戦争中にASTPで日本語を学んだというドナルド・キーンが書いたということで、興味を持った。彼が直接日本語を書いたわけではないが(そこが惜しいところ)、内容が非常におもしろい。
「日記」に対して文学的価値を置くのが世界的にまれだということを知った。
そもそも、そうだよな。日記って誰かに読まれたいものではなく、個人的な備忘録としての機能を果たすためのものだよな、と思った。しかし、彼はそこに鋭い視点を投げかけ、誰かに読まれることを(読まれたいことを)前提として書いているというのだ。
しかも、「日記」に着色はないから、実は「事実」とされていることが嘘で、「日記」の方が真実という、逆転の現象がおきうるのだ。
そんなこと今まで考えてもみなかったな。
「鎌倉時代」さしかかるところでストップ。
追記*蜻蛉物語がおもしろい。
以下抜粋。この世に自分より深く苦しんだものは誰ひとりいないと確信し、読者にも、自分の不幸をたっぷりと味わわせようと、彼女は心に決めていたのである。(P35)
この作品は、全篇が作者の悲しみの記述で彩られている。二、三の学者は、なるほど彼女は我が身の不幸せをかこってばかりいた。しかし、本当は幸せだったのではなかろうかと言っている。ある意味では、これは正しい。兼家が最も疎遠であった時期でさえ、彼からの物質的援助が途絶えたことはなかったし、他の多くとの情事はあっても、兼家は彼女を忘れたことはなかったのである。夫の新しい情事の旅に、彼女は憤っている。だが彼女自信が兼家の第二の妻となった時に、彼女がわが身だけにふりかかった苦難と思っているのと、まさに同じ苦しみを、兼家の第一の妻も経験したはずである。ところが、作者はそこのこところには、一向に思いが及ばなかったようである。
- 感想投稿日 : 2011年11月4日
- 本棚登録日 : 2011年9月3日
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