小林秀雄の文章を読むといつも思うことがある。
この人の人間と向き合う異次元なまでの執念はどこから生まれるのだろうと。
ある境涯と人格を生きた人間の内面に迫る、その執拗さに毎回のことながら圧倒される。
一枚の絵を前にしているとき、一冊の書簡を前にしているとき、この人は一体どんな思考を巡らせているのだろう?ただ単純に感じ考えているだけとは思えない。全身を賭した何か尋常ではない営為のように思われる。その根源的なモチベーションがなんなのか、それが私は知りたい。教えてほしい。
"自己を知るとは学術ではない。寧ろそれは一種の芸術だ。なんと当り前のことだろうか"
"自己観察の型は、他人を観察する型と同じである外はない"
"自己発見は、無論、芸術家の特権ではないのだが、もし本当にそれが行われるなら、それは芸術家風に行われざるを得ない"
そう述べる小林秀雄は、やはり自己とも徹底的に向き合ったであろう。
私は批評に興味はないが、自己と向き合うということには大変興味がある。本当に自己と向き合おうとするとき、自己に対して批評家的態度を取ることは避けられないのだとする。そうだとして、批評という行為を自己に向けることは、躊躇われるような冷たい行為ではないのかもしれない。自らにナイフを突きつけることでは全然ないのかもしれない。この本を読んでそう感じた。もっと沈潜することであり、それはおそらく、その人だけの、その人特有の果実をもたらすことができる、特別な行為なのである。
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- 感想投稿日 : 2025年3月31日
- 読了日 : 2025年3月30日
- 本棚登録日 : 2025年3月9日
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