身体(からだ)の言い分

  • 毎日新聞社 (2009年12月10日発売)
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ぼくは、わりに、決まりきった生活が平気な人間だと思う。

毎朝、早朝、同じような時間におきだして、同じようなラジオ番組を聴き、その番組の天気予報のコーナーあたりで、ごそごそ寝床から出て、大きく伸びをして、冷たい水を一杯飲み、日経新聞を片手に、トイレに入り、ざあっと紙面を眺める。

そして、野菜中心の朝ごはんをいただいて、身づくろいをして、家を出る。

地下鉄に乗ると、まだ朝早いので、そんなに混雑してはいない。

2,3駅ぐらいで、座れると、おもむろによみさしの本を取りだして、読み始める。快調に読み続けられるときは、そのままにし、何か、考えたい時は、まわりの人を観察しながら、考え事にふけったり、目をつぶって、いつのまにか眠ったりする。

朝というのは、一日の中でも大切な時間だ。マラソンのスタートラインに立った時のような、なんともいえぬ、気ぜわしさと不安感にとらわれやすい。実際、走り出してみると、走る前の不安や取り越し苦労はどこかで吹っ飛んでしまう。実際、リアルなきつさを体験するから、取り越し苦労なんてことを考える暇も、そんなことを考えていたことさえ思い出す暇もなくなるからだ。

うだうだ考えずに、走り出せばいいのだというのも一つの見識ではあるが、スタートラインで、何かを考えるのにも意味がある。マラソンの苦しさを取り越し苦労するのではなく、自分がマラソンを好きであることを、じっくりと、確認する時間というものにも意味があるからだ。

早朝の地下鉄での30分は、こういった瞑想にぴったりの時間なのだ。

中村天風の「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)取り越し苦労をするな」などを思い浮かべたり、お気に入りのマントラ(南無阿弥陀仏でもインシャーラでも)を思い浮かべたり、自分が一番気持ちが良いと思うことを思い出したり。

早朝の時間に読む本は、小説ではない。何となく、さて今日どう生きるかについての深いマニュアルめいたものがいい。だから、最近、ぼくは内田さんの法話のような本を持ち歩いているんだろう。

内田樹と池上六朗の「身体の言い分」(毎日新聞)という対談集を早速読んだ。内田さんは語りの人である。何を語るかではなく、彼の語り方に魅力があるのだ。その語り方、ものごとへの近づき方が、ぼくたちの生き方や、物事、他者へのアプローチの仕方への手がかりを与えてくれる。だから、内田さんの本は深いマニュアルになる。彼の対談集は、その内田流の語りの現在が、そのままに描かれるため、二重の意味で、内田的なのだ。

池上六朗さんは、多くの職を転々とし、船乗りになった後に、三軸修正法という治療法を考案し、治療者となった人である。船の上の生活という、ある意味、極限的な場面で、得た身体性の理解に基づき、海外航路の船舶の操船技術と地球物理学の原理に基づき、治療を施す池上さんと、合気道という武道を、エマニュエル・レヴィナスのユダヤ哲学の両輪として追求する内田さんが、身体の声を聞くことで、人間というシステムの全体を捉えようと試みている対談集だ。

とはいえ、そんな堅苦しいものであるはずもなく、どの部分からも、内田的、語りの雑駁かつ、本質的な魅力があふれている。

《(内田) 自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじゃない、ということです。何を聴いているかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。

たしかに、日々、仕事などをしていても、誰とつきあうか、誰とつきあわないかというのは、山積みにされた資料や、こぎれいなプレゼンテーションで決まるわけではなく、眼の前にいる人々や、その中心となっている人の顔で決まるのがほとんどである。そういうことを、現実に生きているぼくたちは、暗黙に判断している。正直さを取り繕うことはそんなに簡単なことじゃないことを、ぼくたちは知っているからだ。》

難しい哲学、というか哲学の原典で読みやすいものなど、ぼくにはあったためしがないのだが、そういう哲学が難しいわけを語るこんなパラグラフ。

《(内田) よく「哲学は単純な現実をややこしく表現したものだ」と思っている人がいますけれど、逆なんですよね。現実は哲学で語りきるにはあまりに巨大で複雑なんです。だから「わかりにくい哲学」というのがありますけれど、あれは現実の複雑さになんとかついていこうとして息も絶え絶えになったものなんです。ちゃんとした哲学がわかりにくいのは、それがぼくたちの生きている当たり前の現実にできるだけ近づこうとしているからなんです。》

結局、理論が難しいのではなく、理論が漸近しようとしている現実がとてつもなく複雑で難解だということ。これは、言われて見て、はっと思った部分だった。哲学が難しいのは、哲学者のせいだと思っていた気がする。

幼児虐待とか、家庭崩壊を語る際に、内田さんたちは、「世界と調和した身体」をかつて生きたことがあるという幼児体験の有無を重視する。どんな状況にあっても、言及できる、絶対的幸福感を持つかどうかが、人間の人生を決定づけていくという過酷な真実。

《(内田) 幼児体験のところでの「世界と調和した身体」をわたしは生きたことがある、という経験の重要性を、みんな見落としているという気がするんです。

 でも、子どもの時に、自分は世界と調和している、世界の必然的な一構成要素なんだということを理屈じゃなくて実感できるような環境というのは、ある程度周りが整えてあげないと子どもの独力では構築できないですよね。

(内田) 別に倫理的にどうとか、義務をきちんと果たしていることの達成感で気分がよくなるとか、そういう意識的なレベルではなく、赤ちゃんが気持ちがいいと、ぼくも同時に身体的に気持ちがよくなる。そういう密接にインタラクティブな関係ができるわけですよね。

親の快感と子もの快感は分離可能であり、分離されるべきだという考え方をしているところから児童虐待のような問題はおきていると思うんです。》

結局、子育ては快感である。子どもが気持ちが良いことは、親にとっても気持ちが良いというような、集合的な快楽の意識というものを、すべて前近代的と切り捨てていった必然として、家庭がゼロサム環境となり、私の自己実現を妨害するのが子育てだと、ある種の憎しみが社会的に肯定されていっているというのだ。

内田さんの語り口は、やわらかいが、視線は冷徹である。そういう魅力的な語り口が全ページにみなぎっている。内田さんの本を読み出すと、内田さんのことばかり書くようになってしまう。これは、こういった語り口を誰かに教えてあげなければならないと無意識に思ってしまうからだ。そういう魔力を持った文体である。

かくして、地下鉄の30分間は、なかなかコアな瞑想の時間となるわけだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2011年3月5日
読了日 : 2005年7月31日
本棚登録日 : 2011年3月5日

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