日本人の足を速くする (新潮新書 213)

著者 :
  • 新潮社 (2007年5月1日発売)
3.44
  • (15)
  • (33)
  • (56)
  • (7)
  • (3)
本棚登録 : 303
感想 : 59
4

陸上400メートル・ハードルの為末大(ためすえ・だい)が書いた『日本人の足を速くする』(新潮新書)に感銘を受けました。

為末といえば、2001年の世界陸上(エドモントン)で47秒89の日本記録を出し、五輪・世界選手権を通じて日本人初の短距離種目の銅メダルを獲得したアスリート。2005年の世界陸上(ヘルシンキ)でも、雨中のデッドヒートで再び銅メダルを獲得しています。後半勝負が常道の400mハードルの世界にあって、170cmの小さな体で先行逃げ切り型の勝負を挑む"サムライ・ハードラー"として知られています。

壮絶なレース・プラン 10台のハードルが35m間隔で並ぶ400mを、為末は163歩で走ります。スタートから一気にトップギアに入れて1台目(45m)でトップに立ち、2台目(80m)を最高速度で越える。このスピードを維持しながら5台目(185m)までを越える。あとはいかに減速の幅を抑えるかの戦い。8台目(290m)で体内の酸素をほぼ使い果たし、9台目(325m)を跳び越えたあたりでほぼ意識がなくなり、ゴールまでは気力と体の記憶だけで走る、というのですから壮絶です。

言ってみれば、他の選手が400mのレースを走っているのに対して、私は300mのレースを走るつもりでスタートラインに立っています。とにかく300mまでをきっちりトップで走り切ること。後は野となれ山となれ、残り100mは半ば意識を失いながら、魂でしのぎ切る。それが私のスタイルなのです。(p.132)

驚きの調整法 試合前の調整方法も、門外漢の私には非常に面白く感じられました。試合を直前に控えた10日間の中で行う練習は、10日前にハードルを立てずに走る450m、5〜6日前にハードルを8台立てて走る300mの2本だけというのです。あとは本当に何もしない。競技場に行っても、ストレッチをしたり、散歩しながら他の選手の練習をながめるだけというから徹底しています。

450mを走るのは、本番と同じ負荷の距離を走り、長い距離への耐性を強めるためで、10日前に行なうのは効果が10日間くらい持続するからだそうです。ハードルを立てて300m走るのはレースの予行演習のためですが、300mしか走らないのは、本番でも8台目以降は根性だけで走るので、直前に練習しても意味がないからです。

私はオリンピックで陸上競技、とくに短距離トラック競技を見るとき、残酷だなあと感じることがあります。4年間という長い長い努力の結果が、10秒後とか20秒後に、天国と地獄を分けるような逃げ場のない明確さで突きつけられるのですから。想像するだに恐ろしい。私だったら、緊張でガチガチになって走り方すら忘れてしまうだろうと思います。ところが、為末はそこが面白いというのです。

陸上競技の難しさ、そして面白さは、アベレージではなく、一発勝負ですべてが決まる、という点にあると思います。 もし1年間の平均タイムで順位を決めるのだとしたら、私などは世界で10本の指に入れるかどうか、といったところでしょう。しかし、この日このレースの勝負ですべてが決まる、という舞台があるからこそ、さまざまな不確定要素が絡み合って、私のような選手にもメダルを狙うチャンスが出てきます。(p.137)

ハイリスク・ハイリターンで勝負する 為末は、スポーツのトレーニングには、だれもがやっていて一定の効果が約束されている「ローリスク・ローリターンのトレーニング」と、他の人はやっておらず、失敗の危険性もあるが、うまくいけば自分にとって大きな効果があるかもしれない「ハイリスク・ハイリターンのトレーニング」がある、と言います。

2005年の世界陸上の後、為末はなんと500日もの間、ハードルを1台も跳びませんでした。狙いはスピードの強化、緊張からの解放(今年8月の大阪世界陸上と来年の北京オリンピックで最大限の集中を実現するため)、そして技術的リセット(技術的贅肉が省かれてシンプルかつ中核的な技術を残すため)だそうです。普通の人は恐くて、そんな練習方法は採用できないでしょう。失敗したら何を言われるかわかりません。まさにハイリスク・ハイリターンの練習です。

何かを守ろうとするのではなく、果敢に攻める。攻めるのに必要でないものはどんどん捨てて無防備化していく。 フィジカル面での"資本力"に劣るなら、ハイリスクを負ってでもハイリターンを目指す覚悟を決めるのです。 覚悟が決まれば、恐いものはありません。(p.82) もうできるようになってしまってからの反復練習には、現状維持の目的は認めても、「昨日より凄い自分」にたどり着く可能性がありません。(p.68)

ハードル競技は、陸上競技の中で最も不自然な動きを強いられる競技です。その分、技術面での隙間や、そもそもの発想に"遊ぶ"余地があるとも言え、工夫を凝らし、奇策を弄していくことが可能なのです。(p.116)

500日の封印の効果に、為末は確かな手応えを感じています。フラットでの200mのタイムが0.26秒も速くなったそうです。「単純計算では」と断った上ですが、2004年のアテネ五輪の優勝タイムをはるかに上回る、と並々ならぬ自信を見せています。世界陸上大阪大会の400mハードル決勝は8月28日午後10時20分スタート。「金メダルを狙えるかもしれない」という為末に注目しましょう。

覚悟の力 トレーニングだけでなく、「人生」においても、為末はハイリスク・ハイリターンを選択しました。2002年の春、大学を卒業して大阪ガスに入社しましたが、翌年の秋に退社しています。勝っても負けても生活が保障されているサラリーマン選手という立場では、賞金で食べている海外のトップアスリートに勝てないと考えたからです。

覚悟というのは重要だと私は思います。何を犠牲にしてどこまで自分を賭けているか、その差が、いざという勝負の場で、1000分の1秒の違い、1cmの違いになって表れてくるのだと思うのです。(p.172)

失敗したときのことをあらかじめ計算する暇があったら、どうすれば自分の潜在能力を最大限に爆発させられるかを最優先して考えるべきなのです。(p.91)

日本人の足を速くする 最後に、『日本人の足を速くする』というタイトルの意味を説明しておきましょう。為末は、陸上競技を日本に浸透させるための"通訳"になりたい、「論理的なエンターテイナー」になりたい、と考えています。そのための具体的な活動が、クイズ・ミリオネアで獲得した賞金1000万円を使って行った、「東京ストリート陸上」(丸の内のビル街で一流選手のパフォーマンスを見せる)や「夢の陸上キャラバン隊」(一流選手による小学校訪問デモンストレーション)です。こうしたクリエイティブなイベントには、為末の遠大なビジョンが込められています。

もっと陸上選手が豊かな環境で活動できるようにしたい。日本人がもっといろいろなスポーツの魅力を知り、いろいろなスポーツで活躍するようになってほしい。 そう考えています。 そして、そうなったときに必要になってくるのが、"日本人の足を速くするプロジェクト"なのです。 いや、後先は逆でもいいのです。日本人の足が速くなれば、陸上界はもちろろん、すべてのスポーツがワンランク上のステージへ前進するのですから。(p.179)

『日本人の足を速くする』では、日本人の体格や骨格に適した走り方やトレーニング方法の解説に、2つの章が充てられています。詳細は本を買って読んでいただくとして、為末は「100mで国民平均0.3秒速くなる」と考えています。国民全体の足を速くすることを考えているとは、ただ者ではありません。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ■スポーツ
感想投稿日 : 2013年2月21日
読了日 : 2013年2月21日
本棚登録日 : 2013年2月21日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする