広田弘毅: 「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)

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  • 中央公論新社 (2008年6月25日発売)
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どうやら「悲劇の宰相 広田弘毅」という僕らのイメージは、「落日燃ゆ」で城山三郎によって多少創られたものであるようだ。
少なくとも「玄洋社の社員」であったという事実は「自ら計らわぬ」悲劇の宰相にはなかった。いわゆるアジア主義者の一面だ。
合理的な協調重視の外交官でありながら、国士でもあり、その立場が彼を数奇な運命へ導いた。
首相就任以降は意思や決断力がないように、軍や大衆に流され、「無為無策」とか「協和的ではあるが軍と右翼の圧力に弱い」と評せられた。
あとがき「広田が悲劇に襲われたというよりも、危機的状況下ですら執念をみせず、消極的になっていた広田に外相や首相を歴任させたことが、日本の悲劇につながった」が象徴的。
戦争遂行へと確実に前進させた人物として、死刑という結果や戦争責任の正統性自体はともかく、批判されるだけのことはしていた。
ちなみに、公的な資料中心に、結果から多くを判断したため、広田弘毅の人間性はほとんどうかがい知れない。

以下要約。
政党政治下、欧米協調外交をすすめた幣原喜重郎らとは一線を画していたため、30年代前半まで日の目を見ることはなかった。
駐ソ大使の際、満州事変へのソ連不介入などの成果が評価され、外相に就任。
欧米との協和を維持しながら、中国の親日派と、念願の日中提携をすすめる。
35年の駐華大使館への昇格がそのピーク。中国分離を図る陸軍からの圧力が強くなる。
重光葵ら外務省内の強硬派にも押され、満州承認や対日新善策を強要する「広田3原則」を打ち出し、日中提携は行き詰る。
2.26事件後、軍紀粛正を期待されて首相に就任。
結果的に軍部大臣現役武官制や日独防共協定など、失策が多かった。
近衛内閣では再び外相に。軍・首相と一体となり、大衆迎合に走った。
トラウトマンを介して日中講和を探りながらも強硬姿勢を崩さず、交渉は「国民政府を対手と」しない近衛声明で頓挫。
東城内閣以降は実質権力をなくし、元老的な立場でありながら、終戦直前の効果のない対ソ和平交渉のほか、ほとんど何もしていない。
東京裁判では南京事件不介入や近衛声明などの罪を問われ、「軍に追従した代表的文官」として死刑に処せられた。

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感想投稿日 : 2011年12月31日
読了日 : 2011年12月31日
本棚登録日 : 2011年12月31日

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