南極1号伝説 ダッチワイフからラブドールまで-特殊用途愛玩人形の戦後史

著者 :
  • バジリコ (2008年4月5日発売)
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「男性セクシュアリティ研究のリソースとして」


 本書で用いられている「特殊用途愛玩人形」とは、かつては「ダッチワイフ」とよばれ現在では「ラブドール」などと呼ばれているものを指している。それらは元来、男性の性的欲求を満たす(=射精する)ための道具であり、女性の身体の代替物と考えられてきた。

 しかし、本書によると、現在では性欲を満たすという目的だけではなく、一緒にいることを楽しんだり旅行に連れ出したりという使われ方がなされているらしい。言い換えれば、そこでは性的なものから関係性への志向という変化が見られるのであり、それらはもはや「玩具」「道具」という範疇を超え出ている。本書は読み物の粋を出るものではないが、前述した関わり方の変容が示しているように、こういった事象を社会史的に研究することは男性セクシュアリティ研究の有効なリソースとなるのではないだろうか。

 第1章「ダッチワイフの履歴書」では、さまざまな「特殊用途愛玩人形」の歴史を概括しており、それらがどのように語られてきたかという言説史にも触れている。ヒトラーのナチス・ドイツや旧日本軍でのそれらの開発がどのような思想のもとで行われていたかという記述は実に興味深いし、1960~70年代のサブカルチャー、とりわけ手塚漫画におけるそれらの表象に触れている点も面白い。そういえば、筒井康隆の短編などSF小説にも度々登場する。様々なジャンルを横断して「ダッチワイフ」の言説をもっと丹念に追ってみると、さらに面白い知見が得られるかもしれない。

 第2章「素材革命」では、人形の素材や形状の変容を追っている。ここで記述される肌理やその材質(マテリアリティ)に対するこだわりは、ユーザーの志向性を反映しているといえるが、その記号論的で繊細な鑑賞眼は、日本に独特な身体文化、あるいは性文化であるようにも見受けられる。

 第3章「開発者の苦闘と喜び」では開発者へのインタビューを行っている。研究書はもとよりサブカル本においても、こういったジャンルの製品の制作者へのインタビューは前例を見ない。そして、このような発言を引き出している。

「ダッチワイフのお客さんは、ただ性欲処理に困っている健康な人だけじゃない。家庭的、身体的な問題を抱えたお客さんも多く利用しています」

 ここからは、性的マイノリティや家庭空間における関係性などさまざまな問題が浮かび上がってくる。 本書は、社会科学的な方法論に沿ったものでなければ、研究者によって書かれたものでもない。ましてや、そもそもそのような学問的な目的を志向したものもはない。そのため、体系性に欠けていたり、アナリティカルでなかったりするのは致し方ないだろう。
 しかしながら、評者が気になるのは、ユーザーへの調査が完全に抜け落ちているということである。ユーザーの属性といった基本的なデータや、インタビューを通じた彼らのライフヒストリーなどが盛り込まれていれば良かったと思うのは、求めすぎだろうか。

 とはいえ、評者は本書の価値をこのように位置づけておきたい。社会学における、ポルノグラフィを対象にしたジェンダー/セクシュアリティ研究やメディア研究が、限られた言説のバリエーション(あるいはフレーム)の範囲のなかで行われてきたのではないかという疑念が評者にはある。
 具体的に言えば、オーディエンスが直接的に影響を受けてきたような「剥き出しの」ポルノグラフィを回避・黙殺して、ある種、常識に収まるような週刊誌などを言説分析の対象とするような研究が実に多い。しかし、少年が性的志向性を形成していく過程において、多くの場合一般書店やコンビニで売られているような雑誌から影響を受けることなど少ないだろう。
 かつて、山本明が思想の科学研究会で戦後の「カストリ雑誌」を俎上に上げたように、セクシュアリティ研究における言説分析の対象はもっと広いジャンルに開かれなければならない。そのような意味で言えば、本書で取り上げられている事例は、「剥き出しの」欲望やその変容に迫る契機を提供していると言えるのではないだろうか。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: その他学問
感想投稿日 : 2010年10月12日
本棚登録日 : 2010年10月12日

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