清岡卓行的小説。すなわち、長大な散文詩との違いが見極められない。
意識の織目をゆっくりと観察してゆく。

カテゴリ 物語・小説

先鋭をこころざした貪欲な青年詩人が、巧妙な技術を獲得し、時間への不可避な後悔を経験して、「硬質の抒情」詩人へと変容して行く様があらわれている。

カテゴリ 詩・詩論

写真にまつわる随想。
「それは=かつて=あった」物の写実としての写真を論じるバルトは、ここでは批評の姿勢をとらない。彼は一人の抒情の人として危うく懐古へと傾こうとする。そこにはこの昔の思想家のたどった小さな人生がある。
「写真を見るときには、あのときに被写体から放射された光線と、そのときに発射される私の視線とが出会う」と語るのは、やはりバルトである。
バルトの好ましくやさしい人柄が表れている。

体験選択という概念を提唱している本。
さまざまな社会学者の説を引用して裏書きしていた。

親しみやすくて愉快な丸谷才一的長編小説

カテゴリ 物語・小説

読み方にバリエーションが大きいと思います。読み手の受け取り方を、とても上手に予測できているので、読んでいて気分が良い。
いわゆるポストモダンの言説なんでしょうが、信頼のおける文体と内容を持ったいい本だと思います。
箴言のような警句のようなものが割と頻発するのも良いです。死んだ者から生きたものは離れているが、その距離は想像よりずっと短い、とか。
けっこう好きです。

できる人の文章を読むのは本当に気分が良いです。矢野さんのことです。
他の本も読んでみます。

初めの方は面白かった。
読んでから少し日がたっているのでよくは覚えていませんが、たしかことばとしての青年の歴史をざっと見たあと、近代の青年小説を日本のものを中心に観察するという筋立てだったような。

家庭の不幸を写実した映画。
ひとつの家庭は、そのままひとつの不幸を意味するという当然のことを再確認させる映画です。
ある労働者の一家があり、父・母・姉・兄・主人公の少年という構成になっています。鉄道の運転士である父の不幸なミスから、それまで隠されていた構成員それぞれの鬱屈が噴き出し始めます。
家庭には受け止められることのない視線が飛び交いはじめ、構成員は膨れ上がった感情の切れ端を末っ子である主人公に背負わせます。
感情の切れ端の掃き溜めとなった子どもは、わかる必要のないことをわかろうとし始め、知らなくていいことを知ろうとし始め、とる必要のない年をとります。
重要なことは、家庭はそのまま不幸を意味するということです。不幸は注意していない場所に埃のように存在しています。不幸の埃が堆積して家庭内の構成員の窒息を招いたときに、彼らはその不幸であったことに気づくのです。この映画は写実的でありながら同時に説明的に、その「認識」が重要であることを観客に知らせます。

個人的な好みをいうと、もっと説明を省いたものの方が性質に合います。

しっかりとした「ドイツの小説」を読んだ、という気がします。
ひとりの男が過去から現在へ流れてきた自分の「跡」を見つめるときに、ある地点で交差した別の軌道が見出されます。必然的に歴史の大きくて速い流れに流されて、一致することのなかった他人の軌道をたどる。それは小説のひとつの有効な方法です。
ひとつの大きな歴史の激流が途絶えたように見えたときに、実はその傍流が自分たちの足元を暗渠としてひたひたと侵し続けていることを自覚させられる瞬間の描写。は とせざるを得ないようなその瞬間において、意識は自らの過去を、まるで現在に在るもののように錯覚させ、主人公の意識を混乱させます。
主人公の男は結局救われもせず、そして救われたいと願うような地点もとうに過ぎさり、そして昔から定められた通りに、自らの「跡」は見えなくなっていきます。

カテゴリ 物語・小説

老境にはいろうとする年齢にある大学教授が、その生涯において何度目かの、そしてたぶん最後の惑いを経験するという話。
と書くと、自然主義的な無残な話かと思うかもしれませんが、そうではなく、そこには現代的な軽妙さ、穏やかな客観性、そして清い冷たさを底においた文体があります。
著者清岡卓行氏は本業である詩文においても、また他の随想や評論においても、「穏やかな客観性」を常に底流させます。そこにある現代的な冷たさのなかで描かれるこの物語のそこかしこに、物の象徴としての薔薇や、写実としての薔薇、さらに観念や状況を託する薔薇が頻繁に姿をあらわします。第一級の美文家だとおもいます。

カテゴリ 物語・小説

心臓がドキドキする系の絶品。読んでいて実際に激しい動悸がおさまらなくなるときがありました。
鋭い人間一般への洞察を、あくまでも現実に繋がった形であらわした随想集です。あくまでも、何がなんでも人間に執着する姿勢は、執念といってもいいような大きな感情を感じさせます。
著者の人生観は、底に深い諦念をおき、そうでありながら決して悲観的なものではありません。穏やかな諦めの上には、人生のところどころにあらわれる美との感応への明るい称賛があります。美との感応こそが善への通路の入り口であり、そこにおいて人生は楽しまれるのですね、と感じました。この内容で560円(税別)とは、あまりにも安すぎるので大幅に値上げしてもかまわないな、とも感じました。

つまらない、下品な文章が載っている、どうだっていい本。 
はじめの数ページを読んで、これ以降読んでも不快な気分が大きくなるだけだ、と判断し、放棄しました。

一級品です。超面白かった。
林達夫がいろいろな時代に、いろいろな場所でのこした芸術論をあつめたもの。
22歳の一高時代に書いたものもあれば、評論家として名をなした壮年のものもあります。そのせいで、というかそのおかげで、この稀代の評論家にも「発達過程」というものがおありになったんだな、と感じられ、そこもまた良い。
たとえば一高時代に投稿した論文『歌舞伎劇に関するある考察』においては次のような記述がある。
<<われわれの血管を流れている血液のなかには耽美的傾向がある。悪魔的傾向がある。淫心がある。すべての犯罪への素質すらもある。機縁に触るれば、われわれはわれわれの生活の一つの態度として、美的生活を生きることも出来れば、頽廃的生活を生きることも出来る。(中略)そしてわれわれの道義的生活、第一義の意志的生活は(略)>>
こんな前のめりの意志に溢れた若い論文もある。ここで林は歌舞伎劇がうまれた時代の土壌について、ほとんど同年代の僕が見たくなくなるような鋭い閃きをみせているが、60歳を超えたときに書いた別の論文ではまた違った顔を見せる。
<<わたくしは自分の不得手をあれこれと矯めているうちに何もできずに生涯のたそがれに来てしまったようなウカツな手合いの一人なのである。>>『一高時代の友だち』より
このふたつの引用において、同じ語が違った表記でなされていることに気がつく。「できる」を前者では「出来る」と表記しているが、後者で漢字を使っていない。
この違いにはおおきな意味があると思う。
年齢の違いによる表記の違いという意味もあるし、文章の目指す性質からくる違いもあろう。でも前者だと思ったほうが楽しめると思いました。
論壇のエースの若さあふれる卵時代も見れちゃうお得な本。

あ、「○○監督の生涯最高傑作」というやつだ、とかんじました。あまり悪い意味でなく。少し悪い意味で。

まず、戦争にまつわった話なので、スケールが大きくなります。
この監督の監督したものを全部観たわけじゃないので大きなことは言えませんが、スケールの大きな題材をうまく扱うことよりは、
低いところからの、鋭い現実的描写、すなわちスケールが大きくないけどかなり面白い作品、というものが多かったような気がします。

そのような監督にとって戦争の扱いは相当いろいろ考えたんじゃないか。どうしてもスケールが大きくなってしまって、
顕微鏡で人間の内部を覗き見るような手法はつかいにくくなってしまうから。

ヴィットーリオ・デ・シーカの最高傑作は?
という問いには現時点でこの作品を挙げますが、他にも面白い作品がたくさんあると思うし、もしかしたらそれらのほうが面白いかも知れません。

アメリカの影
フェイシズ
こわれゆく女
チャイニーズ・ブッキーを殺した男
オープニング・ナイト
の五つのカサヴェテスが撮ったフィルムと、
Anything For John
というドキュメンタリー・フィルムを収録。

・アメリカの影
内容憶えてないです。あまり面白くなかったということでしょう。
・フェイセズ
これはCMですね。映画という長い収録時間を持っているが、アメリカ的生活、アメリカ的文体、アメリカ的な話し言葉、アメリカ的表情のコマーシャル・メッセージ=喧伝だとかんじました。
薄暗いカフェで、なにもかも了解してしまった顔をして疲れたようなポーズをとるひとたちの歪んだ口の上で話題にされそうな映画です。

ヨーロッパ社交界が夕陽を見ている時代の、ヨーロッパ社交界に含まれている男にまつわる物語。

映像は、非常に衝撃的にスタートする。
イタリアの市街上空をヘリコプターに吊るされたキリストの巨像が、国見を行っているようにしか見られない格好で飛び渡って行く映像。こんな恐ろしくキャッチーな映像で始まってしまったら、そこでもう傑作だとわかってしまうので以降注意して見ざるを得ません。
歴史と文脈が溢れだしている爛熟のヨーロッパ社交界にデヴューする、高慢で無知で美しいアメリカ女シルヴィア。
シルヴィアの社交界への唐突な闖入は社交にまつわる作法への信用によりかかって生きる社交界周辺の人間たちにとって脅威のはずなのだが、そのような風は見せず、歴史と文脈の作法にしたがって社交を開始する。
新世界からのシルヴィアに接近する旧世界の主人公が、ローマのトレヴィの泉にて彼女に「君は何者なんだ?」と尋ね、そこでスクリーンから音声がなくなるシーンは象徴的である。その質問への答えはもちろん、空白の新世界からの者である、とのことであろう。文脈の苦しみから解放されている白痴のエイリアン=シルヴィアの存在は、この映画を図抜けて魅力的なものにしている。





・・・と、三分の一の位置まで観たところで上の文章を書いたんですが、続けて以降を観ると、
え・・・、ぜーんぜん面白くない・・・。冗長で、無意味。
初めの三分の一がとんでもなく面白く、残りは、残りってかんじの残念さ。残念です・・・。あーあ。

バルトのデビュー芸術論集。<エクリチュール>を、多様な分野におけるものとして論じた。
大体において読みやすいが、ぽつぽつと疲れる表現があり、そこは再読、再再読しました。
目次がけっこう垂涎ものなので示してみます。


Ⅰ エクリチュールとはなにか
   政治的なエクリチュール←面白いです
   小説のエクリチュール
   詩的エクリチュールは存在するか
Ⅱ  ブルジョア的エクリチュールの勝利と破綻
    文体の職人
    エクリチュールと革命 
    エクリチュールと沈黙←超面白いです
    エクリチュールと言葉
    言語のユートピア

まあ、この<エクリチュール>ってなんだ、という話になるんですが、”Ⅰ”の初めの章で不親切に説明されています。すっとばして省略すると<言語>、<文体>がそれぞれ、「自然のもの」、「作家の身体と過去から生まれる所与のもの」であって絶対的であるのにたいして、<エクリチュール>とは<言語>と<文体>とのあいだに存在する「個性」である、とのこと。
それは作家が選択するもの、あるいは選択せざるをえないものであり、その行為性が重要、面白いとかんじた。

その後の諸章では、エクリチュールは行為性を持つので、種種の政治体制、諸時代、派閥など、共通性を持つものたちにおいてみられる、と。こう書くとかんたんなはなしのようですが、バルトは懇切丁寧に、段階的にエクリチュールの概念を説明しようとしていて、そして少し破裂的な説明なので、”Ⅰ”の部は読みにくい箇所があります。

”Ⅱ”部の「エクリチュールと沈黙」においては僕が好きなはなしである歴史からの疎外が扱われているので気に入りました。
そこで示される<白いエクリチュール>が本のタイトルの<零度のエクリチュール>のことなんですが、ここでの「白い」とは極性を持たない中性的なものだということです。「個性」であるエクリチュールが無極性であることなど可能かという試論がなされていて、その箇所が超面白い。

まあそんな感じに面白く、文章の表現もわりと楽しい本です。断章の集まりであり、それぞれが試論段階な気がしたけど、楽しく読める良い本でした。
   

2010年1月4日

読書状況 読み終わった [2010年1月4日]

二回目の鑑賞。一年半ぶりで、今回は年をまたいで観ました。
前回よりは情報の受け取りかたが豊かになったり、受け取り量が増えたりしたようで楽しく観られました。
いわゆる倦怠期に入った夫婦が別荘購入の見極めのため、南伊に旅行する。妻は夫のことを傲慢で無知で冷酷な人物であると憎んでいる。といってもそれは不定期的に訪れる感情の昂りのあらわれ。夫の方はそのように不安定な妻をどう扱っていいのかわからずそわそわしているようだ。
この付いたり離れたりする二人の背景に、埃っぽい南伊の砂岩と現地の人間の生活が交差し、なんともいえず言葉を失うような大時代的雰囲気があらわれる。
それにはこの映画がモノクロームであることが大きく作用している。イタリアを最も趣深く映す手段はモノクロームの手法ではないか。そこには白と黒と黒の濃淡しかなく、自然と白色の際立った新しさが立ち上がる。

拒否する色。受け入れない色。人の瞳を焼いてしまうその眩しさ。
その白と灰色のような黒色の微妙に厳しい映像。
この映画は映像作品であってストーリーを追うものではないのかな、と感じた。(ストーリーは、単に陳腐です。つまり大時代的で、信用がおけないし、心を託することもできません。)

2010年1月1日

読書状況 観終わった [2010年1月1日]

何度目かの鑑賞。
この前の鑑賞では、中盤、マリアンヌとフェルディナンの主人公二人がオープンカーを盗んで、走行中、突然彼がハンドルを切って海岸砂浜を横切り海に突っ込むところで見るのをやめたが、今回もそうでした。今はそのシーン以降のフランス語音声が流れている中このレヴューを書いているわけですが、そのシーンまでで一つの大きな区切が見られるのはなぜか、を書いてみましょう。
この映画はたぶん周知の通り、歴史からの逃亡、または歴史からの逃亡の失敗を描いたものでしょう。社交界に入るよう定められ出生した男がその虚無、退廃から逃れて、「本当の人生」を実現しに女を誘います。彼らは初めから無理と知りながら、歴史から自分たちを疎外しはじめる。
自動車というパーソナルな閉鎖空間(結局歴史が入り込んでこれないほどの堅固な空間とは自動車内部ほどの広さしか確保できないのでしょう。)が海に突っ込んで沈み始め、そこからさっと脱け出る先のシーンは、その逃避行の終演を意味します。終演だから、この映画が半分くらいの上演時間のため制作されたのであったとしたら、先のシーンこそフィナーレにふさわしいものでしょう。
先のシーン以降は意図的にダラダラとしたシーンが続き、彼らは一旦遠ざけた歴史を回復するための<余生>を開始し、そして勿論二人だけで歴史を作成することなど不可能ですからラストシーンのような結末を迎えます。
初めから破滅が見えている面白い映画なのでお勧めです。

2009年12月29日

読書状況 観終わった [2009年12月29日]

仕事道具を仕事中に盗られた男が仕事道具を捜してローマ中を駆け回る話。二年ぶりの仕事を得た男、埃と石のそわそわした街ローマ、街中のそれぞれ少しずつ可笑しくて少しずつ哀しい人間たち。ペンキ塗り仕事の制帽、シャボン玉をふきながら歩く男、蚤の市、雨宿り、盗品、生活。
二十世紀前半の香り(臭い?)を遺す街は、人間にとってあまりに乾燥がキツく、なにがしかの水蒸気がなければ、みな石化したり塵になって散逸してしまいそうである。そのような乾燥の苦しみのなかで生活するローマの人々。時代も気候も制度も違う国に生きる僕はなにがしかの水蒸気を得ているだろうか、もしかしてこの地点においては乾燥を逃れる水蒸気など、とうに必要とされてないのかも。なにがしかの考えを観客に残す映画です。

2009年12月28日

読書状況 観終わった [2009年12月28日]

靴みがきの少年ふたりがいる。知らぬまに犯罪の最末端として機能している。ふたりは警察に捕まり、少年院に入る。
その中で不幸としか言いようのないすれ違い、勘違いからふたりは憎しみあうようになり、悲惨なラストを迎える。
全体を通して救われないお話であり低調な映画と言えましょうが、単調ではありません。その救い難い最末端に澱んでしまった人たち、すなわち少年院の内部の者ら。その者らの声にもならないような絶望、諦念、憎悪、倦怠をまざまざと「見せつけられる」、ネオリアリスモの傑作。

2009年12月28日

読書状況 観終わった [2009年12月28日]

収められている詩、散文のうち一割はとても気に入り、3割はわりと気に入り、残りはあまり好きでありません。
とても気に入ったものは、抒情的・生活的な雰囲気、臭いを漂わせるもの。たとえば、『俳諧辻詩集』からの作品など素晴らしい。たとえば作品<床屋>では、

床屋出てさてこれからの師走かな

という既存の俳句にまつわった詩を書いている。それが下町の一年の〆を感じさせて、とても良い。

あまり好きでないものがわりと多くある理由は、すこしく修辞が勝ちすぎている傾向があるからです。すなわち、詩のもつ趣に比べ、修辞が過剰で、疲れる。構成よりも修辞に重きを置いたせいで修辞のパッチワークのようなものになってしまっているものがあり、それは好きでありませんでした。
しかしひらがなだけの作品<宿題>のような素晴らしい修辞と構成の妙が見られるものもあるので、腕は確かだと思います。ブレなく創出するタイプの人でないだけでしょう。作品<宿題>は、老年の男性が、遠くない未来に失われる自分の過去を見つめて、執着しようとしたり、遠ざけようとしたり、それでもなお過去を慈しむ詩趣が感じられ、とても良い。
作品論・詩人論において引かれている、辻の作品<あしかの檻>においてあらわれる あしか は金子光晴の作品<おっとせい>においてあらわれる おっとせい との比較で倍楽しまれるでしょう。

2009年12月28日

読書状況 読み終わった [2009年12月28日]
カテゴリ 詩・詩論

随想集。
まず引用
<<私の日常の意識では、日本語は外在すると同時に自分に内在し、それら二つの実体の無数の積極的な形の交わりが個人生活、家庭生活、社会などを大きく支えている。しかし、詩作の意識では事情が異る。まず、完璧な消極性というか、沈黙が必要なのだ。自分は日本語をすべて潜在させる沈黙の存在となり、外在する日本語の総体は辞書に象徴される解体の果ての沈黙の存在となる。これら二つの沈黙の共鳴のあいだに、母国語であるために友愛的な、あるいはエロチックな最初の火花が散るとき、詩作は開始される。ある意味では、その辞書が詩を隠しており、いま述べた沈黙の共鳴を通じて、詩人がそれを発見する。>>「詩を隠している辞書という世界」より

詩人に、自身の性質としての硬質の詩人と軟質の詩人が分類されるとすれば清岡卓行は後者であるが、その詩文の核、あるいは詩文の発する閃きは清冽な硬質の性質をもつ。そのような彼の詩作論として、この引用は興味深い。彼は自己と語を対等に沈黙な存在として空間に定置し、ひっそりと両者の「共鳴」を待つのである。その鋭い共鳴こそがこの詩人の核である慎み深さと清冽さを両立させる。
引用のような詩作論の他にも、深い洞察のかんじられる随筆などを収めた、大変な好著。

2009年12月22日

読書状況 読み終わった [2009年12月22日]
カテゴリ 詩・詩論
ツイートする