
彼らは本来生命が持つべき「柔軟性」を欠くからこそ可笑しなものと感じられる。この強張りが人間の感覚や知性を襲う場合、その人間は「放心」した人となり、この人物が周囲の者に笑いを呼ぶ。放心した人は、生活に必要な注意力が弛緩し、精神が強張ってしまったせいで失態を犯す。さらにこの強張りが性格へと固着いたのが、喜劇で描かれる人物である。
あとがきの(1)「笑い」要約より
上記は確かに、笑いの一つの形態だと思う。
が、本当に、強張りを、一種冷徹な知性で判断した場合にのみ、笑いがあるのか?と考えると、もっと笑いはバリエーションがあると思う。笑うことに苦みがあることはよく分かるし、笑いは悪意、攻撃性ももっているが、人の弱さを認めること、明るく前向きに肯定する面も持っていると思う。
また、あかちゃんや動物など、自分よりも弱いものを見たときの笑いなど、滑稽な中に親しみを感じているために生じるものは、知性の~というニュアンスとは違うのではないか?
またダジャレなどの言葉遊びや、風刺など、凝り固まった頭を開放して、新たな視点を示してくれた時、鬱屈した状態を切り開いてくれた時に感じるおかしみなどもあると思った。
これは、文中で「緊張の中の弛緩」と笑いの効果として説明されていたものと同質だと思うが、強張りを笑っているわけではないと思う。
- レビュー投稿日
- 2016年12月3日
- 読了日
- 2016年12月3日
- 本棚登録日
- 2016年10月29日
『笑い (ちくま学芸文庫)』のレビューへのコメント
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