どうしてあんなにインチキくさい「道徳」の授業を相変らず多くの学校の教師はまじめに行っているのか?(あとがきより)という著者の疑問から出発したという、道徳教育についての本。

最初の「手品師」という有名な教材(だそうだ)の扱いがなかなか面白かった。もっと多様な選択肢や解決法があるにもかかわらず、それを「自己の利益」と「他者の利益」の二項対立に矮小化して自己犠牲を美徳とする、というのは、この教材に限らず学校現場(というより日本社会)でありがちなことだと思う。

筆者の主張は、このような一見「反利己主義」的な道徳教育が、明治以降の市場主義を押し進めるための装置になってそれを支えている「市場モラル」であるということ、そして、それを必要悪として相対化するための「共同体道徳」の復権を求めていることである。

道徳の系譜を、明治以降の市場原理主義の導入と共同体道徳の相克で図式化しているあたり、ちょっと単純化されすぎのようで気になった。ブックガイドにある唐澤富太郎『教科書の歴史』も読んでみたい。

2012年5月3日

読書状況 読み終わった [2012年5月3日]

「ショートして火事が起きた」というとき、「ショートした」ことが原因で、その結果として「火事が起きた」と僕たちは捉える。しかし、そのような認識は正しいのだろうか?

この本では、僕たちが日常的に考える「因果関係」が、いったいどのような関係であるのかを丁寧に考察していく。筆者によれば、実際には「時間的に先行する原因が必然的にある結果を引き起こす」ということは存在しない。しかしにもかかわらず、僕たちはそのような「因果関係」があると思う。その場合の「因果関係」とはいったい何なのか?

因果論については野矢茂樹や黒田亘の著作で読んでいたこともあり、全体としては非常に納得しながら読んでいった。興味深かったのは「原因とはINUS条件である」というマッキーの定式化だ。「原因」として語られるものがこのように定式化したことで、その対象が非常にクリアになったと思う。その上で「原因」を「十分な理由」へと読み替えていくあたりが、個人的には一番面白かった。

最後の章の、ヘーゲルの様相論を「十分な理由」論として捉え返す箇所は、自分がそもそもヘーゲルを理解していないのだなとわかる結果に終わったのが残念。まあこれは仕方ないかな。いつかまた手にとる機会があればと思う。

2012年4月7日

読書状況 読み終わった [2012年4月6日]

鏡は曇らないし、外壁や窓は汚れないし、野菜はたくさんできるし、がんも治るし、空気もきれいになるんです、光触媒があれば!...と書くとなにやら怪しい物売りの口上のようだが、読んでるととにかく「光触媒すげー」という気にさせられる一冊。

「光触媒」とは、光をあてると触媒としていろいろなものを分解する働きをする物質のこと。ここでは酸化チタンがとにかくヒーローだ。著者が発見した「酸化チタンが光をあてると水を分解する現象」がネイチャーに掲載された顛末もなかなか面白いが、その光触媒を使った様々な応用例がとにかくこれでもかこれでもかと示されて、笑ってしまうくらいである。

「実用のための学術」というのは一段低く見られがちだし、僕自身もそういう価値観を持っている気もするけど、でもここまで実用の力を示されると清々しいなあ。身の回りの色々なところで活躍しているんだとびっくりした。

あと、かこさとしさんが著者と一緒に描いたという絵本「太陽と光しょくばいものがたり」も非常に気になる一冊.読んでみたい。

2012年4月5日

読書状況 読み終わった [2012年4月5日]

サケはなぜ自分の生まれた川に戻っていくのか? 料理で合わせだしにするとぐっとおいしくなるのはなぜか? その鍵を握っているのはいずれも「うま味」。この本は、味の基本要素である「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」につづく第五の存在「うま味」(グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸)について語ってくれている本だ。(ちなみに厳密に言うと「辛味」や「渋味」は痛覚の一種であって味ではないらしいです...)

うま味成分ってそもそも何か、それはどんな食品に含まれているのかという話題に始まって、うま味が世界で認知されるまでの歴史、そしてうま味を感じるための味蕾・うま味受容体の仕組みまで。途中で化学式が出てくるとややくじけそうになったけど(現役の高校生は大丈夫だと思う...)、おおむね楽しく読み進めることができた。

岩波ジュニア新書の「〜って何だろう」系のタイトルはあまりうまくピタッとはまってないなあと思うことが多いのだけど、この本については、「そういやうま味って何だろう?」という素直な疑問を呼び覚ましてくれるので、そのタイトルも良かったと思う。

うま味に限らず温度や固さなどの食感を含めた「おいしさ」がどのように知覚されるのか、という話題にも興味があった。そのへんを掘り下げてくれた本があればぜひ読んでみたい。

2012年4月4日

読書状況 読み終わった [2012年4月4日]

これは面白い一冊!「火事場の馬鹿力って本当にあるの?」「走り幅跳びの時、空中で手をくるくるまわすのはなぜ?」「インナーマッスルって何?」など、スポーツに関する様々な疑問点を手がかりに、人間の身体の仕組みを説明していく本。「あ、これ良く聞くけど理由がわかってなかったな」と思うトピックがたくさんあるし、中には自分が勝手に信じてた迷信(「サウナ―スーツを着て汗をかくと痩せる」など)が実は間違っていた!というのもあり、いずれにも明確な理由が述べられていて、そのトピックへの興味がわいてくる。とにかく、個々のトピックが興味深い。この本の良さは、なによりもまずそれだと思う。

「運動生理学」「機能解剖学」「トレーニング科学」「スポーツ栄養学」など、全部で6つの観点から整理されていて、一つのトピックにつき2ページから長くても6ページくらいなので、どこからでも読むことができるのもいいところ。いい意味で「入門書らしい入門書」。特にスポーツや運動部をやっている中高生にとっては、ためになる内容ばかり。理論面から自分の運動や生活をチェックするのに興味がある生徒にはお薦めの一冊だ。

2012年4月4日

読書状況 読み終わった [2012年4月4日]

日本書記に記された最古の津波から、東日本大震災まで、「津波災害とのつきあい」だった日本の歴史をたどる本。東日本大震災の時に「未曾有の天災」「1000年に一度」のような語られ方をしばしば目にした。それはむしろ「もう(少なくとも自分の生存中には)津波は来ないだろうという願望のこもった形容だったのかもしれないけど、それがほんとうに甘い願望であることがよくわかる。日本書記に記された古代から現代まで、日本は本当に昔から頻繁に津波災害に襲われてきた土地なのだ。

その中には、1770年代に沖縄を襲い12000人が犠牲になった「八重山地震津波」のように息をのむものもある。直径10M、重さ推定700トンの巨大岩石が、津波によって陸にうちあげられ、今も宮古島に残っているという。

また、震度3の地震でも津波が起きたり、他の被害は全くないにもかかわらず大津波によって多くの人命が失われたり、火山による崩落で津波が彦起こされたりと、「大地震→津波」という自分の感覚を裏切る事例も多い。

防災教育という観点からというよりも、純粋に日本列島と津波災害のつきあいを知る楽しみで読める一冊。筆致が淡々としているだけに、歴史に興味がないむきにはやや厳しいかもしれないけれど。

2012年4月4日

読書状況 読み終わった [2012年4月4日]

戦後すぐの昭和22年の学習指導要領(試案)から始まり、昭和35年頃までの作文教育をめぐる論争や実践の歴史を一望できる本。論文をまとめたものであり500ページほどの大部の著作だが、国語科の「作文」派と「生活綴方」派の論争史だけでなく、個々の実践記録も充実しているので、この時期の宝が色々と埋まっているような本である。

「作文」派と「生活綴方」派の対立がやがて止揚されていくような著者の歴史観にはやや強引さも感じたし、何よりここで扱われた「作文教育」が、本当にこの当時に現場で行われていたのかと言われれば、そこにも大きな疑問符がつくだろうと思う。(それはちょうど、国語教育の専門誌に掲載された実践で日本全国の国語教育を代表させるようなものだ)

ただ、それでもこれらの実践を読むと、今自分たちが感じていた問題意識がとっくの昔に論じられ、それに対する具体的な実践の積み上げもあったことに今更気づいて、大変勉強になる。倉沢栄吉や大村はまのすごさにも改めて気づくことができた。自分の関心のある作文教育法のライティング・ワークショップだって、その個々の要素はとっくの昔からあったわけで、ほとんどの場合、良く言っても「その組み合わせ方」の問題にすぎないんだなとわかる。ほんと、「アイデアとは既存の知識の新しい組み合わせである」とはよく言ったもの。

過去の歴史を見てみると、「生活綴方」は、取材(アイデア探し)段階や共有段階で豊富な実践例を持っているし、「作文」は文章の構成を中心に長年の蓄積がある。そうした過去の遺産を組み合わせて行けば自分の授業の質もブラッシュアップできるはずなのに、それを完全に無視して、「これからは○○だ」とか「新しい実践」とか言ってしまえることの恥ずかしさ!

僕たち教員は過去の積み上げの上に、現代的な課題に対応していくべきなのに、それが全然できていないのはどういうことなんだろう。これって大学の国語教育系研究者の怠慢なのか、現場の教員の怠慢なのか。責任論はどうでもいいから、現場の教員が過去の歴史にアクセスしやすい環境が出来てほしいなと思う。

他に印象深かったのは、「作文」対「綴方」という対立が、作文教育をめぐる考え方の対立であると同時に「官/再軍備」対「民/平和」というイデオロギーの対立でもあったらしいこと。この両派の対立が明確になるのは昭和26年(この年、学習指導要領(試案)が改訂されて国家レベルでは系統性重視の方向に舵を切る一方で、『山びこ学校』による生活綴方復興の年となる)なんだけど、そこにも朝鮮戦争以降の日本の動向が反映されているのかな、と思えたのはとても面白い。このへんは、本当は当時の資料を丹念に洗い出してみないと実感できないことなんだろうけど。

この本、勉強仲間と一緒に三ヶ月ほどかけて読み進めていったのだけど、一人だと、たぶん(というかほぼ間違いなく)くじけてたと思う。単に読む動機になったというだけでなく、一人だと見落としていた面白さにも気づくことができた。最後まで読み通せてよかった。☆5つは自分のがんばりも含めて(笑)

2012年3月30日

読書状況 読み終わった [2012年3月30日]

一言で言うと、とても好きな本だ。一つには、ルソーの「一般意志」を現代の視点で読み替えた物語として。グーグルやニコ生動画などの日常の材料に目をとめることで、ルソーの『社会契約論』がこう読み替えられるのか、という体験は、純粋に小説の面白い解釈を読むような楽しさがあった。きっと本人もこのアイデアにはワクワクしただろうし、いくら著者がわかりやすさを念頭に筆致を押さえていても、平明な叙述ごしにそのワクワクが伝わってきた。

もう一つは、「熟議型民主主義」が明らかに限界を見せている昨今の(本当は昨今ではなく昔からの)状況の中、民主主義をそれでも志そうとするその姿勢を見せた本として。著者がツイッターなどで繰り返し誤解に応えているように、この本の主張の眼目は「熟議とデータベースの相克」を生むプラットフォームを用意しようよ、という点にある。熟議を全て否定しているわけでもないし、データベースで一般意志を可視化してそれに従うべし、という本でもない。現実に対処可能な方途を示しながら、なんとか「民主主義」を残そうとしている。口ではどうのこうの言いながらその価値を信じたがっている、その姿勢に共感を覚えた。どうやって熟議がデータベースを抑制するのかとか、色々と現実面では問題があるのかもしれないが、一つの大きなビジョンだと思う。

個人的な体験からも、この本には思い入れがある。勤務校の同僚や生徒たちと一緒に3時間ほどの読書会を開いて、この本について色々と語り合った。テキストに戻って本文を確認したり、脇道にそれたり、生徒の読みに感銘を受けたり...と、読書会の楽しさを満喫させてもらった。

2012年3月30日

読書状況 読み終わった [2012年3月30日]

『銀の匙』『奇跡の教室』を読書会で読んだので、その副読本的に軽く読んでみた本。橋本さんに関する本はもう3冊目なのでさすがに同じ情報がたくさんありすぎたのだけど、この本は彼の著書からの引用も多くて、そのぶん「授業」というよりも「橋本武」という著者の人となりがよくとらえられると思う。

面白かったのは、本当に夜を徹して作ったのだろうなという手書きのガリ版資料が実際に見られること。実際に見てみると、一つ一つの言葉の語註が非常に詳しくて、なるほど、ここまで徹底してやるから一ヶ月で二・三ページのようなペースになるのかと納得した。この徹底した語註の姿勢は、自分にはとても真似できない。その価値を信じているからこそできるのだろう。大村はまと同様、力量抜群の教師が人生を授業に賭けて準備をした時の、有無を言わさぬ迫力のようなものを、この人の手作りプリントから感じる。30代から40代にかけての、まさに働き盛りの時の成果なのだろうなあ。

それともう一つ、橋本さんの決して上手ではない(気がする)短歌も個人的には大好きだ。自分で実際に書くことを楽しんでいる姿勢はとてもいいなと思う。見習いたい!

2012年3月30日

読書状況 読み終わった [2012年3月30日]

基本的には、以前に読んだ「恩師の条件」(こちらはラクレから復刊)と同じ感想を抱いた。この人の授業の本質は、国文学の王道である「テクストに注釈をつける」ことであって、それを三年間通し続けたのだな、と。この本では橋本さんの授業の素晴らしさを卒業生へのインタビューやら何やらで色々と説明づけているけど、その多くはあくまで付加的な要素だという気がする。自分の専門に特化した一つのことを徹底してやる、ということの強さが、この人の授業の本質なんだろう。

「恩師の条件」あすこまのレビュー
http://booklog.jp/users/askoma/archives/1/4576050516

ただ、今回こちらの本を読んで面白かったのは、橋本さんが諸橋大漢和の編纂作業に若い頃に加わっていたこと。この人の授業のルーツはそこなんだ、なるほど、と手をうつ思いがした。

それと、今回読書会でこの本を一緒に読んだメンバーには、これを読んで「5回ほど泣いた」という方がいて、正直びっくりした。僕は「ふーん」程度で流して読み進めていたので、同じ本を読んでもこれほど捉え方が違うのか、とたいへん面白かった。

2012年3月30日

読書状況 読み終わった [2012年3月30日]

読点の打ち方が独特で、やや長めの一文は時々読みにくさも感じさせる。けれど、ゆっくりと息をつぎながら声に出して読んでいくととても美しい回想記。特にストーリーが動かない前半部分にはその印象が強い。音の響きが美しくて美しくて、自然と音読してゆっくりゆっくり読み進めてしまった。ただ、あまりに音にだけ気を取られて本当にストーリーが頭に入って来なくて困ったけれども。

逆に、主人公が小学校に入学してストーリーが動き出してからは、登場人物の台詞も増えるせいか、その文体の雰囲気がちょっと変わったように感じられた。料理の描写などに独特の擬音語や擬態語の魅力は感じられるけれども、陰影にとんだ言葉の艶っぽさは乏しくなったように思える。ただ、ストーリーや人物が動き出したことによる面白さはあって、小学校時代の「お恵ちゃん」にはああいるいるこういう子、と思ったし、子供の頃から慣れ親しんだ伯母さんが亡くなるシーンはさすがに胸に迫るものがあった。

全体として、最初の数ページで好みがはっきりと分かれる本。小説というよりも随筆を読む感じで読めば、好きな人には好き、という世界かも。

2012年3月30日

読書状況 読み終わった [2012年3月30日]

北海道の石川晋さんの授業を見学に行った際に、同席した中学校の美術教師の山崎正明さんに薦められたDVDブック。小学校での美術の対話型授業とその解説DVD、そしてその内容が活字になった本というセット。山崎さんへの興味で手にとった本。専門外の本ではあるのだけど、美術鑑賞と詩や小説の鑑賞はかなり似ているなあという発見があった。

ただ、正直に書くと、授業自体には全体としてあまりいい印象はなかった。僕が生徒だったらこの授業は何も教えてもらえなくてつまらないと感じただろう。「授業の導入部だけで終わっているような授業」とでも言えばいいのか、絵画を見て生徒が感想を交流させて、それで終わっているのだ。今回は(レビューらしくはないけれど)この授業について感じた違和感をもとに、僕の考える授業観も交えながら書いていきたい。

この授業では、小学校5年生が橋本周延「真美人 十四」(1897年)とジョヴァンニ・フランチェスコ・カロート「少年の肖像」(1520年)を読み、発見したことや感じたことを意見交流していく。担任の先生はそれを励ましながら意見をつなぐことに徹するファシリテーター役。生徒の発言はとても活発で、そこに先生の手腕がいかんなく発揮されている。だから、もしこの授業が、これから何時間か続く絵画読解の導入部の授業なのだとすれば、とても良い授業だと思う。

しかし、(授業全体の目標が示されていないので想像になるけれど)この授業はおそらくそうでない。だから、とても肝心なことが抜け落ちている。それは、子供たちが自分の絵の見方を、何かほかの視点によって相対化するという点だ。

この授業で、子供たちは基本的に自分たちの感じたままを述べていく。自分たちの時代感覚をもとに、過去の絵を意味づけていく。その時に表れる子供の絵の見方のクセ(部分から見る、とか、自分の関心に引きつけてみる)については、なかなか面白い。授業をする側にもこういう意識があると、意見交流を活発にする上で良いだろうと思う。

しかし、こうした子供の「読解」行為が、それを解説する大人によって、「自分の頭で考えている」とか「本質を見ている」とか肯定的に意味づけられるに至ると、ちょっと待ってよと思ってしまう。

これ、別に何も考えてないよ。子供はただ自分の感覚を肯定しているだけ。子供の絵の見方に大人がはっとするのは、ただ子供が大人の絵の見方に習熟しておらず、そのことが大人にとって新鮮だから。それだけのことじゃない? ちょうど国語教師にも、日本語の運用や語彙に習熟していない子供の書いた詩に過剰な詩性を読みとってしまう人がいるけど、それに対するのと似た違和感を抱いた。

こうした子供の感覚は、子供たちが大人世界にとっての他者であるから新鮮なだけで、別に子供たちが何らかの「能力」を獲得したゆえではない。現に、こうした面白い見方をする子供の大部分は大人になればごくふつうの見方をするつまらない大人になっていく。でもそれは、(例えば学校教育のせいで)子供が何かを失ったせいではない。自分の感覚を無自覚に肯定する子供が、そのままそういう大人になっただけの話である。

このDVDの子供たちは、最初から最後まで自分の感覚中心に絵画を見ている。その中には調べればわかることもたくさんあるのに、調べようとしない(先生も調べさせようとしない)。自分が無知であるという自覚もない。同時代の同地域の同学年というきわめて均質化された等空間の中で、ただ自分の感想を友達と交換しあっているだけ。

これで、絵画と「対話」していると言えるのだろうか?僕にはそうは思えない。ここが、僕がこのDVDの授業が好きになれない最大の理由。

絵画には、それが描かれた時代の感性や、その画家の個性や、それが鑑賞されてきた歴史など、様々な文...

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2012年3月4日

読書状況 読み終わった [2012年3月4日]

1930年代に「生活綴方」という教育法が広く実践された。国語という教科の枠内で書くこと「を」教えるのではなく、むしろ教科の枠を超え、書くこと「によって」子供が現実の生活を把握し、改善する力を鍛えようという実践だ。本書は、その生活綴方教育史を1920年代から40年前後まで、その運動の主流にあった人物や雑誌から記述する研究書。

主に扱われているのは『綴方生活』(1929年創刊)の編集に関わり「調べる綴方」の先駆的実践を行った峰地光重、同じく後に同誌の主宰になっていく小砂丘忠義、『教育・国語教育』(1931年創刊)の主宰で綴方教師の組織化を進めていった千葉春雄、詩人でもあり『綴方学校』(1935年創刊、当初は『工程』)の主宰だった百田宗治ら。活発に活動していた彼らとその雑誌が、1937年の日中戦争勃発を機会に縮小・統合・廃刊を余儀なくされていくまでの様子が描かれている。論文集なのでストーリーとしてわかりやすくはないけれども、戦前の生活綴方教育の概要はこれでとらえられると思う。

2012年2月18日

読書状況 読み終わった [2012年2月18日]

戦前にもこんな「作文教室」があった! 子供の意欲を第一に、書くための環境整備を重視した作文指導の実践記録。

本書は旧題を『綴る生活の指導法』といい、昭和14(1939)年に刊行されている。ちょうど日中戦争が本格化している頃だ。著者の平野婦美子は小学校の教師。これまで比較的裕福な生徒が多い市川市に勤務していたが東京品川区の工場地帯に移り、そこでの子供がまるで文章を書けず(書かず)、これまでの自分の指導法が通用しないことを悟る。そして、書けない生徒のために組み立てたのが、この『綴る生活の指導法』である。

タイトルにもあるように、本書の眼目は「綴り方」ではなく「綴る生活」を組み立ててやることにある。何よりも書く喜びを与えて、書くことを日常化する。そしてそのために重要なのが「親愛感を醸す教室の空気」や「教室の文化施設」(学級図書館、学級博物館、芸術の壁、学習用具の備え付け、遊び場、いこい場)である。このような環境整備によって子供が書く必然性のある場を作ろう、というのが彼女の実践の中心にある。

こうした「場」を整えた上で、子供随筆、子供の論文、子供の詩、子供用向文など様々なジャンルの文章を書いていく。書く前にはメモを書いたり、生徒同士で相談しあったりするし、生徒同士で書いた綴り方の研究を行ったりするなど、協働的活動も随所に取り入れられている。様々な形の文集も編集する。このような活動を通じて、子供の書く力や話し合いの力を伸ばして行こうとしているのである。

この本、当時も話題になったらしいが、特に小学校では現在でもそのまま通用しそうな内容。というより、ワークショップ型の作文指導に関心のある国語教員にとっては、「もうすでにやられていたのね」というアイデアが満載の一冊だ。戦前の生活綴方教育の伝統の中にこのような実践が生まれていたのはとても興味深い。大正期あたりまでさかのぼって、国語教育の系譜を調べていく必要を感じた。


※本書『綴る生活』は昭和14(1939)年に刊行された『綴る生活の指導法』(厚生閣)の復刊。僕が読んだのは『指導法』のほうで『綴る生活』は未見。

2012年2月17日

読書状況 読み終わった [2012年2月17日]

日本語と外国語(英語などのヨーロッパ語)を比較することで、日本語の特質や言語の普遍性をあぶり出す。入門書としては歯ごたえがありすぎるけど、面白い一冊。

はじめは、「記号論への招待」や「文化記号論」のような入門書かと思って手にとったのだが、入門書としてはちょっと歯ごたえがありすぎた。でも、最後まで読んで行けば部分的にでも面白い話題は絶対に見つかるはず。

例えば、英語学習を経た身としては可算名詞と不可算名詞の違いは一体何なのか?という話。受験英語だと闇雲に「これは可算、これは不可算」と暗記することもありがちだが、これは人間が認識対象をどのように認識するのかという認知の問題に関わる問題なのだということが鮮やかに説明されている。また、日本語文の一人称が<語る主体>と<語られる客体>を分化させず、両者が一体となったような叙述の仕方をするという議論も、英語と対象すると非常に面白い。

他にも、日本語の複数表現について考えてみたり、本来は物を表す表現が場所を表す表現に転化する現象を分析したりと、豊富な分例で言語の世界っの奥行きを見せてくれる。もう少し文法について勉強してからまた読んでみたい一冊。

2012年2月15日

読書状況 読み終わった [2012年2月15日]

ここ20年ほどで厳罰化が急速に進む日本の著作権法。利益を得る人々から「啓蒙」されないための第一歩は、本書を読むこと。

著作権法というと、知らない間にどんどん厳しくなっていって、自分の感覚と法律が噛み合ないこともしばしば。もちろん一市民として「法を守る」という点は重要だけど、同時に、「その法がどう作られているのか」を監視し、そのプロセスに疑義を唱えることも市民の権利であるはずだ。この本の意義は、その必要性を強調し、そのための「情報公開」を行っている点にある。

著作権法を変えていく利益団体の人々が、いったいどんな論拠で「著作権の侵害のひどさ」や「関連法の厳罰化の必要性」を訴えているのか、この本を読むとよくわかる。基礎的なリテラシーの練習問題に使えそうなわりとお粗末なロジックも多いのだけど、この程度の理屈で「通ってきちゃった」ことに、ちょっと笑ってしまった。もちろん、それで通してきたのは僕たちなのだ。

圧巻は、ダウンロード違法化をめぐる、検討委員会の議論のプロセスをドキュメンタリー風に記録した第4章。個人名入りで、個々の発言を再現している。ただ、著者の立場のせいか、ちょっと津田大介さんがかっこ良く描かれてる気もするけど...。他では、「海賊版ディスク」を追究していく第五章も面白かった。日本のドラマが公開24時間以内にもう海賊版が出来ているというのは、正直びっくり(今ではもっと早いんだろうな...)

この著者の本は以前に『日本文化の模倣と創造』を読んだことがある。あちらは「似ているとはどういうことか」という議論から始まって、著作権やオリジナリティという思想を相対化する「大きな視野の話」をしていた。個人的にはそれもとても好みだったのだけど、この「日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか」は、徹底的に「今、ここ」の問題を考える本。というわけでセットで読むと良いかも。

著作権法の厳罰化によって利益を得る人から一方的に「啓蒙」されないためにも、読んでおくといい本だと思った。関連書の「<海賊版>の思想」にも手を出してみようかな。

2012年2月7日

読書状況 読み終わった [2012年2月7日]

生活綴方教育の金字塔と言われる『やまびこ学校』。山形の貧しい村の中学生が、自らの生活を見つめて書いた作文集は、戦後を代表する大ベストセラーとなった。

指導者だった教師・無着成恭はまだ20代前半。いったい無着はどうしてそんな作文集を生み出すことができたのか。そして、その後、一躍ヒーローとなった彼はなぜ村を去ったのか。その先東京で、生活綴方を捨てて科学的な作文指導法に傾倒したのはなぜなのか。そして何より、『山びこ学校』の主役であった生徒たちは、その後どんな人生を送っていったのか……。

まず何よりも、作文教育に関心のある僕には、無着成恭という傑出した教師の人生を追ったとても面白いノンフィクションだった。もちろん彼の作文指導(=生活指導)は興味深い。この本を傍らに改めて『山びこ学校』を読むと、あの文集が単に素朴に書かれたのではなく、「見る」技術の集積であることは、僕にとって大事な発見だった。特に、『山びこ学校』収録前のもともとの冊子「きかんしゃ」では、下半分が空欄となっていて丁寧な添削がほどこされていたことなど、その指導法が非常に興味深かった。

しかし、そういう国語教育的な文脈を抜きにしても、この本は戦後史の一断面として非常に優れた本だと思う。戦後の東北の貧しい村で、人々はどのような生活をしていたのか。都会が高度経済成長で沸き立つ中で取り残され、国から農業を見捨てられ、やがて自分も都会に行かざるを得なくなる村の人たち。そういう時代の流れの中で、貧しいながらも希望に燃えていた『山びこ学校』の生徒たちもまた、苦しい戦いを余儀なくされていく。

そうした教え子の人生の中で個人的に特に印象深いのは、『山びこ学校』の作品群の中でも文部大臣賞を受賞した作文「母の死とその後」を書いた江口江一と、卒業式での名高い「答辞」を書いた佐藤藤三郎の二人。無着の一番弟子のような二人が、その後ひとりは無着の辛辣な批判者となり、もうひとりは無着の教えそのままに働いて夭折する、その交錯は印象深い。

著者の佐野眞一は、丹念に取材を重ねて資料や証言を集め、『山びこ学校』を一つの糸にして歴史の一側面を描き出すことに成功している。わずか数十年ほど前のことなのに、もう消えてなくなりそうな「戦後」という時代の息遣いを、僕は読んでいて重苦しいほどに感じさせられた。

2012年1月30日

読書状況 読み終わった [2012年1月30日]

戦後間もない山形の貧村の学校から生まれた大ベストセラー『山びこ学校』。作文指導と生活指導を一体化させた「生活綴方」の金字塔とも呼ばれる作品集を、今回、教師・無着成恭と教え子たちのその後とともに追いかけた佐野眞一の『遠い「山びこ」』とともに再読してみた。

冒頭の「雪」、文部大臣賞をとった「母の死とその後」、貧窮生活を見つめた「父は何を心配して死んでいったか」など、印象に残る作品はいくつもある。全体として暗く貧しい、陰鬱なトーンの作品が多いが、その現実をしっかりと見つめ、立ち向かおうとする視線に、おそらく当時の多くの読者が共感したのだろう。これらの作品群を読んだ後で、無着のクラスの生徒が卒業式の日に読んだ「答辞」の次の文面にたどりつくと、今でも何か胸を打たれる思いがする。

「ああ、いよいよ卒業です。ここまでわかって卒業です。本日からは、これも先生がしょっ中いっている言葉どおり、「自分の脳味噌」を信じ、「自分の脳味噌」で判断しなければならなくなります。さびしいことです。先生たちと別れることはさびしいことです。しかし私たちはやります。今まで教えられて来た一つの方向に向ってなんとかかんとかやっていきます。」

初読の時には素朴な、「ありのまま」の生活を描いたと読める『山びこ学校』の作品群も、佐野の本とともに読み返してみると、無着の強力な指導があって作られたのだということが実感される。「ありのまま」を見つめるとはどういうことか。それがいかに大変か。無着の細やかで強力な指導がなければ、これらの作品群は生まれなかっただろう。むしろ、年齢に比して大人びすぎている彼ら中学生の視線の背後に、無着自身の視線を感じ取ることが自然に思われるほどだ。そのくらい、(是非はともかく)よく指導の行きとどいた文集である。

作文指導=生活指導としてしまうことの弊害も含め、無着の実践に不足や欠陥があったのは間違いないところだろう。「これは道徳教育だ」と言われたら、そうなのだろう。「数学は中学一年程度しか教わらなかった」「村の恥さらし」……どれも一面で妥当な批判だろう。しかし、再読してみると、僕には言語技術の指導も含め、無着の強力な指導力が印象に残った。単に戦後の貧しい農村を舞台にしたからとか、そういう舞台背景だけれは語れない、確かな質を持った文集である。

2012年1月30日

読書状況 読み終わった [2012年1月30日]

近代日本の読書教育史を概観してくれるガイドブック的な研究書。読書教育に関心のある国語科教員/学校司書にお薦めの一冊。

個人的に、短いテキストを全員で何時間もかけて精読する学習よりも、生徒が自由に本を選んで読んでいく教育に関心がある。現在の国語科の授業では読書教育は(授業時間を確保されていないという意味で)ほとんど重視されていないが、過去においてはどうだったのか、という興味で本書を手に取った。

読んでみると驚いた。大正期の自由教育以降の日本で、個別自由読書をはじめとした様々な読書教育があり、そこでは現在その必要性が声高に主張されている調べる力や評価する力などにも関わる先駆的な試みがある。いま「新しい」と見られている問題もずいぶん前にすでに語られていて、しかもそのことを自分が全然知らなかったのだ。自分の不勉強も恥ずかしいし、きちんと歴史を押さえておくことは基本だなと痛感した。

この本の一番の長所は、それぞれの時代を代表する実践を、その当時の資料からの引用をふんだんに用いて紹介しているところ。そのため、この本から元々の資料へたどりつくための「読書教育のブックガイド」という役割を果たしてくれる。

著者の増田信一氏自身も読書教育に関わってきた実践者であり、しかもその父・増田三良氏も読書教育実践者という背景があるせいか、それらの資料の論評部分にはかなり思い入れたっぷりの主観的な記述が目立つが、それは承知で割り引いて読めばいいこと。たくさんの引用を活用すれば、読書教育の歴史をたどる本として、かなり参考になる一冊だと思う。

2012年1月29日

読書状況 読み終わった [2012年1月29日]

学校図書館関係者必読!の素敵な本。文字通り「みんなでつくった」学校図書館の、「みんなでつくった」一冊。

ごく稀に「この本は今の自分のために書かれた本じゃないか?」と思う本に出会うことがある。自分にとってはまさにそんな本だった。今年度、勤務校の図書委員会の顧問となり、委員会活動や図書館の活性化について色々考える機会があった。自分なりに考えて行動もしてきた。これからも関わっていきたい。そんな立場でこの本を読むと、まさにいまの自分のために書かれたような本なのだ。

この本には学校図書館を魅力的な場にするための様々な工夫が書かれている。しかも、「みんなでつくろう」というタイトルを裏切らない形で。司書に何ができるか、というだけでなく、まわりの生徒たちを巻き込んでどんな活動ができるのかを、生徒たちの言葉をふんだんに盛り込みながら紹介してくれる本である。具体的で、やってみたくなるアイデアがたくさん。その合間に「図書館の自由」をはじめ、必要なミニ知識も盛り込んでくれて、いうことなし。

もしかすると、専門の学校司書さんにとってはこの本の知見は目新しいものではないかもしれない。むしろこの本のメインターゲットは、僕のような「図書館に関心がある(けど知識がない)一般教員や生徒たち」だと思う。この本を片手に、自分たちの学校図書館をどう変えていけるのか、あーだこーだと生徒たちと相談できたら、とても楽しそうだ。とりあえず何冊か買って図書委員の生徒に配ろうと思う。とにかく、学校図書館に関心のある大人と子どもに、強力にお薦めできる。

あと、この本のイラストやパラパラ漫画も、(元)生徒さんたちの作品なのだそうだ。そういういい関係性を、図書館を軸にして結べているんだろう。図書館に関わる一教師として、うらやましくって、そしてとてもやる気になる本だった。

2012年1月27日

読書状況 読み終わった [2012年1月27日]

斎藤和也『教室で開かれる<語り>』読了。自由の森学園に勤務し、日文協国語部会に所属している国語教員の方の実践記録。前半に理論篇、後半に実践篇という構成で、とても丁寧に書かれた本。ただ、正直なところ授業実践はあまり...という印象かな。

授業がよくないというのではない。バックボーンとなる理論と実践を往還し、生徒の言葉を拾い上げながら組み立てられているいい授業。誠実なお人柄なのだと思う。ただ「日文協の方が授業するとこうなるんだろうなあ」というイメージからあまり離れてなかった、という意味で刺激には乏しかった。

個人的には、斎藤さんの実践を支えている理論的支柱である「第三項としての<原文>」(田中実)は、「読者が自分の読みを絶対化せずに更新し続けるための装置」程度に捉えればよいのだと考えている。(そして、その限りではきわめて穏当な主張だと思う)。ただ、日文協の実践者の方は、それを近代日本の文化的問題に結びつけ、文学教育全体の根拠にしてしまう。おそらくそれこそが田中さんの理論のキモなんだろうけど、結果としてどんな作品でも機能としての<語り>を読むし、そこから生徒が自己認識を改めるという方向に向かうのが、金太郎飴的であまり面白くない印象がぬぐいきれない。

<語り>を読むことが、小説読解を面白くするのであれば、読めばよい。言い換えれば、すべての小説を「<語り>を読むことで自己認識を問い直す」材料にせんでもよい。いくらいい料理法でも、すべての素材をそれで料理したら飽きるんじゃないの?生徒が自らの読みを更新し、自己の認識を改めることを理想とするわりには、教員の側の読み(というよりその枠組み=田中理論)が乗り越えられていかないところに、読んでいて物足りなさを覚えるのだ。


またこの点に関連して、国語教員はつい「初読の感想からの変化」を生徒に期待するけど(「授業で読みが深まった/自己を問いなおした!」)、それを繰り返すと賢い生徒はこの既定路線に乗って適当に手を抜いた「初読の感想」を書いてくるので、この構図からどう抜けるかは大事な課題だなと思った。場合によっては、生徒の読みが初読の感想から変わることを求めずに、「なぜ初読時にそのような印象を抱く書き方になっているのか」を、授業時間使って問い続けても良いのかもしれない。

2012年1月23日

読書状況 読み終わった [2012年1月23日]

週刊誌の見出しや現代思想系の本にしばしば登場する「」や〈〉などの括弧。あれはいったいどういう意味なのか? そんな疑問からスタートする、奥深い言語世界への考察。

括弧の意味について言えば、僕らだって「彼は評判通りの「エリート」だね」などという表現に見られる皮肉なニュアンスを読み取ることはできる。もちろん本書の話がこの程度で終わるわけはない。この本では、人間の言語の特徴に再帰性(ある文を他の文に埋め込みうること)があるという視点から、それが現れる場としての括弧を考察することで、言語の本質を垣間みようとしている。(したがって、本書では「」などだけでなく、黒抜きやジェスチャーなど「括弧的な言語現象」全般を扱っている)。

括弧を分類する第一章、文中に占める括弧の割合について調べた第二章、その歴史を辿る第三章...とそれぞれに興味深い話題が続くのだが、やはり中心は括弧の意味を分析した第四章と、そのような括弧的表現が発せられる行為の意味を分析した第五章。ここでは言語哲学の話が中心になるので僕には難しい箇所もあったのだが、括弧的表現の特徴を指示語が持つ「投写」という機能で捉える筆者のアイデアになるほどと頷かされ、括弧だけでなく指示語一般への興味をかき立てられる。また、括弧の意味が明示されていないにも拘らず、ほとんどの場合、それが話者と受け手の間で共有されているのはなぜか?という第五章の問題設定も、とても面白かった。

終盤では括弧の意味論的な分類も掲げられているのだが、そこだけ読んで終わりにするのはもったいない。個人的にも参考文献にあたって、もうちょっと日本語論について勉強してから、また読み返したい一冊だった。

2012年1月8日

読書状況 読み終わった [2012年1月8日]

小説をより深く読むために必要な知識を、平易な語り口で、具体的な小説作品とともに紹介してくれる本。副題のとおり、まさに「読むための準備体操」に好適の一冊。

小説を読むための理論については多くの類書があり、僕の好きなものとしては、ディヴィッド・ロッジ『小説の技巧』、廣野由美子『批評理論入門』などがあった。ただ、それらの本は西洋の文学理論をほぼそのまま紹介するものだったと思う。

それに対して、この本では、源氏物語研究を専門とする著者が、あくまで日本語で書かれた小説をターゲットに意識して書いているのが最大の特徴だ。特に語りの問題を扱う場合には、英語の文章に対する日本語の文章の特徴が際立っており、ここだけでも読む価値がある。

収録されている作品は、夏目漱石や芥川などの近代文学の名作だけでなく、「源氏物語」をはじめとする日本語の古典作品も多い。おそらく中高の国語教師や中高生も意識して有名な(教科書的な)作品を多く収録したのだと思う。

ただ、筆者が後書きで書いているように「最初の足がかり」としてはとても良くできた本だけに、参考文献一覧を省いているのが残念な限り。「それらの理論書(物語理論の理論書)へと読み進んでいただけたら」とまで書いているのに、肝心の「それらの理論書」を紹介しないなんて、ありえないよ!この点でマイナス1。

という大きな欠陥はあるものの、現時点では古書でしか手に入らないのが残念な良書。国語教員は一読するべき本だし、文学に興味のある生徒にもオススメ。

2012年1月8日

読書状況 読み終わった [2012年1月8日]

過去の物語か、今も現場で起きているのか? 「自由で民主的な、生徒が主体となって活動する小学校」での鬱屈した日々を、筆者が振り返る自伝的ノンフィクション。

筆者が小学生時代を過ごした1970年代の滝山・東久留米市立第七小学校では、若く熱意のある教員と、それを支えるPTAによって、全国生活指導研究協議会(全生研)の指導方針を軸とした「民主的教育」が追求された。班単位での生活指導、代表児童委員会による選挙と委員会活動、生徒主体の林間学校...。しかし、その中で連呼される「みんな」という言葉に違和感を抱き続けた筆者は、中学受験塾に自分の精神的基盤を置き、学校を批判する側にまわる。そして30年以上たった今になって、筆者は当時の関係者を尋ねてまわり、あの時あの小学校で何が起きていたのかを振り返って行く。

筆者が振り返る当時の様子は、今の学校現場とはかけ離れているようで、しかしどこか今もどこにでも見られる要素も残っていて、読んでいてうすら寒い思いを抱かせる。

僕は小学校の教員でもないし、勤務校もやや特殊な環境なので、事情がわからないところも多々ある。しかし読んでいて痛感するのは、小学生に対する担任の一時的な影響力は、中高に比べてはるかに強いのだなということ、そして担任の側でも「いい学級」を作ることへの欲望が強いのだなということだ。少なくとも「学級」というシステムが、個々の志向や能力を超えて、生徒や教員をそのようにふるまわせる構図を持っている。そのことに充分に自覚的でなくてはならないだろう。

第七小では、「いい学級」を目標に、日常的な班活動を基盤としつつ、合唱やキャンドルをはじめとした行事の工夫が小道具として配置され、抑圧的な空間が形成されていく。若く魅力的な教員の指導のもと、そのような学級づくりが完璧なまでに機能していくその様子、そして「自由」や「生徒主体」という言葉がどんな中身でも入れられるマジック・ワードとして機能する実例を見られたことは、教員としてとても「勉強」になった。

このストーリーはあくまで筆者の側から語られる一面的な記録にすぎない。当時の教員や生徒たちの思いには充分に踏み込めていないし、公正ではない。第七小の取り組みを評価するには、別の記録を見る必要もあるだろう。

しかし、日本の学校が「学級」という制度のもとで作られ、そこが権力発動の場となる生々しい実例がここにはある。学校空間を相対化し、適度に距離をとってその意味を問い直すためにも、教員は読んでおくといい本だと思う。それだけでなく、その中を生きることを余儀なくされている生徒にもおすすめできる一冊。面白いよ。できれば柳治男「<学級>の歴史学」とあわせて読むとなお面白いかも。

2011年12月3日

読書状況 読み終わった [2011年12月3日]
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