言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社 (2007年10月11日発売)
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感想 : 16
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<コード化された差異>としての表層言語と<コードなき差異>としての深層言語の間の往還運動こそが、ニヒリズムと狂気に囚われること無く、生活する世界を豊かに見出しながら生きていくために肝要である。というのが本書の主張を大雑把にまとめたものである。そうした主張を、言語学に精神分析学・現象学の知見を持ち込むことで展開している。
個人的に収穫だったのが、ラカンのpoint de capiton――<クッションの綴じ目>ないし<マットのつまみ>――についての記述であった。メルロ=ポンティがソシュール的な差異の体系のなかに本質的な絆を持ち込もうと画策し、いわばソシュール言語学のヴァージョンアップを図る瞬間ないしは、彼が<等価物の体系>と共に「スタイル」の獲得や「移調」を論じている場面で問題となるだろうと思っていたことについてラカンの用語で触れていたので大きな刺激を受けた。<クッションの綴じ目>の最小数(134)。
そうした表層言語の<クッションの綴じ目>は、深層言語における潜在的欲望とのズレによって常に緩められてしまう危険性に晒されている(丸山圭三郎は、言葉の機能として固定化された事物を性化してズラし続ける欲望の喚起を考えている。担ぎ出されるのはバタイユである)。このリスクを抑えこむことこそフロイトの考えた「抑圧」であって、抑圧され、深層言語のなかで漂うものを意識化して浄化するのが彼の後期の治療理論の核となっているのだった。
ソシュールとラカンの用語の違いについて。めんどくさいので引用。「用語こそ異なれ、ソシュールとラカンは同じ言語観に立っていた。言語=意識=身体の表層においては「シニフィアン(言葉)とシニフィエ(意味)は固く蝶番で結ばれていても、この留金は絶対的な自然に裏づけられたものではないから、いつ外れぬとも限らない」と考えるのがラカンだとすれば、「シーニュ(言葉)と指向対象:レフェランの結びつきや、シーニュ内の音のイメージと概念の結びつきは、いくら必然的様相を呈していても、歴史・社会的実践の惰性化の結果でしかないのだから、いつ外れてもおかしくない」と考えるのがソシュールである。 二人の思想家にとって、この恣意的必然の境界線や留金が外れているのが、言語=意識=身体の深層であり、言語芸術の創造の場であり、狂気の言葉とも共通する風景なのであった。 ラカンの<シニフィアン>とソシュールの<セーム>は、ともに指向対象や共同主観的な意味から切断されている。唯一の相違は、ソシュールが<セーム>と共起する不可分離の「シニフィアンとシニフィエ」を重視していた点であろう。つまり、ラカンの<シニフィアン>は意味をもたない音でしかないが、ソシュールの<セーム>は、表層言語の意味とは異なる、新しい意味を担っているのである。この虚構が持つ<意味>がどんなものであるか(=両義化・多義化・等価物の体系)…」(184f)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 思想
感想投稿日 : 2014年1月12日
読了日 : 2014年1月12日
本棚登録日 : 2014年1月12日

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