平田オリザ氏と井上ひさし氏。この二人が話し言葉について語るとなれば、面白くない筈がありません。
この対談は、戯曲の専門誌「せりふの時代」にて、6年間に亘り断続的に連載されたのださうです。ううむ、そんな雑誌があつたとは、迂闊にも知りませんでした。何しろ本屋の店頭でも見たことがないもので。都会の大書店にはあるのでせうがね。1996年創刊ださうで、その時分は、わたくしはまだ本屋に勤めてゐたのに、恥づかしいことであるなあ。
で、今調べたら2010年に休刊となつたさうで、これまた残念な話であります。ちよつと前衛的すぎたのか。
この二人が「話し言葉」について語るとなると、やはりそれは戯曲のせりふが中心になります。全部で13のパートに分かれ、それぞれ興味深いテエマについて縦横に論じてをります。
たとへば方言と標準語の問題(空疎で観念的なせりふは標準語になりがち)。たとへば主語・述語と助詞・助動詞の関係(日本語の会話は主語がなくても、助詞・助動詞のお陰で文意が通じる)。或は流行語について、敬語について、対話について...さすがに示唆に富む内容となつてゐます。
最近足が遠のいてゐる観劇ですが、今後はもつと行つてみませうかと思はせます。言葉の問題は結局生き方の問題に行きつくことも再発見。井上ひさし氏が次のやうに語つてをります。
「人生というのは九割九分までつらいことの連続だというのが、僕の世界観です」「でも、その九割九分、つらい人生のなかで、そのなかにひとつでも希望があればそれにすがって生きることができるんですね。僕の場合で言えば、小説や戯曲を書くという「希望をつくる」仕事につき、死ぬまでその仕事を続けたいというのが、まさに、僕のささやかな希望ですから、これから先も生きていけるわけです」(「12 生きる希望が「何を書くか」の原点」より)
わたくしとしては、この言葉を聞いただけで、本書を開いた意味があつたと思へる、勇気を貰へる発言でした。
かういふ人達の書くせりふが、一流の役者を通じて舞台で語られるのだから、眼前で鑑賞する自分が圧倒させられるのは当然なのでせう。
我我はまだまだ美味しい果実を味はひ尽くしてゐない。それどころか、残された時間を思へば、自分が味はへるのは、そのごく一部のまた一部なのだと思ひ知らされる一冊と申せませう。
ぢやあまた、今回はこれにてご無礼します。
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- 感想投稿日 : 2015年1月23日
- 読了日 : 2015年1月23日
- 本棚登録日 : 2015年1月23日
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