中森明夫のtwitterを読むまで、全くこのタイトルに興味が沸かなかった。そりゃそうでしょう、夏休みにこのタイトルの映画やられても、「Rookies」とかの中高生向け青春路線映画だと思ってしまうわ。
ただ、一つ失念していたのは、吉田大八が脚本・監督であったということ。パーマネント野ばらの、ただならぬ世界観の次回作という意味で注目しとくべきであったか??
朝井リョウの原作も後追いで読んだのだが、割と大胆に原作を改編している。岩井俊二やジョゼ好きの映画部副部長を、ゾンビ屋に仕立てたあたりは心憎い。実は後付けになるが、自分の好みは、かなりこの(小説内の)映画部副部長のキャラに被っているのだ。きょうのできごと、ジョゼ、池脇千鶴、週刊真木よう子、岩井俊二・・・
モテキに次ぐ、文化系陰性男子思い出ひたる系。
スクールカーストと呼ばれるヒエラルキーは、気がついたらできているもの。中高におけるヒエラルキーは、田舎の場合、まず何となく「自由に校内恋愛できる」をキーワードとして出来ている気がする。体育会系男子とリア充女子、の組み合わせが多いと思うが、それに加えてこの映画では出てこないが、「バンド系」もあるだろう。
そうした、決して交叉することのない体育会モテvs 文化系非モテが、不在となった桐島を巡って屋上で交わる。そこに、「ローエングリン」が重なる。この劇中劇は痛快。
物語終盤の、菊池と前田の8mm越しの邂逅。救世主を求めるものと、救世主を待ちわびていないもの。前田は、あくまでも現前する菊池を「やっぱりカッコいいね」と無邪気に言う。僕は、副部長のひねくれさに対して、部長の前田のこの素直な眼差しこそ、重要なポイントだと思う。好きな女の子に対し、マニアックな話をわずかな(映画好きという)接点を頼りにかましてしまうイタさは、カーストの下である限りは「イタい」のだが、高校を卒業しカーストから解放される暁には、強みになる可能性があるのだ。
しかし決して背伸びはせず、現実的に「映画監督は無理だと思う」という、下ならではのあきらめ。未来は無限に広がってなんかいない。この素直さと諦念の狭間にこそ、彼の現実的な未来があるのだと思う。
中森明夫の言う、「もはや現代演劇では、青春映画は成立し得ない」というリトルピープルの時代に、それでも私は年甲斐もなく、高橋優の「陽はまた昇る」をシャウトしてしまうのである。熱さって大事なんじゃないかなあ??
- 感想投稿日 : 2013年3月8日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2013年3月8日
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