知と愛 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1959年6月9日発売)
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感想 : 89
5

たぶん高校生くらいのときに読んで、いま再読。

ナルスチ(知)とゴルトムント(愛)という対称関係は、ほかに「霊と肉」「理論と芸術」という対比にもなっていて、もともとけっこうヘッセの小説ってこういう対比がキッパリしていると思うのだけれど、本作においてはよりキッパリして実に小説らしい。

修道院にはいったゴルトムントは高い精神と信仰心をあわせもつナルチスに惹かれ、彼をめざして勉強にはげむ。しかしナルチスはゴルトムントとの間の埋められぬ境界に気付き、むしろお互い正反対の性質を持つがゆえに重大な存在であることを説く。

まだ若くたびたび混乱をおこし強情を張るゴルトムントと、彼に対し忍耐をもって理解を促すナルチス。ふたりの道を分かつことになると知りながら、ゴルトムントへの愛ゆえに彼の進むべき道を説くナルチス。そしてもたらされるふたりの和解――こういう友情を、ヘッセはほんとうに美しく描く。

ゴルトムントは母なる道を歩む。母とは彼のうちにある幼少の記憶であり、官能と感性であり、また生と死がはげしく相剋するこの広い世界である。
ここまでがだいたい第一部。

ゴルトムントは旅に出る。そこで出会う女たちと浮気な愛を重ね、そして彼が決して手に入れることのできない騎士の娘リディアと出会う。

後に出会うユダヤ娘レベッカとともに、彼はこのリディアを想起する。彼女たちは彼が本当に求めて手に入れられなかった愛を体現しており、それは秩序や信仰が支配する世界―同時にナルチスの住まうところでもある―であり、ゴルトムントが彼の道を歩みつづけるかぎり交わることのないもう一方の確かな道だ。
(書きながら。こういうところ、深いなあ…)

ゴルトムントはヴィクトルという旅人を打ち殺し、立ち寄った教会でそのことを懺悔する。彼は教会のマリア像に感動して、それを作ったニクラウス親方に師事する。
そこで彼は彼の人生にひとつの意味を持たせるもの、すなわち芸術を発見するに至る。

ナルチスを象ったヨハネ像を作り終え、ゴルトムントが明朗に芸術について語る場面はぼくにとって心地いい。この小説にとっての「春」がこの場面だろうと思う。

第二部の終盤が「春」ならば、ペストの村々を放浪する第三部の序盤はさながら「冬」だろう。そしてぼくには、ここから物語の勢いが急に失速するように思える。その印象はラストのナルチスとの再会と対話の場面をもってしても盛り返せてない、とぼくには感じられる。

その決定的な別れ道がどこにあったかといえば難しいが、第二部の終盤でふたたび旅に出ることに決める内的独白がどうもくさいと思う。

p.275「彼が従わなければならないのは、芸術ではなくて、母の呼び声であった」「指をなおいっそう器用にすることが、何の役にたちえたろう?(略)名誉と名声、金と安定した生活とには達するが、同時に、あの神秘を開く唯一のよすがである内的な感覚を枯渇させ萎縮させるに至る」

たしかにゴルトムントは感性の人であり同時に放浪癖を生れもっているように描かれているけれど、ここの論理はどうにも甘い気がする。その証拠に、というわけではなが、ゴルトムントは第三部の旅にすっかり飽いてるようにぼくには思えるのだ。もっといえば作者のむら気が出てきてしまったというか。

ゴルトムントとナルチスの再会後の対話だっていまいちだよなあ。熱がないというか、比較するのはおかしいけどドストエフスキー並のドライブ感を期待してしまって裏切られたような感じではある。

よって☆ひとつ減じよう…かとおもったけど、移り気な愛、より堅固な愛、そして官能や芸術についてなど、やはり考えさせられる文章がとても多かったので満点つけたろ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説(海外)
感想投稿日 : 2013年5月16日
読了日 : 2013年5月16日
本棚登録日 : 2013年5月16日

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