心臓を貫かれて 下 (文春文庫 キ 9-2)

  • 文藝春秋 (1999年10月8日発売)
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感想 : 57
5

読み終えた時、本書の作者マイケル・ギルモアが考えていたことをふと想像してみたくなった。

時間の経過と共に崩れていくことが始めから決定されていたような家族に生まれ、父親の暴力が兄達に向かったおかげで偶然にも兄達ほど地獄を見ずに育ったことは不幸中の幸いでありつつ、(母や兄達と同じものを共有できなかったという意味では)疎外感を覚えるものだったと、本書上巻の初めのほうで筆者は述懐している。

一人また一人と悶えながら死んでいく家族達に対して彼が向ける感情は入り乱れ、錯綜したものだ。

例えば、一家の人間全てを荒廃に追いやった父親に対してですら、マイケルの感情は複雑だ。
自身が生まれるより前に家庭内で起こっていたことを思えば、そしてそのトラウマが次兄ゲイリーや三兄ゲイレンを死に追いやったことを思えば、父親フランク・シニアに対する憎しみは強いものになるかもしれない。

一方で、マイケルが知る往年の父は、少なくともマイケルに対しては愛情を注ぎ、全力で彼を守ろうとする頼もしい父親であったし、晩年には他の家族の振舞いに疲弊する弱り切った老人でしかなかった。

さらに、フランク・シニアが父親になるよりもずっと前のこと――あらゆる記録からブラックアウトされた彼の出自――を知るに及んで、感情がさらに複雑になっていったことだろう。

小説では相反する感情としてよく愛情と憎悪が挙げられるけれども、家族について書くこの人の文脈には、もっと生々しいものが渦巻いている。
どう整理したらよいのかわからなくなるほど様々な相矛盾する感情が入り乱れ、それらがめちゃくちゃに折り重なった末に出来上がった膿のようなものが、マイケル・ギルモアにこの作品を書かせているのだろう。

様々な方向で過多にならざるを得ない家族に対する感情は、彼に作品を書かせる一方で、別の絶望的な境地にも至らしめている。
《悲劇を繰り返さないためにも、自分達は決して家族を作ってはいけないのだ》という本書終盤で為されるマイケルの独白がそれに当たる。

気になって調べてみたところ、本書執筆後もずっと、マイケル・ギルモアは家庭を築こうとはしていないらしい。トラウマの深さを感じさせられるエピソードだ。

マイケルが抱え込み、ついに克服することが出来なかった感情の膿と同じようなものを、おそらくは彼の死んでいった家族達もまた抱え込んでいたのだろう。
次兄ゲイリーが、何の恨みもない人を二人も殺害し、その裁判の場で自らの銃殺刑を嘆願したのも、おそらく根は同じところにあるとマイケルは推測している。
上巻のレビューにも記したような”呪い(トラウマ)”が、彼ら一家の全員に取り憑いてしまっている。
その”呪い”は、元々は彼らが生まれるよりも前の時代に由来するもので、それが今では自分達の精神の一隅で暗い光芒を放っており、振り払うことができない。

もしもそうであるとしたら、じゃあどうすればいいのか――その結論が、ゲイリーの場合は破壊の末に処刑されることであり、マイケルの場合は記憶と記録の文章のほか何も残さず生を終えることなのだろう。

結局最後まで、彼ら一家は誰一人として何の救いも得られぬまま本書は終わる。
本書の結末は、あまりにも深くまで根差してしまったトラウマは、決してどういう形であれ浄化されることはないのだと、そう示しているように思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション系
感想投稿日 : 2016年8月15日
読了日 : -
本棚登録日 : 2016年8月14日

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