雨の日のぼくらの太陽!

福音館から出ている科学絵本『かがくのとも』の傑作集のひとつ。ストーリーはなにもない。ただ夏休みの、昼過ぎの、ひょうたん池が、よしくんや魚やとんびから見た視界で描かれている。断ち切りいっぱいまで埋った印象派風のタッチの濃密さが、そのまま緑と日差しと水の濃密さになっている世界。自転車に乗ったしょうちゃんから見る世界の疾走感。かいつぶりの視界を掠める黒い影。とんびの急降下する視界。それらは別な生き物の視点というだけでなくて、本は一冊のうちに視界の変転とクローズアップを繰り返し、時間のクローズアップになって、元の昼下がりのひょうたん池の時間に戻る。つまり人にはこれだけの別の視界に対する想像力があるということ。
まあ、そんなこと抜きにしても、見てるだけで嬉しい、完璧な夏休み。

2007年6月19日

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ハロウィンの王様がカボチャ頭なんぞではなくガイコツなところが素晴らしくバートンな、いまやクリスマスの定番映画。恐怖を引き起こすのが好奇心と無邪気ゆえ、存在自体の異形ゆえ、というのは、他者の逆襲、正当な悪意の主張で、ニヤニヤ、ジャック男前、サリー可愛いし、でも麻袋の中身はマジ気持ち悪いよね、という見る人も含めた各種リバース可能な果てなき構図の永遠の一夜。
公開当時丸善で平積みだったこれは、カリカリと紙を掻く音が聞こえてきそうな細い線のジャックがたまんない、ぜんぜん読めなくても楽しい嬉しいメイキング本。

2008年4月22日

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「動物と人間の環境世界への散歩」と「意味の理論」の全訳。
生物という主体が知覚する知覚世界(たとえば目も耳もないダニにあるのは全身光覚で得る光と、哺乳類の放つ匂いと、熱の三つだけ)と、主体がおこなう作用の作用世界(適当な温度の液体があると薄膜を突き破って吸う)が共同で、生物ごとにひとつの環境世界(適当な木に上り、獲物を察知するとそのうえに落ちる。アタリならたらふく吸い、子孫を残して死ぬ。空振りなら─ゼロという知覚─また次の木に上り、何年でも機会を待つ、という世界)を作り上げている。
ドリトル先生が動物と話をする、というだけでなんか気持ち悪くてあつかましくて読めなかった小学生時代を過去に持つ身には、すんなりと、馴染みやすい説ではありましたが、では人間は、となると。
他の世界を理解する開放性があるから、という理由で人間は本当に環境世界から取り除かれているのか否か、いるとしたらなぜそうなったのかは、想像すると、なかなかたいへんな世界だね。

2009年5月12日

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見る、ということについて考えることが未だにすこし恐い。
色ひとつを取っても、自分が緑と呼ぶものと、人が緑と呼ぶものが同じだとは、決して証明できない。名前が同じだからといって、それが同じだとは限らない。いきなり頭のなかを入れ替えたら、そこにはまったく違う色や形があっても、絶対それは確認できない──ということに、小学校から家へと帰る最後の曲がり角の、植え込みの固いソテツの緑のまえで気付いたときの恐怖をまだ覚えているからだ。
私たちは脳以外でモノを見ることができない。
その危うさと可能性が来た道と、これから。

2008年4月1日

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ゲーテ生誕二五〇周年記念出版の全三冊。工作者らしい美しく丁寧な造本。いつか欲しいなあ、と思っている、高嶺の花本。
色は光の波長による現象で実際に色というモノはない、と小学校のプリズムで私たちは習います。なぜ海が青く、夕焼けは赤いかとか、ね。しかしその真実とはべつに、私たちはどういうふうに色を見、感じているか、という認知の側から色を研究したのがゲーテ。明るいところから暗いところに入ると、現象は変わってなくても、ずっとそこにいた人と私では違って見えるというやつとかね。
もっとも「教示篇」「論争篇」「歴史篇」という分厚い三冊組を理解しているかと、まったくそんなことはなく、むしろちんぷんかんぷんなんである。ちんぷんかんぷんなんだけど面白い。難解な詩のようにときどきパッと煌いたり、見えないなにかを暗示していたり、おぼろげに感じさせたりする。
値段も内容も高嶺の花。こーいう本も本棚にあるといいと思う。

2008年4月1日

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タイトルそのまま、木をかいてみる、本。見て、手を動かす、という一連のありふれた行為のなかに、観察する、知る、応用する、という正しい手順そのものが宿っている快感は読んでいるだけでも伝わります。当然大人にもおもしろいけど、絵を描けるというのはなにか特別な才能なのだと他人事のように眺めていた子供のころに出会いたかったなあ。

2008年4月1日

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どこにでもある住宅街の、一角の庭を、目を凝らし、耳を澄ませ、鼻をうごめかせて、辿る。日本の自然はこういう視線でできあがっていて、細部に、気配に、潜っていき、豊かなことばが添えられる。熟した柿がすごーくいい。

2008年4月1日

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旧ソ連の広大な自然と動物を描く、ところどころ残された余白のある絵が、広さ、寒さを、呼び込むようで、いつまで見ていても飽きない。国土に手を入れ続ける自然を作り続けてきた日本とは違い、茫々とした、ママの自然がまずソビエトなのだとわかる。夏に眺めつ読みつするのが好きです。

2008年4月1日

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なるほど、目ウロコ。高一の国語あたりで副読本なら良かったなあ。
たしかリトルモアの社長が、アーティストをえらいと思ったことなんかない、受け手が、高度な受け手がいなければ、なにひとつ成立しないから、ってどっかで言ってたけれど、全員が詠み、読む、句会というシステムでは、この手のそもそもの上下関係が固定されないんである。需要と供給ではない、まさに「遊び」です。文芸にこういう成立の仕方があることは、なるたけはやく知れるといいなあ。

2008年4月30日

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テレビの石ノ森特番で、みっしり書き込んだ氏の創作ノートが映ったとき、そのなかに永田耕衣の句が見えて、あーそうだ、石ノ森の漫画はすごく俳句っぽい、と思い当たった。
膨らんだ一粒の水滴に凝縮されるかと思えば、さあっと引き絵になって世界が拡大、俯瞰されるところ。巨視と微視。雨、また雨、風、泥、花。風情と情感が切り離せないところ。男、女、斬るもの、斬られるもの。重なっていく重み。少年漫画に多いプロダクション形式ではなく、氏は一人で描かれるのだそうです。一幅の絵。すべてを一人で考えるからこその、ストーリーと絵と背景の、わかちがたく、一瞬に、同時に、現れる、そのダイナミズム。リズム。また独特の色気も石ノ森漫画の魅力。佐分と市では、市の「もどかしさ」がいちばんの色です。

2008年4月19日

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デザイン性とか、花鳥風月とか、たらしこみとか。ありきたりなイメージしかなかった琳派の基本くらいは、ちょっとお勉強しようかと思ったのは、グッドルッキング、グッドロケーションなレストラン、ルレ・オカザキ(ネギのポタージュ…)の跡地に細見美術館ができたから。派というからなんとなく狩野派とか四条派みたいに思ってたら、琳派という言葉は明治以後に、西洋に対峙する日本文化、というアイデンティティを築くなかで創りだされた概念だとか。意外でした。ふりかえると浮き上がるレリーフのようにある存在。三百年にわたる精神のリレーシップなのね。細見美術館の琳派展は、冬の花見。色が目に染む。

2008年4月9日

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母の付合いで中学のころから室町四条にあった金剛能楽堂によく連れていかれた。佳い建物で、ビルのあいだの小経を入ると、喧騒はぴたりと止み、みずみずしく、仄暗い(重要)。桝席も、小さく仕切られた桟敷も、眺めて気持ちいい場所だった。耳が馴れてくると謡が聞き取れだし、またどこかへ消えて、ふいに現れる。舞台のうえを滑りゆくモノが、なんともあたりまえに思える。結界を張ったように、そこはそうなのだ。まだあまり混みもせず、平安神宮の薪能も弁当持参で、一日足を伸ばして見ていられたっけ。そういう十年ほどのおわりに、これもいまはない近鉄百貨店でたびたび行われていた、京都新聞の出版フェアで、この本を買った。ゆかりの土地を訪ねて、背景や人物について記したものなので、簡単な観光ガイドにもなる。最近は山崎から水無瀬に足を伸ばすときに、蘆刈の項を読んでいく、という使い方。人いなくて気持ちいいし。

2008年4月9日

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ある日ふと姿を消す猫、行って帰らない人、簡単に人形に戻ってしまういのち、時空のはざまの旅人。内田善美はくりかえし「消えてしまうもの」を描くのだけれど、緻密な絵で描かれるそことここに変わりはなく、残されるもの、消えゆくものも、同じように美しい。死は世界に溶けていて、わたしたちはただ見失う。あえかな気配、あえかな感情は、濃密な自然に拮抗する。
だからページをひらくだけで、いつの間にか咲いた花を見上げ、うつくしいと、いいにおいだと、みとれるように出会い、去年散った花のように想うことができる。高校のときに読めて良かったです。

2008年4月18日

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みすず書房から出た「洛中生息」に「続・洛中生息」からも数篇を加え文庫化されたものですが、もとは、ようは京都新聞に載ったもの。いまや財団となった杉本家について書かれたものはおセレブすぎで、よそのこと、ですが、これは歩く杉本先生なので、同じ道を歩くことができます。それももうなくなった道を。いまや山も町も荒廃してしまった、と言いながらある京都を幻視しつつ歩く、その無残な姿を晒した町こそが、ちょうど70年代、幼い、物心つくまえの私が見た町なので。そしてこうやって、解説で二重映しといわれる京都は、読むもの(京都新聞購読者)によって、三重に四重にと重ねられ、失われ。鮮やかに、やはり聢としかなりようがないのでした。

2010年1月8日

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京都で漫画といえば駸々堂河原町店の奥だった。いりびたって立ち読みし、ビニールがかけられると眺めながら「つぎ買うリスト」を頭のなかでランキングした。当時でたばかりのBAMBOOHOUSEを買ったのは中学のとき。すぐにひとつまえの人魚變生を買いにいった。河原町店のマンガ担当さんはその後七条に店を開いたという噂で、橋のすぐそばの店にいったらやっぱり凄かった。でも店の奥のエロ本が増えたなーと思ってるあいだにお好み焼き屋になってしまった。近鉄のうえの旭屋のあとは談に戻った。店をハシゴしながら挿絵仕事までことごとく追っかけたけど、やっぱりだいすきなのは最初の三冊だと思って、いやいや東三はぜんぶ永久保存だ、で追っかけは途中でやめてしまった。それでも美しいものを山と見せてもらった。いまでも美しいものがつぎからつぎへとうみだされているんだろうなあ、と思うのは好い気分です。

2009年1月26日

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見ず知らずの人に自分のテリトリーを教える者などいないので、とうぜんすべての「僕の」「私の」京都案内本は、ただの京都観光本デアル。これはそのなかでも、黄金期ポパイやブルータスのフリーライター、かつ十四年前に京都を出た人で、昭和五十九年刊、で初めて成り立つ、思い出と観光のたなびく絶妙さじ加減京都案内本。

2008年3月3日

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京都本というのはたいていオカシイ。イメクラなみだったり、オシャレ系だったり、生涯学習っぽかったりして、しっくりこない。ふつうに読める京都本を並べてみたら、なんのことはない、下京のフツーの育ちの人のばかりだった。京都は狭くて広く、イメージは多様で、生活は生活。いまんとこいちばんしっくりくる京都本を一冊。市バス206系統で巡る場所と記憶。

2008年3月3日

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夏の画。
山本二三と絵映舎が作り上げた日本アニメの最高峰「夏の高校生」の背景。
自転車の二人乗り、キャッチボール、女子はショートカット、理想眼鏡男子、プリン、鞄の下げかた、伝統に乗っかった最新型アイテムとシークエンスとディテールはすべてが、
どこまでも高い空、廊下側の窓、天空へ続くような坂道の商店街、木漏れ日のちらつく小径、気密が高いような博物館の部屋、昭和初期っぽい和洋折衷な家、ゴーヤ棚の庭、薔薇のうぜん蔓むくげの溢れる玄関、夕暮れの河原、バックネットのコンクリ、沸き上がる雲、
のうえで動いて初めて眩しくせつない永遠の世界に立つことができる。もちろん上に乗っかるほうも魅力的(かつアニメ的)でないとまったくアニメイト(生気を吹き込む)されないんだけどね。
個人的胸打ち抜かれ画、理科室の上下の黒板がちゃんと入ってない(ラフ1枚とは)のだけが惜しいです。

2008年6月26日

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冬の画。
スクリューボールコメディ的ドタバタの周到な、脚本、キャラ、エピソード、背景の渾然一体となった威力は、とっても冬向きだと思う。それぞれの人恋しさの絶妙な距離感を、自在に伸縮させて話は進む。十二月に必要なのはこーゆーのだよねえ。街に積もった雪、ごちゃごちゃした冬景色、もこもこの服。
冬服の色指定が素敵なアニメは基本名作。センスがいいってことだから。
乗り物の動きが素敵なアニメは基本名作。リズムがいいってことだから。
オッサンキャラが素敵なアニメは基本名作。ハートウォームのツボを心得、ぴたりと終わる。
鍋焼きうどんなど食べながら、コタツで観たい。

2008年6月26日

記憶に残っているいちばん古い本。タイトルも内容もすっかり忘れており、数年前たまたま見た「本の探偵」で紹介されており、ああこれだった、と思い出したもの。あらいぐまとねずみというのも忘れてたくらいで(もぐらかと…)、何を覚えていたかというと断面図。あらいぐまが建ててやるねずみたちのいえの断面図だけをずーっと見ていた子供でした。断面図好き、見取図好き、地図好きに育つ。

2008年4月1日

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山盛り。断面図とはいえ、様々なものを見せるために「ある部分」をぎゅっと凝縮して仕立ててあるので、絵のなかには本来なら一度に見ることが不可能なものが山盛りにある。実際には、すべてを見るためには「何も見えない」ほど遠ざからなければ視野におさまらないだろうし、ひとつひとつを見るには膨大な距離を移動し、膨大な時間を待たなければならない。だからこれは本当には決してありえない光景なのだ。すべてを、一目で見たい──という欲望で作られた絵図はとうぜんたいへん魅惑的。

2008年4月1日

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自然破壊だなんだで焼き畑も一因というようなことが、市の啓発イベントですら堂々とパネルになっていて、うさんくさーい、と思っていたころにたまたま読んだ一冊(たしかコスタリカ関連本集中期だった)。そこがどういう場所で、どういう気候だから、どういう植生が成立するのか。膨大な媒介と連鎖の凄まじい密度。複雑な構造。北米でもっとも多様性の高いアパラチア山脈の十倍の多様性がペルー領アマゾンにはある。多様性が高いと同種の個体は互いに大きな距離をあけて分布する。つまり多様性の一角を欠くことは、この距離にわたる欠損となる。へぇー。ほぉー。と読んでるだけだが面白い。ここには目的がない。摂理がある。物事はこっちからしか派生しないとことがよくわかる。

2008年4月1日

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エッセイや雑誌ではやまほどある田舎暮らしモノのマンガ版。なだけなら買うわけもなくて、やはり魅力は絵の威力。画面をとぎれることなく繋ぐ緑。鳥。虫。獣。は見ているだけで目に快いし、均質な画は、そのまま均質な世界と地続きで、なるほど、なにもないところなど自然にはない、のです。
都会と田舎の対比と、とってつけたようなラストは凡庸。そろそろどっか別の出口はないものか。

2008年12月2日

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