探究(1) (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社 (1992年3月5日発売)
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 最近、研修のなかで聞いた話に「大きく分けて2種類の人間がいる」というものがある。すなわち、「イメージで物事を捉えるタイプ」と「理詰めで、文章的に、物事を捉えるタイプ」。当然、これらのタイプは互いに互いのことを「合わない」と感じる傾向があるようだが、決して「敵同士」ではない。「お互いを補完する形で協力しましょう」というのが結論であった。ちなみに、結婚生活を長引かせるコツも、タイプの違いを意識し、「許す気持ち」が大切なんだそうな(笑)。
 これ自体、考えてみたら簡単な話なのだけれど、僕にとっては目から鱗であった。つまるところ、僕自身にはこの程度の考えすら抜け落ちていたということである(25年間も!)。知らず知らずに「俺が俺が」になってしまったことは反省しなければならないし、実際この考えを聞いたとき、少し救われた気持ちになれた。その意味で、その研修には感謝をしているし、僕にとって忘れられない研修となるだろう。

 さて、『探求Ⅰ』である。柄谷さんは本書について「《他者》あるいは《外部》に関する探求である」としている。「第一章」の題に表れているとおり、本書の出発点は「他者とはなにか」ということなのだ。柄谷さんはウィトゲンシュタインの考えを踏襲する形で、「他者」を「共通の規則(コード)をもたない者」だと定義する。たとえば、「言葉を教える」ということで考えると、「他者」とは「教師―生徒」の間柄ではない。「私―外国人・子供」の間柄こそが「他者」である。従来、論じられてきた哲学にはこのような「他者」が欠落しているらしい。これを出発点に、柄谷さんによる「《他者》あるいは《外部》」論が炸裂することとなる。

 ところで、そのような高尚な論を捕まえて大変失礼な展開をするが、これは冒頭で述べた(俗なる)結婚生活論ともつながってくるのではないだろうか。「タイプの違い」とは、ある意味では「規則(コード)」の違いということもできる。もちろん、「共通する規則(コード)」を多分に持つ夫婦関係は、厳密にいえば柄谷さんのいう「他者」には該当しない。しかし、「私―外国人・子供」にも多からぬ「共通する規則(コード)」があるだろうこと――それは「人を殺してはいけない」という倫理観などである――を考えると、結局はその割合の問題であって、多かれ少なかれAとBとの関係には「他者性」が含まれていると考えることができる。もっとも、柄谷さんは「私―外国人・子供」の関係と夫婦関係とを、「向かい合わせ」の関係と「隣り合わせ」の関係という言葉を使って、区別しているのであるが。
 いずれにせよ、本書にある「他者」論は「向かい合わせ」の関係にのみ応用の効く理論ではない。「隣り合わせ」の関係にだって転用は可能であろう。その意味では、本書を使って、俗なコミュニケーション論を構成することも可能である。いわば、実生活への応用が容易な一冊と捉えることもできるということである。いわゆる「実学」的な要素を多分に孕んでいる。


【目次】
第一章 他者とはなにか
第二章 話す主体
第三章 命がけの飛躍
第四章 世界の境界
第五章 他者と分裂病
第六章 売る立場
第七章 蓄積と信用――他者からの逃走
第八章 教えることと語ること
第九章 家族的類似性
第十章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
第十一章 無限としての他者
第十二章 対話とイロニー
あとがき
「学術文庫版」へのあとがき
危機の探求者――『探求Ⅰ』を読む―― 野家啓一

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2012年11月25日
読了日 : 2012年11月25日
本棚登録日 : 2012年11月25日

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