だけれど
心情を慮り過ぎているわけではなく

本文中にも書かれているけれど、これは著者とテレサの約束でもあり
没後に流れた報道に対する、冷静に事実を積み重ねた反論でもあったので
だからテレサを取り巻いていた様々な現実的な問題や、
人間としての強さも弱さもハッキリと感じられるのが
つらいことでもあるけれど
読んで後味の悪さはない。


ただもうどのような理由にも何者からも囚われることなく
静かに眠るテレサに
安らぎがあってほしいと思うだけだ。
そして歌を聴き続けよう。



テレサが日本語で歌っていた「香港~Hong Kong~」という曲について
テレサ自信も強い思い入れがあったようだ、
と書かれていた事も印象に残った。
個人的にとても好きな曲なのだけれど、とても切ない切ない曲だし
あの歌に込められた想いがあったなら
それは余計切ない話でもあるのだけれど。
でもテレサの歌には、どんなに切ない曲にでも
どこかに必ず人を慰める優しさがあった。
それは単純に自分の想い一色で歌を聴かせようとしない
テレサ・テンという歌手の
才能であり優しさだったのかもしれない。



本書のタイトルでもあり
単行本版の特別付録になっている
「私の家は山の向こう」~我的家在山的那一邊~
1989年5月27日 香港ハッピーヴァレー競馬場での音源
...

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2007年3月21日

読書状況 読み終わった [2007年3月21日]

ガーデニングとは明確に一線を画す
と著者が言うところの
ベランダにて植物を愛し育む
”ベランダー・俺”と植物たちの生活記録。



一つ一つの話は短く
どこから読んでも良いし
また好きな所を何度でも
読みたければ読めばいいじゃないの、という
気楽に読みやすい本だけれど、その気安さが罠なのか
こうも楽しそうに、植物との生活を読まされて
「江戸の時代の長屋の前に並べた鉢の延長」とか
世界観を提示されたことにグラグラきちゃったからなのか
これを読んで以降目にする植物たちがつい、気になる。



一時期よく時代小説を読んでいたのだけど
その中で見た
江戸の変わり朝顔比べだとか
出てくる話はやけに”熱い”もので
熱狂といっていいくらいの”狂い”があった。
人と植物なのに。


これは熱い本、というのではないけれど
そういう
どこかおかしな
多分常識的に考えて「植物を育てる」という言葉から
想像される穏当さとはかけ離れた「植物生活」に
いつの間にか
心惹かれ始めて
語り口に載せられて面白く読んでいるうちに
今まで別に淡白を気取ってたわけでもなく
名前なんかはどうでもいいんだ、と
思ってたのが花の名前なんか知りたくなってきたり



いとうせいこうの本を読んでると
この人が100書いてたとしたらそのうちの
私は3くらいしかワカッテナイんだろうな、
という気がしてくるのだけど
その3でも引っ張り込まれていた。




読んでてちょっと驚いたのは
芍薬の切り花が一番好きで
しかも10本20本と大量にあるのを見て
幸福感でイッパイになるという一文。
思い切りがあって情熱的な人なのかもしれない。
あのちょっとビックリするくらいの
大きさの蕾や (本当に饅頭のように大きい)
花が開いた時の姿の絢爛
そっと触った時のやっぱりハッとするような感触…

それははとてもよく分かるのだけれど
あれを切ってしかも何本も
飾る勇気のようなものはわたしにはナイなと思った。
花に関わるのは思うより男らしさがいるもの
なのかもしれない。

タイトルに惹かれ手にとって
裏表紙を見てハッとした


”このシリーズを書くきっかけになったのは
一本の映画……
そう、京劇を中心に話しが進む前半の数話は、
当時一世を風靡した(んだっけ?)
香港映画「さらば我が愛~覇王別姫~」の
絶大なる影響下にあります 
        (著者あとがきより引用) ”

そう著者が語っているように

美麗に描かれた京劇役者の姿は
「さらば、わが愛 覇王別姫」の蝶衣そのままのような
夢のような姿だし
綴られる物語世界は
レスリー・チャン演じる少爺とアニタ・ムイの娼妓の
時空を越えてなお悲しい愛の物語り 
「ルージュ」 の世界もどこか思い出させる。


お話はあの映画のような、ドラマチックに悲恋や
悲劇の物語りではないのだけれど
京劇世界と関わりを持った人々のあれやこれやが描かれ
著者がこよなく愛して止まなかったという「古き良き北京」の面影が
ギュッと詰まったような短編漫画集は
どこかから京劇の音が流れ続けているのが
聞こえてきそうな絵物語に酔わせてくれる。



1920年代、北京。
    馮家の大太爺の誕生祝いの席に招かれた
    評判の京劇役者・楊洛仙たち一座の者と
    戯迷(芝居好き)の度が過ぎて
    その日も戯を聴くことすら禁じられている
    馮家の三少爺・如山


映画「ルージュ」での少爺(お坊ちゃま)のような
京劇好きで唄を習い素人芝居にうつつを抜かす道楽息子というような話しなのかな?
と読み初めは思ったのだけれど

だから役者たちが後日、戯団を訪ねてきた三少爺に
誉めそやすのも
…これはおバカな金持ちの家の息子を
煽ててあわよくば…

などと意地悪な、でもわりとよくありがちの筋書きを
思い浮かべてしまったりしたのだけれど

でも彼らには、そんな
表で誉めて陰で人を馬鹿にするような
陰湿といえばそうだけれど
身分の低いもの、蔑まれるものの悲しさなんかは
ありもしなくて
役者の仕事に心から誇りを持ち
だから人にも優しい、優しくできる
そんなまっとうな人々で


覇王別姫のあのそう生きるしかない生
実るはずのない愛だからこその悲しさ。
ルージュの放蕩息子の弱さ、頼りなさと
後の世に幽霊になってまで
現れる女の恋情の行き違う悲しさ…
それらは悲しいからこそ映画を胸に迫る物語りに仕立ててくれていたけれど
でもこんな風な優しい人々の世界に
あの蝶衣や如花がいたとしたら…?と
思わずにいられなかった。
彼らが幸せでいられたかもしれないような
もう一つの世界
そんなものを思わせてくれて

後半ではあとがきにも書かれているように
馮家の四妹を中心に、少女たちが見聞きする身の周りのあれこれや
そんな人の世に触れながら大人になっていく姿が描かれているのだけれど

世の中が移り変わるさなか
新旧の価値観がぶつかり合ったり混在している世界は
古き良き、というだけでなく
正に激動の時代のただ中でもあったんだなぁと読んでいて興味深いし
激動の時代といっても
例えば宋家の三姉妹なんかのような
その嵐そのものや、嵐の中心にいたような人々の話ではなくて
何だか分けも分からず、嘆いたり反発したり翻弄されつつも
生きて行くしかないような、
市井の人々の話しだからこその面白さもあるような。


美しい絵と小さな話だけれど、豊かな物語り世界
楽しませてもらいつつ、でもやっぱりどこかで胸切なくするような
二胡の調べでも
微かに聞こえてきそうな気がするのは
これが今はもう失われた世界の話しで
ノスタルジックなお話しだからなのかもしれま...

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読書状況 読み終わった
カテゴリ 漫画

中国史を元にした武侠ロマンスなども面白い藤水名子の
中国文学「紅楼夢」はいかにして生まれたか…?という話。


ですがファンタジックであり
冒険活劇テイストでもあるエンタテイメント小説で
そして一人の作家が
物語りを生み出すまでの話でもあって…と読み応えがあった。


これまでの武侠ものでも
冒険活劇の胸躍るワクワク感と
ロマンスもののバランスがとても良いなぁ、というか
登場人物の心の動きと
物語の運びも噛み合ってて
この本でもそうでしたが、歴史上の人物でも
とても人間的で魅力的。


古典だったり歴史ものって、申し訳ないですが
そのまんまの感じで出されて並べられても
なかなか感情が入りにくかったり
入るまでの力というのも必要になってくる
というのが個人的にはあって
この本は「紅楼夢」を現代語訳してるわけではないのですが


その原典の「紅楼夢」
確か
ダイジェスト的にまとめられた大体のお話を読んで
「紅楼夢」を題材にしたとかの映画は見たことある…
という程度にしか私もよく知らない
つまりはほとんどちゃんとはわかってないに等しい、
というていたらくですが
それでもこの本でひとつの世界になってるので
全然問題なく楽しく読めたんだと思いますが
(それで良いのか?どうかはともかく…)

けれどこの本で興味をもって
ボチボチと原典にもあたって行こうかな、とは
さすがに思ってくる
そう思わせる本でもあったと思います。


この本の主人公、
没落貴族で作家志望の才子・曹霑(そうてん)という
男の魅力
なーんだかよれよれフラフラしてるようで、
なるほどこの男が生み出した物語だというなら
それはきっと
さぞかし魅力的な本に、物語に違いない…と思わせる。
何とも良かった。


この作者である藤水名子や日本の作家の書く中国物には
「中国武侠小説の面白さ」と
「日本の時代小説の面白さ」の両方が無理なく
並び立って相乗効果を感じさせるような本があるなと
思うことがあるのですが

それでいうならこの本も
例えば古龍の「多情剣客無情剣」や、
皆川博子の「みだら英泉」のような魅力が
入り混じったように、広がりがある
贅沢に面白い本だった。

単行本でも読んでいて、でも何度読んでも、身体の中がぐらぐらするような
中から揺さぶられるのだけれど、胸躍る本でもなければ、
楽しい本でもない。
読んでいる間はしんどいほど血が騒ぐように胸に迫ってくるのに
読み終えたらとても静かな作品だと思う。


私にとっては頭より身体に来る。記憶に来る。


故郷や人の思い出は心に残ってるものだと思っていたけれど、どうやら
肉体的にも身の内にあるのだな、とあらためて思った。
それとも、そういうものは繋がっているもので、別のものではないからか。


紀南の出ではないけれど、元は紀南の辺りから出てきたものが多いので
なんとはなしにその土地らしい気質や空気を、身内の態度や言葉や
そういうものを通してこの身で感じて育ってきたことがよく分かる。
あの複雑な係累の気持ち的なややこしさも、争いのうっとおしさも
あの荒くたい言葉使いもハッキリと聴こえてくるようで、それが嫌でもあるけれど
読み終わると、温かい、というにはあまりにも熱い体温のような気もするけれど
優しく懐かしい言葉に思う。









父が亡くなった後に始めて中上健次を読んだけれど
生きているうちに読んでいたら
父にも読ませたかったと、思うことがある。
中上健次の本を読んでいれば、希望を感じられたのではないかと



この物語りが希望あふれる結末か、といわれればそうではないと思うけれど
それでも生きていく、ということがあると思う。
それで救われはしなくても、光を見つけられたのではないか、と思う。
希望は安易に救われることでも、ハッピーエンドでもなくて
様々な苦楽がありながらそれでも生きていくこと、ではないだろうか?



どちらにしても、もう父は読むことも考えることもないのだから
今はわたしが読み、考えていこうと思う
それで何がどうなるではなくても
自分の中で答えがいつか見つかればよいと思う。




巻末の「著者ノートにかえてー風景の貌(かお)ー」まで読んでいくと
紀南の海の、強さ優しさ、からんとした明るさと思いがけないほどの寂しさ…
望む風景の広がりまで、しみじみと感じた。


ルポタージュである紀州 木の国・根の国物語も読後にでも読むと
より様々なことが感じられるのではないかと思う。



(*荒くたい=関西の方言。乱暴な、荒っぽい、のような意。)

読書状況 読み終わった
カテゴリ 小説

タイトルにもある通り
90年代当時バリバリのトップスターはもちろん
そこからずっと遡り
クンフー映画や、あるいは広東語・国語映画が別れていた頃の
香港映画のスターまで網羅されている。


かなり年代の古い方まで
各スターの貴重な資料や写真も収録されていて
版が大きく、見応えもじゅうぶんに
香港映画の歴史なども楽しく知る事が出来る
何処かで見かけたら購入しておいても損はないかもと思う一冊。




あまり過去にはこだわらないように見えて
時に映画のタイトルそのものや
登場人物の名前や音楽に…と
時折過去のものが顔を覗かせたりする
現代の香港映画を見る時の
ちょっとした楽しみも増してくれる本でもあるかもしれない。

鴨居洋子という人を
今まで知らずに損してた気がした。


マルチアーティストなんていわれると
とたんに胡散臭い気がしてしまうけれど、
下着デザイナーであり、画家であり
人形を作り、フラメンコを踊り
という日々の間に書き残した
エッセイたちは、どれもやけにホントくさい。


多分、鴨居洋子という人のいた時代を
ほんとうに大人っぽい世界への憧れと
アンダーグラウンドなおどろおどろのヘビーさへの
辟易とが同居した目で、眺めているのだけれど
彼女の世界は不思議と地に足がついていて
現実の街角から、夢を見る女の子で女、の姿が見えてくる。


並ぶ言葉は、ぽっかり開いた穴に
優しく布地をあてがってくれる
世話焼きのお姉さんのような匂いがする。
今はもういない人なのに、こんなに体温まで
感じると錯覚しそうな文章を残してる。



人が去った後に
こうして、残されたものを読んで
辿ってゆけることだってあるのだなぁと思えた。
すごく遅くても、鴨居洋子という人を知って
この本を読めて、よかったと思う。

2006年8月8日

読書状況 読み終わった [2006年8月8日]
カテゴリ エッセイ

裏表紙に「恋をしたとき、女の準備は千差万別。」「女たちが足をとられた恋の深みの居心地を描く22の情景。」と書いてあるけれど、これは恋の本なんだろうか?



恋愛の話もある、あるというか読み終わったらほとんどそうだった気もした、前の「ざらざら」から続いているアン子の恋の話もあるし、表題の「パスタマシーンの幽霊」だってそれは恋人の部屋で見つけたパスタマシーンに問い詰めた所から話は始まるし、他にもいっぱい恋も出て来るんだけれど



最初の一編が「海石」と書いて「いくり」と読む圧倒的でどこか神話的な話から始まるのもあって、まるで色々な立場、年齢、環境にいる様々な女たちをどこかから見ている神様か何かがいて、少しずつそれを私にも見せてくれているような気がして、恋もそういう女達に起こる出来事の一つのように思ったのかもしれない。



描かれている恋愛も、こんな感情を持つというのはなんと可愛らしいことかと涙ぐみたくなるような恋もあれば、いらないのならそれはいらないでいいんだなと思う話もあり



クウネルで連載していた短編というとクウネル的なという風に思うかもしれないけれど、表題作である「パスタマシーンの幽霊」は

蕎麦も打ったし、餃子の皮も手作りしたし、パンも焼いた

という ”料理上手なばあちゃん”が念願のパスタマシーンを孫達からプレゼントされてじきに亡くなって、幽霊になってまでパスタを作りに出てくるのだけれど、その孫の一人の恋人で料理が下手だと自分で言い「パエリアなんか、土鍋で作っちゃうような」女をまるで仮想敵のように思っているのに、恋の終わった反動で料理に没頭し「今にパエリア女になってやる」と叫ぶ唯子の所にあらわれて

料理上手な女なんて、ロクなもんじゃないよ。

と非難する。



イメージを持ったりそれで整理をつけると便利なこともいっぱいあるなと思うけれど、そんな風にだけでは収まりきらないこともあるからおもしろい人や物事に会えたり、おもしろい本が読めたりすることもあるんじゃないかなーと思ったり。


普通に幸福だと言われていることがそうだとは限らないし、逆もまたそう、ということもとても思った本でもありました。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 小説

「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい 」
「わたしのものよ 」収録



読み終わるのがもったいないので
チビチビとチビチビと読んでいた鴨居羊子の全集。



おいしいお酒をちょっとずつ
味わって、瓶が空になるのを
先延ばし先延ばしして
飲むというより舌の上で転がして味わって、
それでもうすぐ飲み終わりそうだ
あぁ後、どれくらいだろう?
もうすぐなくなっちゃいそうだ…と考えても
飲まなきゃ良かった、とはちっとも
思わないんだなこれが、という感じだろうか
と、分かりもしない
酒好きの気持ちのように思った。



甘露みたいでどうしてこんなにと思うほどおいしい
飲みたいけれど
何かの役に立てよう、自分の栄養に…なんて
しみったれたことを考えちゃいけません、
そんないじましさは似合わない気がする


ただ味わえばいい、知ればいい、と思う。


だけど欲を言うなら
もう少し、もっと読んでたい
置いたそばからそう思うのも酒飲みみたいなんかしら。





 『わたしわたしと自分のことばかりを書いて、
  またあとがきでわたしは云々と言ったら、
  わたしずくめで気が遠くなりそう。その上、題名がまた
 ”わたしのものよ”では欲張りのカタマリみたい。
  でも死んでしまったみんなのため、無理にわたしを連発した。
  でも生きている私のための義務でもある。~著者あとがきより引用~』


二人といない面白い人の話だけれど
一人の胸のうちに喜びも悲しみも
そんなに簡単に一色ではないことも
教えてくれる。

2008年3月25日

読書状況 読み終わった [2008年3月25日]
カテゴリ エッセイ

三谷幸喜と二人での映画についての対談本「それはまた別の話」も面白かったけれど
三谷幸喜との本のように一本の映画を掘り下げてという形じゃなく
野球映画だったり、法廷ものだったりと
各章ごとに設けたテーマに沿った古今東西の様々な映画の話が広がっていく。


あれはこうだった、こんなのもあったね、そうそうこれに出てたアノ人は…って
映画が好きでたまらない3人が思う存分話していて
誰かが見た映画の話をすればそれを見てない人は「悔しい」と言いながらも
「で、どうだったの?どんな映画だった?」って聴きたくてしょうがなくなっている、とか


興が乗る、という言葉は 面白さの勢いに任せて何かをする、ということだそうだけど
そんな風に自然と話が広がっているような対談で読んでいても楽しかった。



まえがきで和田誠が自分達のことをマニアだと言ってるけれど
ひけらかすようではなく、何しろホントに古今東西なもので
さっぱり分からない映画の話も多いんだけど、そういう自分が知らない時代の話を
のんびり聴いてるような、こっちも知識を得ようなんて気にもならずにへぇなんておじさんたちの話を楽しく聴いているような気になった。





第一章は「すべては映画館からはじまった」とタイトル、テーマで
映画館の形態の変化や、あの時代あそこにはこんな映画館があってという話から
ロードショーはいくらで、お金がない学生時代はだから
二番館に下りてくるまで待ってから見たという話へ



こんな風にして映画館っていうものについても語ることがあった時代の
引っかかっててもギリギリしっぽの方しか実際には体験してないのだけれど
だからこそよけい大人たちに混じって話しを聴いてる子供のような
気分になったのかもしれない。


読んでいて、そうだったなぁ、とやっぱり思ったのは
映画館って広くて大きくて混んでたりしたら迷子になりそうでちょっと怖い
ドキドキする場所でもあったなっていうこと。




古い年代の、古典と言えるような映画の話も多い本だけど
自分の知らない映画の話でも、もっと気持ちが広がるような読んで世界が広がるような
何だかやっぱり映画って楽しいなって気持ちになるような本だった。

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