一度きりの大泉の話

著者 :
  • 河出書房新社 (2021年4月21日発売)
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感想 : 118
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「大泉」の死によせて、竹宮惠子は壮麗な墓へ美しい花を手向けるように語るけれど、萩尾望都はいまだ埋葬も叶わぬその死体と暮らしていると悲痛に告げる。

わたしは10代からの萩尾望都の大ファンであるけれども彼女たちが少女漫画雑誌の表紙を飾っていたころの世代ではない後追いファンで、『一度きりの大泉の話』の読後、補論として『少年の名はジルベール』を読んでいる。竹宮惠子の作品をきちんと読むのは今回が初めてで、この本によってようやく少し彼女を知っただけの読者であるので、竹宮漫画について語るつもりはないというか、語れるほどの知識をもたないとまず前置きしておく。

『少年の名はジルベール』非常に整然とした面白い回顧録だった。「頭がよくそつのない何でもできる人」という著者への評価が腑に落ちる。

『一度きりの大泉の話』の読後はうめき声のような感想しか出てこなかったけれど、『少年の名はジルベール』を読むとずいぶんと整理された感想が湧いてきた。
読んだ順番と『少年の名はジルベール』は竹宮惠子が満を持して…というか、望んで構成した自伝であり『一度きりの大泉の話』は周りの雑音に執筆活動を阻害されてやむにやまれずしぼり出した拒絶の言葉という経緯も大きいだろうけれど、おふたりの思考タイプの違いが表れているように思う。整理されていないものを整理されないまましかし克明に描くという萩尾望都の思考にぶん回されるとこちらの言葉が整理されるのにとても時間がかかるのだ。

竹宮惠子は革命を叫ぶ熱っぽい社会情勢を肌のむこうに感じ、時代の風を受け止めて戦略をもって展開してゆく表現者だったのだろう。変革なくば叶わぬ自己表現のために少女漫画界に立ち向かった若い女性の話としても非常に興味深かった。
エネルギッシュで理知的な彼女の自画像は萩尾望都による竹宮惠子像とほぼ重なっている。

対して、萩尾望都の評価はどうだろう。革命を必要としない表現者として淡々と実直にひたむきに漫画を描く。そして小学館の山本順也氏が「どんなものを描いてきても萩尾は必ず載せる」とその作家性を強く信じ守っていたことに対して竹宮惠子は羨望を寄せる。そのいっぽうで、萩尾望都はわたしなぞいつ打ち切られるかわからない巻末作家であるとなんだかやたら低く自分を理解している。
萩尾望都は編集部の低評価、山本氏の「お前なんかもういらねえよ」という言葉だけ覚えているようだし、その時の反応からも山本氏は必ず載せるなんてことは言ってなかったようだけれど、なんで言ってなかったんだ?時代?信じがたい意思疎通の杜撰さである。「いらねえよ」も大いに謎だけど、雑誌の支柱のひとつである作家にそれを伝えていなかったことのほうが謎だ。

大泉の同居時代を経て、竹宮惠子は自分の漫画をすでに確かな作家性をもち革新的な表現手法を次々と開拓してゆく萩尾や大島弓子と比べて「古臭い」手法にとどまっていると感じて苦しみ、その焦りを理解しない(おそらく想像だにしない)ことでさらに竹宮の焦燥を煽る萩尾の近くにいることに耐えきれず、別離を切り出す。

萩尾望都は唐突に別離を告げられたことで大切な友人を傷つけていたと理解し、苦しむ。そしてその苦しみは今も続いていると悲痛に告白する。思い出すだけで執筆活動に支障が出るほどに、まだ苦しい。語れることは全て語ってやるから今後一切思い出させることはせず放っておいてくれと、まるまる一冊を費やして訴える。

実のところこの2人の間には増山法恵というのちの竹宮惠子のブレーン(竹宮漫画を知らないのでこの理解は不適当かもしれない)とおぼしき人物がいるのだけれども、萩尾ファンの自分には萩尾望都が「かつての友人のひとり」とだけ描写しているためにさして言及する必要性を感じないので、脇に措く。萩尾竹宮を「研究」したい人には重要人物かもね?しらんけど。

萩尾望都は竹宮惠子から拒絶を示されたあと心身に強いストレス症状が出たことについて、自分が生み出した大切な漫画が友人を傷つけていたことによるショックだと説明しているけれど、もうひとつ、盗作疑惑を向けられたことも大きな要因であることを疑うのは難しい。
『一度きりの大泉の話』はエピソードごとに視座を定めず語られるけれど、ここでは視座を主観にぴたりと据えて盗作を疑われることへの怒りが滔滔と綴られる。それまでの穏やかな語り口と一変した激しい怒り。当然だ。誠実に漫画を描いてきた人にとってそれ以上の侮辱、存在否定はありえないのだから。
けれど、その怒りは直接に盗作への疑いをほのめかしてきた竹宮惠子とあくまで切り離されており、表現者として湧き出る何よりの怒りを自分が傷つけた友人には決して向けられない心情が窺える。そのやるかたない怒りは萩尾望都の手元に留まり大きな傷をつけ続けただろう。永久凍土に埋めるしかなかった、というのはそういうことではないか。恩人とすら言える友人を自分のいちばん大切な、人生を賭けて大切に生み出してきた漫画で傷つけたというショックと人生を賭けて大切に生み出してきた漫画を侮辱されるショックが両輪で襲い掛かり、漫画を描く限り傷つき続ける自分。そりゃあ、凍らせでもしない限り、漫画家としてありつづけることはできないだろう。
その後、萩尾望都が大切な友人たちへの愛着を捨てられず、自分は漫画を描いてはいけないのだろうか、描くのをやめようかと悩む場面には悲鳴を上げたくなった。その苦しさに打ちのめされたとしても描き続けるのが後追いファンが結果論から見た萩尾望都ではあるけれど、当時リアルタイムで萩尾漫画を支持し、『ポーの一族』の単行本を買い、その情熱を伝えた読者の方々に感謝するしかない。数々の名作がこの世になかったかもしれないという想像はぞっとする。精霊狩りの続編がお蔵入りしてしまっただけでも悲しいのに。
永久凍土を見出してくれてほんとうによかった。ここでわたしは萩尾漫画ファンとしての立場が決まる。このことは二度と永久凍土から出してはならない。萩尾望都がいまでもそこに触れると描けなくなるという以上、決して。

それにしても、凍らせていたものを解凍しているという注釈で語られる記憶があまりにも鮮明なことに驚く。まさに凍らせていたのだ。解ければとろりと開く傷口。1973年、およそ50年前の傷。

『一度きりの大泉の話』は多大な努力を投じた痛切な悲鳴であったが、70歳を過ぎてなお20代のできごとをあのようになまなましく拒絶できるということが萩尾望都がいまだ枯れぬ表現者であることを表しているようだ。いまさらだけどバケモンみたいな人だな。
山本順也、木原敏江が編集者と作家それぞれの立場からただでさえ表現者2人が同居なんてと否定しているうえに、萩尾望都は作家性が強すぎる。そりゃあ、これから自分の表現を確立しようとしている作家が同居していいわけがない。

なんで同居してしまったんだろう。萩尾望都はそれが平気だったようだから彼女ひとりの立場からは間違いだったとは言えないけど、竹宮惠子にとっては誤った選択で、つまり竹宮・増山と友人であり続けたかったと願った萩尾望都だってそこを見誤って同じく失敗したのだ。まさに人間関係失敗談。学生ノリが続いていたのかな。当時まだ少ない漫画好きで、知識意欲のゆたかな同志。女の子同士。インスピレーションを交わせる関係。近付いちゃうよな。そりゃあな。同居していいわけがないけれど、友人を得て興奮していた女性たちが同居を選んだのも無理ないよな。

ただ、竹宮惠子は萩尾望都に近付きすぎたことによって苦しんだけれど、『少年の名はジルベール』でその思い出を思い出としてすっきりと描いている。
担当編集者よりも山本順也氏に対する信頼が厚かったことを前置きした上で、終節に差し込まれた「山本さん、私の作品、本当は嫌いなんでしょう」という言葉。その裏に、萩尾さんの作品は好きなのに。と続く言葉が見える。救われることを拒絶しながら救命を求める言葉。その場では山本氏は口ごもり、竹宮惠子の自傷が止められることはなかった。
けれどその直後、山本氏は単行本化に関する竹宮の要求を通すよう小学館社長に働きかけ、それは第三者を通して竹宮本人に知らされる。というか単行本化に関して要望が通ったなんて知らされなくてもわかることだ。つまり、山本氏により竹宮惠子の表現が尊重されるという手段でその傷は手当をうけた。
それが彼女に「大泉」の埋葬を可能にしたのだろうか。というのはとても断片的な情報から得た想像でしかないけれど。

対して、いまだ死体と暮らす萩尾望都は「大泉サロン」に対して幻想や憶測を許さないために筆を尽くした。萩尾望都と竹宮惠子、その存在が物語になってしまっているふたりの関係について、少なくとも萩尾望都にとっては「大泉サロン」「24年組」という物語など存在しないこと、自分を伝説の登場人物として消費するのは許さないという断固とした姿勢を示している。

一方で未だ開いたままの傷口を他方で美しい思い出として語ることは対比すればグロテスクである。けれど、そのような単純な帰結を見出すのも物語的消費であることだろう。

少なくともそれは許さないと示されたファンとしては、『一度きりの大泉の話』『少年の名はジルベール』の2冊を並べて人と人とのあいだの距離に思いを馳せるにとどめておこうと思う。



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↓ここから読了直後に書いたうめき声的感想

精霊狩りでカチュカのテレパシーが読んだ「メメが痛い メメが」って、これかあ。
後追いファンゆえにほとんど無知であったことが整理された。ときに語り口が軽妙で笑ってしまうんだけれど唐突に「私は死体と暮らしている」なぞというフレーズが出てくるところがとても萩尾望都。

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2021.4.28

蛇足ですけども何か見て叫びたくなったやつ

ただし、とどめておこう、と思えるのも、何も大人の分別ではなくて、わたしは厳密に言うと萩尾望都の描いた漫画の大ファンであり、萩尾望都という人物自身にはその創造主として幸いあれと願う程度の感情しか持たず、何者にも邪魔されず意欲の湧く限り漫画を描いてほしいというエゴイズム(という言葉をここで使うのは露悪的でなんかいやだけど)(確実にエゴだけどただの読者なんだからそんなの当然だとも思っている)のほうをより強く持っているからだ。

「静かに漫画を描いてほしいので萩尾さんの言うとおりにどうかそれは永久凍土へ」というわたしの願いが本質的に「大泉という美しい幻想を見たい」「二人の天才という偶像による物語を楽しみたい」という願いのものと変わらないとしても、萩尾望都に漫画を描いていてほしいという欲求は確実に萩尾望都自身の漫画を描いていたいという欲求と重なっているのででかい顔して自分の願いの正当性を主張する。

同時に、竹宮・増山との別離で彼女がどれだけ傷ついたとしても、わたしはその傷ついた萩尾望都が生み出した漫画が好きでしょうがないのだ。人と人とが決して理解しあえない絶望を描きその正体を教え、共有してくれる萩尾漫画に長い時間救われてきたのだ。
『精霊狩り』の続編がお蔵入りしたことについてはちょっと運命的な何かを呪ったけれども、萩尾望都が傷ついたことについては結果的にそれで喜んでいる自分が客観的事実を知るべくもない50年前のできごとを理由に誰かを呪うはずもない。

のだけど、これだけ決然と拒否された本を読んでおいてとりもなおさず萩尾望都を物語上の人物として彩色しようとする人は見かけ次第呪っていこうと思う。萩尾望都は今ポーの続編描いてんだぞ!!!描いてくれなくなったらどうしてくれんだ!!!

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: その他
感想投稿日 : 2021年4月23日
読了日 : 2021年4月23日
本棚登録日 : 2021年4月23日

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