Spenth@の本棚 ~Reading for pleasure~

警部補に昇進したばかりのリューシーのもとに、かつてのボーイフレンドから一本の電話が入る。
熱心な映画マニアである彼は、ベルギーのコレクターから入手した短編映画を自宅で観ていた最中、目が全く見えなくなってしまったのだという。
その短編映画の秘密を探る彼女だったが、その行く手に何者かが立ちふさがる。1955年に作成されたストーリーのない不気味なシークエンスがただ連なるだけの短編映画。このフィルムには恐るべき秘密が隠されていた。
同じ頃、シャルコ警視はフランス北部のパイプラインの工事現場で発見された5体の遺体の捜査を担当を命じられる。遺体は全て頭蓋骨が切り取られ脳と眼球が摘出されており、手首から先は荒っぽく切断され歯も抜き取られていることから身元は分からない。
八方ふさがりの状態の中、インターポールから送られてきた一通の電報によって事件は大きく動き出す。一見なんの関係もなさそうな短編映画と工事現場に埋められていた5つの遺体の事件は、意外な繋がりを持ち始める・・・。

冒頭からストーリーに引きずり込まれ、次々に起こるバラバラの謎の終点は、一体どう収まるのかという好奇心を抑えることができない。舞台はフランスを離れてカイロからモントリオールへと意外な展開をみせる。ケベックの暗黒の歴史、洗脳実験などディテールもしっかりしていて読み応えも充分だ。
ティリエは終始「心の闇」をモチーフに描いてきた作家だが、単に「心の闇」、誰にもわからない、では終わらせない。その根の本質を明らかにしようとする試みには好感が持てる。

暴力的な映像は子供たちの従順な脳にただならぬ影響を与えている、というのはよく聞く話だ。激しい暴力シーンのある映画には、R指定をして制限をかけることも義務づけられてもいるし、一定の規制もあることにはある。しかし、今日私たちは意識しているとしていないとに関わらず様々な形で映像を目にし、無意識にそれに支配されている。
「あなた、疲れたときはどうしています?家に帰ってディスプレイの前でくつろいでいるのでは?映像の前で脳を全開にさせてうとうととまどろみながら意識を朦朧とさせて。それが一番狙われやすいときです。こちらで望んだ通りのものを、あなたの頭に注入できるんです。」
著者が画像診断学の専門家に言わせるこの言葉は恐ろしい。

この内容を考えると、日本語版の装丁はもう気の毒なくらいのダサい。見た目で三流ホラーだと勘違いされるのは、本当にもったいないと思う。

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2012年2月20日

著者はマイクル・コリータ。コナリーじゃなくてコリータだ。しかし、マイケル・コナリーをして"Koryta is one of the best of the best, plain and simple."「早熟の天才」と言わしめる。
本書はあの『Child44』のトム・ロブ・スミスを押しのけて、2008年度の Los Angeles Times Book Prizeのミステリ部門を受賞している。

主人公はフランク・テンプルⅢ世。彼の祖父は勲章を与えられた朝鮮戦争の英雄で、彼の父親はその名を引き継いだ。名誉ある名前は父親から息子へまたその孫へと引き継がれた。しかし、フランクの父は殺人者として名を馳せることになる。
事件から7年、父の友人エズラから「デヴィンが戻ってくる」というメッセージを受け取る。デヴィンは自らの取引のために父親を警察に売り、自殺に追い込んだ男だった。フランクはかつてエズラとある約束をしていた。父親を売った男、デヴィンがマイアミにいる限りは寿命を全うさせてやるが、ザ・ウィローに戻ってくることは許さない、と。
そして今、フランクは復讐心をたぎらせてウィスコンシン州のウィロー・フローウィッジ、通称ザ・ウィローに向かってジープを走らせる。しかし、途中で車の追突事故を起こしてしまう。
事故の相手は挙動不審な男で、車はフロリダナンバーのレクサス。警察を呼ぶのを頑なに拒み、自分は被害者だというのにフランクの車の修理代までも自分が出すと言い出す。その男は保険もクレジットカードも使いたがらず、明らかに身元を隠したがっており、さらに謎めいた美女とともに湖畔にあるデヴィンのキャビンに滞在していた。
彼らは何者なのか? デヴィンとの関係は? 

この本はハードボイルドミステリというカテゴリに入るんだろうけれど、ミステリの部分は実はそう大したことはない。ストーリー自体は割とシンプルだ。
ねじれているのは登場人物それぞれが心にかかえている問題だろう。フランクの抱えるもつれた感情が融解していくのが本書の見所だろうと思う。キャッチは「復讐と癒しの物語」とあるが、なるほど雪がゆっくりととけていくような物語である。ほどけていくのはフランクの感情だけではない。修理工場の女店主ノーラも、エズラもそうである。
「それが過去の自分になるまで新しい自分を詰めこみ、よりよい自分が現れるまで過去をじわじわと消していけば、人はなりたいものになれる」という言葉は心に響く。

私は何度もこの物語を「しみじみ」と表現したけれど、ハードボイルドの部分もしっかりとある。
フランクはそのままCIAに入れるほど強く、アクションシーンにも見応えがある。特に後半数十ページはかなりスリリング。ラストもよい。
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2012年2月16日

読書状況 読み終わった [2012年2月16日]

あのデンマーク発の全欧ヒットミステリ『特捜部Q 檻の中の女』に続く第二弾。しかし単独でも楽しめるだろう。

特捜部Qは未可決の重大事件のための専門部署。といってもメンバーは二人きり。責任者のカールと、シリア系の雑用係アサドのみ。しかし、チームにはローセという新たなメンバーが加えられることになった。実際には他の部署から押し付けられたのだが。
そんな特捜部Qの今回の事件は、20年前に起こった17歳と16歳の兄妹の暴行殺人事件。誰かがどさくさにまぎれてカールの元にこの兄妹の暴行殺害事件の捜査ファイルを送ってきたのだった。
動機は不明で被害者二人は身元もわからないほどの暴行を受けていた。事件当初、寄宿学校の生徒のグループに容疑がかけられていたが、彼らの父親はデンマークの経済界を牛耳っている有名人ばかりだった。しかし、事件はすでに解決済みだった。寄宿学校の生徒のグループの一人が自首し刑に服している。それは仲間の中で唯一家庭が裕福ではない奨学生だったビャーネだった。
カールとアサドが調査をすればするほど、おかしな点が明らかになってくる。
一方、既に親が築き上げた以上の成功を手にしているディトリウ、トーステン、ウルレクの三人は、ある趣味に没頭していた。タイトルの「キジ殺し」は彼らのこの貴族的な趣味を指すものだ。
同じ頃ホームレスとなっていたキミーは、頭の中の”声”に操られるようにある行動を起こし始める...。

このシリーズの特徴は、シリアスで陰惨な事件を中和させるユーモアにある。今回メンバーに加わったローセにそれをさほど期待できなかったのは少々残念。
警察学校を最優秀の成績で卒業したものの、自動車運転免許の試験に落ちてしまい、どうしても警察で働きたいために秘書として雇ってもらったという経歴のローセは洋服もメイクも髪も真っ黒で不揃いのベリーショートヘア。まるでピアスのないリスベット(ミレニアム三部作の)を連想させる。「強情であけすけで大口叩きで、時にものすごく不機嫌になる」で決して「酒を飲ませてはいけない」。その酒の失敗は、訳者は「ブラックユーモアがお好きなら」と言っていたが、期待するほどブラックではない。
小説全体にもテーマをあれこれと盛り込みすぎて、第一作に比べるとやや散らかった印象を受けるかもしれないが、読み応えはある。
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2012年2月14日

上巻参照

2012年2月24日

読書状況 読み終わった [2012年2月24日]

小説の舞台となるシャトランド諸島は、1469年、デンマークの王女マーガレットがスコットランド王のジェームズ3世の元に嫁入りする際の持参金代わりになったイギリス最北端の諸島だ。大小あわせて100以上もの島からなるが、人が住んでいるのは15あまり。

その位置と歴史的背景から北欧色が濃く残っていて、本書もその北欧を起源にもつクナール・トローの伝説がミステリの核となっている。
このトロー trollというのは、北欧で伝承されてきた妖怪の一種で、語られる地方によって特徴は微妙に異なる。ウンスト(シェトランド諸島の島)版は全く事情が違い他の地方の伝説に比べて暗く陰湿であるという。

さて主人公は33歳の産婦人科医トーラ。島出身の夫ダンカンとともにこの島に越してきた矢先、偶然新居の庭先で女性の死体を掘り起こしてしまう。
この島独特の泥炭によって腐敗を免れた謎の女性の死体は、心臓が抉り取られ、背中には三つのルーン文字が刻まれていたばかりか、出産後間もない身であることが判明した。さらにその心臓は"生きたまま”摘出された痕跡が。その後、女性の身元は判明するのだが、彼女はその遺体から推測される死亡時期よりも1年も前に病院で死亡していたことになっていた。
病院で死亡したことになっている女性がこの遺体と同一人物であることは間違いない。なぜ、彼女は実際の死亡時期よりも1年も前に、病院で死亡したことになっているのか?なぜ、生きたまま心臓を抉られているのか?彼女の背中に刻まれた三つのルーン文字は何を意味するのか?

島の伝説とミステリはなかなかうまくリンクしていると思う。
しかし、このミステリを「優生学」に結びつけ嫌悪感を抱く人もいるかもしれない。
それに、この小説を読んだ後、作者がシェトランド諸島を愛しているといわれても、言葉そのまま信じることはできそうにない。
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2012年2月24日

読書状況 読み終わった [2012年2月24日]

21世紀に蘇ったNewボンドの肩書きは、英国企業の海外進出や投資を支援する政府機関ODGのセキュリティ・アナリスト。ODGは9.11同時多発テロを受けてMが新設した情報機関で、MI5やMI6と連携し国内外で特殊工作を行っている。
タイトルにもなっている白紙委任状とは、海外においてのボンドの権限。お役所的縄張り争いのため、ODGはイギリス国内では管轄権を持たない。
イギリス国内での大規模テロを匂わせるメールを傍受したボンドは、その待ち合わせ場所であるセルビアに向かう。メールの送信者を事前に捕まえることができれば、テロ計画の詳細をつきとめ、未然に防ぐことができるかもしれない。だが、その男は巧みにボンドの追跡を逃れ、イギリス国内に戻ってきた。ボンドのミッション上の権限、白紙委任状が唯一及ばない国内に。

ディーヴァーらしい癖の強いキャラクターが光る。
黄ばんだ爪を長く延ばした悪役セヴェラン・ハントは、「世界で一番リッチなくず屋」。廃棄物処理業者の彼は死と衰亡に魅入られている。65歳のガールフレンドの目尻に新しい皺ができるのを喜びをもって見つめ、化粧することを許ず、その衰えた肌を昼間の光にさらさせてセックスを楽しむ。

今回のボンドガールも二人だ。南アで飢餓対策のNGOの代表をしている魅力的な女性フェリシティ・ウィリングと南ア警察のベッカ・ジョルダーン警部。ジョルダーン警部は、生来の生真面目さとボンドが初対面のとき好色な目でみたことも手伝って、彼に対し無愛想で冷たくさえある。フェリシティはWillingという名の通り、”意欲に満ちている”。
二人とも一筋縄ではいかないが、これは読んでのお楽しみ。

セルビア、ドバイ、南アフリカとグローバル化した現代のふさわしく舞台は移動を続け、ストーリーはスピードをもってうねり、急展開する。ディーヴァーなので、もちろんどんでん返しも勿論あり。
日本語版では前作にあたるキャサリン・ダンス シリーズの『ロードサイド・クロス』でも、ネット社会の闇を描きだしたが、今回はゴミ問題とアフリカの飢餓問題を取り上げる。つい先日世界の人口は71億を突破し、食料危機が話題にのぼったばかりだが、この時代感はさすがディーヴァーだと思う。

ディーヴァーのミステリとしては、あの「007という制約」がある分、辛い点がつけられるかもしれない。
だが、エンタメ性は抜群なのではないだろうか。
新しいカクテルも、Qによるガジェットも楽しい。
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2011年11月10日

読書状況 読み終わった [2011年11月10日]

上巻参照

2011年11月8日

確かにブライアン・グリーンは非常に魅力的で明確な文章く方で、可能な限り身の回りの、時にテレビドラマの主人公なんかを引き合いに出し、説明をしてくれるくらい親切。この手の本にありがちな「よくわからないがゆえに、眠くなる」的なことはない。多分。
がしかーし、やっぱり理系じゃない人間にとっては、なかなか難しいんじゃないかと。

最先端の物理と数学によると、宇宙ってのは、”私たちの宇宙”一つだけではなく、多宇宙=マルチバースが存在するという。
膨張を続けている”私たちの宇宙”は、数えきれない宇宙の一つに過ぎず、それぞれ独立して進化を続けているらしい。なんで、数学によってマルチバースが導かれるのかっていうと、観測には限界があるから。天文学者が観測できるのは約420億光年先まで。
これを「宇宙の地平線」と呼ぶらしいが、地平線で宇宙が終わっているわけではない。
仮説をたてそれを検証するという従来の物理学は、「宇宙」の前には役たたず。そこで数学の出番となる。

本書には様々な(実に9つもの超がつくほど独創的な)マルチバースがでてくるが、この地平線の先にも宇宙はありうるだろう、というのが一番最初のパッチワークキルト宇宙。一つのパッチ(例えば私たちの宇宙)の隣にはまた違うパッチ(別の宇宙)があり、それはパッチワークキルトのように延々と続いている、というものだ。本書にでてくる9つものマルチバースのうち、これが一分かりやすい。が、科学者たちはそれだけで満足しない。
「検証」という束縛を振り切って、展開される超ひも理論などから導かれるマルチバースは、SFをはるかに超えてぶっ飛んでいる。
ただ、面白いけれど、これらのマルチバースは”絶対に検証不可能”だ。それが「正しい」ことを検証しようがない。

「検証」は物理の基本である。だがそれができないものを認めるべきなのか?この問いは「実存とは何か」ということに行き着く。下巻の半分はこの問いの議論に充てられている。
1920~30年代、量子力学を築いた科学者たちは、実在論と反実在論とに二分したという。
アインシュタインをはじめとする実在論者は、不完全であっても何らかの描像を見つけ出すことこそ、物理学の主眼であるという立場をとる。
今日の物理学は、反実在論を振り切った。もちろん著者もそして多くの科学者たちも、アインシュタインと立場を同じくする。
曰く、「とにかくそれを理論的に追究してはじめて、広大なリアリティを明らかにする可能性が生まれるのだ。」
とても、ポジティブでいかにもアメリカらしい。

けれども、三次元の世界で進化してきた私たちの脳は、決して検証することも観ることすらかなわないその「実在の本質」を果たして理解することができるのだろうか?
http://spenth.blog111.fc2.com/blog-entry-151.html

2011年11月8日

読書状況 読み終わった [2011年11月8日]

本書『特捜部Q 檻の中の女』は、ミステリのカテゴリではいわゆる「警察もの」に該当する。
系譜はヘニング・マンケルに近いかも。
つまり中年刑事が主人公で、様々なトラブルを抱え苦悩している。

「特捜部Q」はコールドケースを専門に扱うという目的で、パフォーマンス好きの政治家の肝いりで新設されることになったセクションだった。ベテラン刑事カールは、ここの責任者。
実は、この部署は上層部によるある画策のために作られた。同僚と上手くやっていけないカールを捜査の第一線から外し、Qのために割り当てられる予算を自分たちの部署に流用しようと目論んだのだのだ。
カールと特捜部Qにあてがわれた部屋は地下室にあり、部下は雑用係のシリア系移民と思われるアサドだけ。
山とあるコールドケースの中から、カールが選んだのは、5年前に起こった女性議員ミレーデ・ルンゴーの失踪事件だった。
当時、ミレーデは民主党の若き副党首であり、その美しさと媚びない姿勢から圧倒的な人気を誇っていた。それが、2002年ドイツへ向かフェリーの中で突如行方不明となっていたのだった。
しぶしぶ始めた再調査だが、雑用係のアサドが思わぬ活躍によって、次第に新事実が明らかになっていく。

2002年のミレーデに起こったことと、2007年現在のカールたちの物語は交互に語られていく。この物語の主人公はカールだといってよいが、ミレーデはもう一人の主人公だ。
レーデに起こった出来事は、もう悪夢としか言いようがない。
なぜ自分がこんな目にあっているのかも、自分をこんな目にあわせる人間にも心当たりすらない。肉体的にも、精神的にも極限まで追いつめられて行く。
監禁はこの上なく残酷に人間としての尊厳を奪う。だが、その先にもっとショッキングなことが企てられている。これはなかなか強烈だ。

本書をありがちな刑事小説でなくしているものは、カールのアシスタント、アサドのキャラクターだ。今や、厳格さが求められる警察本部の地下にあるQの部屋は、西欧とアラブの文明が不協和音を奏でている。アッラーへの礼拝のとき膝をつくための小さなカーペットが持ち込まれ、ランチに持参するお国のスパイシーなパイの臭いが充満することも...。彼は悲惨な物語にユーモアを与えてくれる。

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2011年10月22日

本書は、「国内文壇であれほどまでに憎まれ孤立している村上春樹が、なぜ世界中で読まれ絶賛されているか」について解明しようとするものである。
ただ、この本はその目的のために書き下ろしたのではなく、気がつけば溜まっていた「村上春樹に関する文章」を拾い集めてみたというものなのでまとまりはない。
いうなれば、村上春樹に関する雑文集のようなものだ。

村上春樹に関する疑問のその一は、「なぜ村上春樹が国内批評家や作家から憎まれるのか」である。純文学を気取る批評家たちに特に嫌われるのだ。かの大作家の強い反対で彼に芥川賞が与えられなかったのは、つとに有名な話だ。
この答えは簡単で単純だ。そりゃ嫉妬をおいて他にない。
村上文学は「ローカルに根付かないやら」「血と肉の気配がないやら」...etc もっともらしい理由はいくらでもひねり出せる。しかしやっぱりこれが一番真実に近いのだろう。
「村上をボロクソにこき下ろす前に、どうして自分の作品が世界中で読まれず評価もされないのか」について3分くらいは考察したほうがよい」と内田樹はいうが、この批評家が一秒でもこの考察を行うことは決してないだろう。
ゆえに国内の現代純文学は得てしてつまらない。

第二の謎は、「なぜ世界中で村上春樹は読まれ、評価されているのか」だ。
村上春樹は国内文壇ではコキおろされながらも、しかしもっともノーベル文学賞に近い日本人作家である。
それに対する内田先生の答えは、
「それは、せっせと雪かき仕事をする大切さを知っているから。」
なぜ、雪かき仕事なのかについては、本を読んでのお楽しみ。

2012年3月24日

読書状況 読み終わった [2012年3月24日]

主人公リディアは28歳の中国系アメリカ人。職業は私立探偵。相棒は巨漢の中年白人ビル・スミス。
一緒に住んでいる母親は、リディアのこの職業と相棒のことを毛嫌いしている。育ちのよい中国系アメリカ人の娘にはあるまじき職業だからだ。
ある日、リディアの住むチャイナタウンの美術館から陶器が盗まれる。盗まれた陶器は、美術館に寄贈されてまもない品で、さる上流婦人の亡き夫のコレクションの一部だった。まだ目録も作られておらず、保険にも入っていない。
リディアの古くからの友人であり、美術館の理事であるノーラは、この窃盗事件の調査をリディアに依頼する。警察に届けなかったのは、美術館の評判を気にしてのことだった。
早速リディアは相棒のビルとともに、チャイナタウンを縄張りにするギャング、美術品売買にかかわる人々の調査を始めるのだが、なんとその過程で二人は殺人事件に遭遇してしまう...。

本書の魅力はなんといってもアメリカ系中国人のリディアのキャラと彼女の周囲の人々、彼女が根を下ろしているチャイナタウンの雰囲気だろう。
28歳の本人曰く育ちのよい中国娘。兄は弁護士をしていて、母親はできるだけ早く兄のような男性と結婚をしてもらいたいと望んでいる。なのに、娘ときたら、汚い白人の男と一緒に探偵などという危険きわまりない仕事をして...彼女の職業とビルはとかく母娘の争いの元になる。
この母親、ちょい役としてしか登場しないのだが、訳者があとがきで指摘しているように、実にいい味出しているのだ。ほのぼのとしたホームドラマみたいな雰囲気作りに貢献している。
そして、なんといってもリディアと相棒のビルとの関係がよい。年齢も離れており、人種も違う二人は、恋人というわけでもなく、しかしまた単なる相棒というだけの関係でもない。ビルはリディアのことが好きだと公言して憚らないが、リディアにはそれを受け入れる準備がない。
ただ、これはあくまでリディアの主観。このリディア&ビルの事件はシリーズで一作ごとに主役が交代する。次作では、また全然違った関係にも見えて、そこがまた面白いのだ。

2011年10月13日

誰かが、この本ってミステリじゃないですよぉ〜と言ってたけど、あら本当。
『ライ麦畑』の2chVip板版みたいな青春小説...。

主人公のアンは中学二年生の女子。
ヒエラルキーが上位でイケてるバスケ部に入っているいわゆるリア充女子だ。
だが、友達とは気分で無視したりされたりの空虚な関係で、親にも理解されていない。自分の環境に苛立ち、絶望的な閉塞感を感じている。
みんなセンス悪い。誰もみんな、私のことを理解しない。
あるとき、学校の踊り場に展示された同じクラスで隣の席の男子、徳川の絵をみて痺れる。
徳川は「昆虫系男子」。イケてない。
『魔界の晩餐』と名付けられたその絵はおよそ中学校の踊り場にはふさわしいとは言えず、グロテスクで不気味。だが、気にいっている人形の写真集に通じるものを感じる。
そんな時、偶然徳川が河原で何かを蹴っているのを目撃する。スーパーの袋から滲みだしているのは赤黒い液体...
徳川こそが、アンの願いを叶えてくれるのではないか。美意識を分かってくれるのではないか。
アンは徳川に言う。

「私を、殺してくれない?」

私の命を使って、二人で世間に語り継がれるくらい衝撃的な事件を起こそう。最高の”少年A"をつくろうと相談をはじめる...。

なぜだろう。ホールデンには共感できたが、アンにはうんざりした。
そもそも、人に頼んでやってもらおうとするところ自体どうしようもない。同族嫌悪的なうざさを感じてしまう。感情移入できないのではなく、したくない。
アンは「死」になど魅入られてはいない。それはただのファッションだ。エネルギーの発散先がヴィジュアル系バンドだったり、他の何かだったりするのと変わらない。
時期がくると、現実と対峙してちゃんと自分の人生を歩き始める。

それはそうと、アンと徳川が目指した「悲劇」は、本当にこういうきっかけで発生しうるものなのか?
本物の”少年A"、神戸連続児童殺傷事件の彼なんかが起こした類いの狂気じみた事件は、起こりうるのか。
実際に人を殺し、遺体から首を切断して校門に置くなんてことをやらかすのと、ただ想像するだけでは天と地ほどの差がある。

スリルもなくもないけど、やっぱりイマドキ受けする青春小説の類いだと思う。

強いてこの物語にミステリを探すのならば、「昆虫系」徳川少年の心中。
アンの”お願い”に二つ返事でOKした彼の真意は何だったのか、かな。

読書状況 読み終わった

本書は、16世紀の英国、おそらく英国史上もっとも有名な王ヘンリー8世の宮廷を政治家トマス・クロムウェルの視点で描いた歴史小説。
2009年度、英国で最も優れた長編小説に与えられるブッカー賞と、全米批評家教会賞というふたつの権威ある賞を受賞した。
でも、あれ?ブクログ読者の評価、低いですね(笑)日本人受けはしないのかな?

当時ヘンリー8世は王妃であるキャサリンの侍女であったアン・ブーリンとの結婚を望んでいたため、キャサリン王妃との婚姻の無効化を望んでいた。
(カトリックは離婚を認めていないため、それまでの結婚そのものを無効とするよう教皇クレメンス7世へ認可を要請した)
このくだりは映画『ブーリン家の姉妹』にも詳しい。
映画をご覧になっていなくとも、シェイクスピアのヘンリー8世をご存知の方は多いだろうから、その下地にはなじみがあるだろう。
だが、本書では枢機卿ウルジーは悪人ではないし、クロムウェルその人もまたそうである。
ヘンリーの宮廷の「ヒキガエル」とも比喩されるクロムウェルだが、本書では悪役の立場は大法官トマス・モアと逆転している。
そういう意味において、本書はもう一つの別の視点にたった歴史劇『ヘンリー8世』だ。

ヘンリー8世の治世は、後に”中世からの脱却”したといわれる時代だ。
歴史的には、アン・ブーリンと再婚するためにカソリックから離脱し宗教改革を成し遂げ、イングランドはそれまでのローマとイングランド王との二重支配を終わりにした。
本書に描かれるクロムウェルも、中世的な人物ではない。
貴族出身ではないことが致命的だったこの時代、聖職者でもない彼は自分の力だけでありないほどの出世をした。
本書の彼はヒキガエルなどではなく、現代的な実務家である反面、人間的な優しさ、道徳を備えてもいる。
枢機卿にかわいがられ丸暗記しているほど聖書にも通じていたが、カソリックの教えー子供しか信じないようなことを信じるよう強いてきた権力を信じてはいない。

大法官トマス・モアは自らの信念において、異教徒に次々と非人間的な拷問と処刑を行うが、クロムウェルは流される血を抑えようと奔走する。
クロムウェルとモアは対照的に描かれる。子供時代の境遇もさることながら、信仰を貫き、異教徒を殺すのに何のためらいもみせないモアと、親しい友人である学者や商人をモアに殺されてなお、逆にモアを裁く立場になったとき、モアが少しでも苦しみから逃れられるよう王に慈悲を乞うよう助言するクロムウェル。

これまでのトマス・モア像は人々に尊敬される聖人だったが、ここでは立場は入れ替わる。
かたくなに信仰を貫こうとし、それ以外を否定するモアと、実際のところ何も信じてはいないクロムウェル。
個人と信仰はどちらが貴まれるべきなのか。ヒラリー・マンケルは冷ややかに問う。

アン・ブーリンはこの物語の幕が下りた後に断頭台に消える。そして次の王妃になったのは、クロムウェルが密かに思いを寄せた女性、アンの侍女であったジェーン・シーモアだった。
アンの時代、シーモア家は近親相姦というスキャンダルから、「ウルフ・ホールー狼の(ように野蛮な)館」と呼ばれ蔑まれた。
けれども最も節操なく近親相姦がはびこった獣の巣窟だったのは、何を隠そうヘンリーの宮廷だ。

クロムウェルも、その後4番目のお妃選びの際での失態がもとで断頭台に送られている。彼を苦しませるために、王はあまり経験のない処刑人を選んだとまで言われた。

「肉を食べ飽きた犬は、骨までしゃぶりつくすはらぺこの犬にとって替わられる。名誉で太った人物が去れば、痩せた男がやってきます。」
この歴史劇は、リベンジとリピートの物語ともいえるだろう。だがどこか滑稽で乾いている。

最初はノンストップで読み通...

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題材にアンドレイ・チカチーロという実在の連続殺人鬼の事件を選び、時代設定をスターリン圧政下に設定した『チャイルド44』はまさに凄いの一言。
秘密警察のエリートであったレオは、連続殺人鬼を捕まえようと捜査に乗り出すとともに、レオ自身が国家に対する反逆者になってしまう。平等で幸福な社会主義国家には連続殺人など存在しないからだ。
続く『グラーグ57』では、スターリンの死後、権力を握るフルシチョフは激烈なスターリン批判を展開。
社会の善悪はひっくり返され、投獄されていた者たちは続々と釈放され、かつての捜査官や密告者を地獄へと送り込むという復讐と復権の時代。ここでのテーマは贖罪であった。

そして、レオ・デミドフの物語の完結編が本書『エージェント6』だ。

レオは妻ライーサと、ゾーヤとエレナの二人の養女とともに落ち着いた暮らしを送っていた。
教育界で出世をしたライーサは、米ソ間の関係改善のため企画された、両国の生徒によるコンサートのソ連側の引率者として、ニューヨークに向かうことになる。
ゾーヤとエレナの二人の娘もその使節団のメンバーだった。
彼女たちの出発の直前、レオは偶然エレナの秘密の日記をみつけ、エレナは何か隠しごとをしているのではないかという不安を感じる。
このレオの予感は的中する。
エレナの純真な国家への思いとは遠く隔てたところで、米ソ両国のどす黒い陰謀が企てられていたのだった。
ニューヨークで起こった悲劇は、レオが造り上げてきた全てを破壊してしまう。
遠い異国で一体何が起こったのかをレオは知りたいと願うが、過去に問題のある彼に出国許可が降りるわけもなかった。

15年後、レオはソ連が侵攻したアフガニスタンのカブールの地にいた。出国に失敗した彼は誰もが嫌がるアフガニスタンの任務につくという条件で刑罰を逃れたためだった。
ソ連軍と現地イスラムのムジャヒディンとの激しい闘いに巻き込まれるが、一縷の望みに賭け捨て身の勝負にでる...。

レオはこれまでも数々の想像を絶する困難に直面し、常に選択を迫られてきた。
自分の心の信念、良心に従って行動するか、その心を説き伏せ現状に甘んじるか。

『チャイルド44』でもそうだったようにレオは、良心の言葉に目をつぶってしまえば、あれほどの困難に直面する必要はなかった。今回もまた選択肢もあるにあるにはあるのだ。本書においてもその岐路に立たされることは何度もあった。だが、楽な道を選ぶことはない。それは楽なようでいて、生涯にわたって自らを苦しめることがわかっているから。
そして、そういう風にレオを変えてしまったのが、ライーサその人だった。ライーサはレオの良心だったのだ。

翻訳者の田口氏は、本書を「夫婦愛の物語」として読んだと話していたが、確かにライーサへの愛は物語全体に重低音のように貫かれ奏でられていると思う。

けれども、私個人としては「人間として大切なのは何か、最後に残るものは何なのか」を強く意識した。
男女の夫婦の愛だけではなく、著者が掲げたテーマはもっと広義な人間が大切にすべきもの全てのような気がした。

レオの生涯は例えようもなく苛烈で過酷だ。
読者からみても、報われることがなさすぎる。
そしてこの完結編のラストを受け入れられない人は、多いかもしれない。
だが、それはレオにとって何にも勝る満足感だっただろう。

上巻参照

2011年10月26日

「著者あとがき」でキングはこう言っている。
「アクセルをフロアまで踏みっぱなしにする長編を書くのがわたしの目標だった」と。
もともとこの人は、自ら認める登場人物のやたらと多い長編が大好物の作家なれど、本書も堂々たる長編だ。
上下巻併せてなんと1396ページ。しかも二段組みときた!!!
本書はキング作品中、三番目に長い小説なのだそう。(No.1はいわずもがなの『IT』である)
でも、このボリュームもなんのその。本当に最後までアクセルベタ踏みの面白さ。ブレーキなどキングの辞書にはない。

舞台は、アメリカ、メイン州の小さな田舎町チェスターズミル。
人口わずか2000人のこの町はハロウィンを控えたある日、突如として現れた<ドーム>によって囲い込まれ外界と完全に遮断される。
その瞬間、<ドーム>の境界線を飛んでいた鳥たちや飛行機、地上を走行していた車はこの障壁に激突し大破し、境界線上にいたウッドチャック(山ねずみ)や境界線上にあった自宅の庭で草むしりをしていた女性の手首は、ギロチンが降りてきたかのようにすっぱりと切断された。
上空はおよそ1万メートル、地下にいたっては見当すらつかない。
無色透明のこの障壁は、ごくごくわずかな水や空気、電波は通すものの、弾丸もミサイルによってでさえ破壊不可能。電気、ガス、水道といったインフラも遮断された。
この日、すんでのところで町を出て行き損なった元陸軍兵士のバービーは、この異常事態に対処するために、古巣のコックス大佐に連絡をとる。

<ドーム>の正体は一体何なのか。なんのためにそれは出現したのか...。

人々はパニックに陥るが、この機に乗じて町を完全に自分のものにしようと考えていた男がいた。
この町の中古車ディーラーにして、第二町政委員のジム・レニー 通称ビッグ・ジム。
<ドーム>によって突如として外界と隔てられ、閉鎖空間となったチェスターズミルは、ビッグ・ジム一派の悪意によって、日を追うごとに悲惨な状況となっていく。まさに「どこもかしこも血の海だ」というほかはない。
これに対抗するのは、バービーとその仲間たち。医療助手のラスティ、新聞記者のジュリア、天才少年”スケアクロウ”ジョー。

チェスターズミルは短期間のうちに秩序を失い、そればかりか金星なみに生存が劣悪な環境に変わって行く。

<ドーム>で起こった出来事は、地球がこれからたどるかもしれない出来事の縮刷版なのかもしれないとも思う。
閉ざされ、破滅にむかって突き進んでいく中であってさえ人間は歪み合う。それはさながら「どこもかしこも血の海」の地獄絵図だ。

しかし、「それ」を観察し、楽しんでいる好奇心にみちた「目」の存在を思うとき、恐怖はより一層高まる。

その「目」を持つ存在は、確かに神と呼んでさしつかえない存在なのかもしれない。だがそれが「神」であっても、人間のことを愛しいるわけでもないし、慈愛に満ちた目で見守っているわけでもない。
ことあるごとに、牧師が「そこにいないお方」に対し捧げてきた祈りは、馬鹿げたジョークであり、そのジョークの対象は自分たち人間であったことを悟る。
「どうしてこんな酷いことをするの?!」という少女の叫びに、牧師は答えることができない。
他方で、あの希代の悪人ビッグ・ジムは、皮肉なことにクリスチャンなのだ。但し、キリストの教えは彼の中では都合のよいようにカスタマイズされてはいるが。
このキングの宗教観は、なかなかシニカルで現実的だ。ついでに言えばイカしているとさえ思う。

ラストがまた巧い。
そこには万能薬たる「愛」の働きはない。でも確かに「何か」を感じさせる。だからこそ真実を感じさせる。

『すばらしい人間部品産業』というタイトルの『すばらしい』は、かのハクスリーの『すばらしい新世界』と同じ意味を持っている。

現代は、利潤と効率の時代だ。
血液、臓器、胎児、卵子、精子、人間の身体はパーツ化され、それを”部品”として売り買いするばかりか、代理母として、その生殖機能までを売買しているのは周知の通り。パーツはさらに細かく分断され、はては遺伝子にまで商品化は及ぶ。
自分のパーツを「売る」のは、その殆どが経済的に貧しい人々だ。
彼らにとって臓器を売って得る金額は、一生涯に稼ぐ金額よりも大きい。
世の中には子供を持つためには、金銭に糸目をつけないという人も多い。が、そこには強力な経済的な制約が生じる。
そして、生殖ビジネスには常に優生学がつきまとう。

我々はいつから自分たちの身体まで商品として扱いはじめるようになったのか?
著者はその萌芽を、ガリレオとアダム・スミスに見出す。
前世紀、科学は驚くほどの進歩を遂げた。研究者たちはモラルよりも自らの能力の証明を優先させたがった。
そして科学と経済は強力なタッグを組んで邁進してきた。

本来そこには、倫理観や社会道徳がなければいけなかったのに、私たちは立ち止まって考えるということをしてこなかった。
このまま放置すれば、必ず未来はディストピアになるだろうと著者は警告する。
だが、バイオテクノロジーの恩恵をどこまでは許容できて、どこからが許容できないという線を引くのは難しい。
しかし、alll or notingではない。「無償供与と共感」という考え方に立ち戻ることで、私たちは人間の身体、命の尊厳を取り戻せるのではないかと著者はいう。

本書は、前半かなりの部分を割いて、バイオテクノロジーと市場主義がもたらしたおぞましい人間部品産業の現実を明らかにする。これらは怖いものみたさ的な興味を引く。が、本書の趣旨は後半にこそある。
問題提起のみに留まらずに、著者はそれを解決すべき具体的な施策まで言及しているのだ。

ただ、人間の欲望というものは手強いものだ。
この施策がアメリカで法案化されたとしても、人間部品産業の暴走は止まらないかもしれないな、などと思った。

ハリポタやトワイライトにはまった女性は間違いなく好きだろうなーというミステリファンタジー。
何しろ、タイトルにある通り魔女はもちろんのことヴァンパイア、デーモンまで登場するのだから。
そして、ヴァンパイアといえば容姿端麗がお約束。そして、ロマンスもたっぷり。
とはいえ、ただのファンタジー&ハーレクインではない。
もしそうならば、世界35カ国で翻訳されるほど売れはしないだろう。
著者のデボラ・ハークネスは南カリフォルニア大学で教鞭をとる現役の大学教授にしてワインのブロガー。専門は16~18世紀の魔法と科学の歴史である。

さて主人公は著者と同じ錬金術のアメリカ人歴史学者ダイアナ・ビショップ。いうなれば、ダイアナはもう一人の著者でもある。
彼女は17世紀にアメリカで行われた最初の魔女裁判で処刑されたブリジッド・ビショップの直系の子孫。魔女の家系としては皆が一目置く名門の家系に生まれた。
幼い頃、不可解な死を遂げた両親にショックを受けたダイアナは、魔法の便利さと引き換えにそれがもたらすものを怖れ、魔女としての自らを否定し、普通の人間として努力し今の地位をつかんだ。
あるとき彼女は論文を書くために訪れていたオックスフォードのボドリアン図書館で、一冊の写本に出逢う。
写本は不自然に重く、黴と麝香のまざった香りで彼女を誘ってきた。彼女は即座にこの本には何か呪文がかけられている悟り、そのまま書庫に返却してしまうのだったが、その日からダイアナの周囲に魔女、ヴァンパイア、デーモンといった人間以外のクリーチャーたちが異常に集まり始める。
その中でひと際目を引いたのは、ヴァンパイアのマシューだった。
実はくだんの写本、『アシュモール782』は一世紀もの永きにわたり、クリーチャーたちが探し求めていた本だった。
強力な魔法によって一世紀にもわたりその姿を現すことのなかったその写本を、なぜダイアナが手にすることができたのか。
写本には何が隠されているのか...。

ヴァンパイアであるマシューは、外見上は30代後半にしかみえないが、既に1500年も生きている。
写本の謎は、ヴァンパイアの起源にも及ぶと考えられていたのだった。

畳み掛けるミステリは壮大で、謎は本書だけでは語り尽くすことはできない。ハリーポッターがそうであったように。
本書は三部作構成とのことだ。つまりこれは第一作目ということで、序書に過ぎない。

ちょっとロマンスに重点が置かれすぎている気もするが、明らかに著者自身がイケメンヴァンパイアのマシューに肩入もしているので、仕方ないかな...。
本書が「ちゃっちく」なっていないのは、これが歴史的読み物であると同時に「種の起源」やミトコンドリアDNAなどのサイエンスをも盛り込んだエンターテイメントである点だ。

しかしながら、やはり飽くまで女性作家による女性向けの本だと思う。

http://spenth.blog111.fc2.com/blog-entry-118.htmlより

昭和大学病院の現役医師によるサスペンス小説。
「ギネ/産婦人科の女たち」の原作「ノーフォルト」の第2段ともいうべき作品だそうだ。
私はこの本も読んでおらず、ドラマも観ていないけれど、続編というわけではなさそうである。本書だけで充分に楽しめる。

タイトルの「デザイナーベイビー」とはバイオテクノロジーによるまさに完全無敵な赤ちゃんを指す。

日本産婦人科医会の調査によると、胎児の染色体異常などを調べる「出生前診断」で、2009年までの10年間で胎児の異常を診断された後、人工妊娠中絶したと推定されるケースが前の10年間に比べ倍増しているという。
今は胎児の時点での遺伝子検査によって、その子がダウン症などの染色体異常を持っているか否かがわかる。
妊婦にとっては苦渋の決断なのだろうが、異常がわかった時点でその子供をあきらめてしまう、というのは一般に理解されているといえるだろう。
けれども、実は人工妊娠中絶について定めた母体保護法は、中絶が可能な条件に「胎児の異常」は認めていない。これらのケースは、皆、「母体の健康を害する恐れがある」に当たるとして拡大解釈されて適応されているに過ぎないという。

この生命倫理こそが本書のテーマ。
異常のある子供は、ダウン症の子供は、生まれてこないほうがいいのか。
建前ならば、そうじゃないと言い切ることができるが、本心は統計に現れている。
受精卵の段階で、その異常を治療できるとしたら?

重いテーマながら、読み応えあるサスペンスに仕上がっているし、登場人物も多いながらも個性的で好感が持てる。医療サスペンスならではの専門用語も出てくるが、読むに苦にはならない。

気になったのは、ラストの誤植...。
そこで手を繋いでいるのは、川添じゃないよね?

http://spenth.blog111.fc2.com/blog-entry-117.htmlより

本書は、ある男の静謐で詩的な告白録だ。
原題は「A Very Private Gentleman」。
7月2日に公開になったジョージ・クルーニーの映画「The American」(邦題:ラスト・ターゲット)の原作である。ただ、原作と映画は少々設定が異なるようだ。

多分ハードボイルドミステリなんだけれども、ハードボイルドにありがちな派手派でしい銃撃戦やアクションもなければ、息をのむようなサスペンスもない。

舞台はイタリア中部の田舎街。その男シニョーラ・ファルファッラは長期滞在者として暮らしている。外国人でイタリア語は上手くない。皆イギリス人だと思っており、彼もそれを否定はしない。
シニョーラ・ファルファッジ(Mr.Butterfly)と呼ばれているのは、彼が蝶の絵を描いて暮らしている絵描きだから。しかしそれは偽装だ。
彼の本当の名前が何なのか、本当の職業は何なのか、誰も本当のことは知らないし、彼は読者にすら出し惜しみをする。「影の住人」である彼はそれほどまでに用心して暮らしている。
ただ、物語中盤、彼が何者なのかということは彼自身から明かされるし、そうでなくともだいたいの察しはつく。
彼はもう若くはない。鍛え上げている肉体はまだ見た目は若いものの、引退を考える時期にさしかかっており、この仕事を最後にしようと考えている。
そんな折り、彼の周囲に「影の住人」の姿がちらつき始める...。

察しのいい人は、この後の展開が読めるだろうし、それは多分外れてはいないはずだ。
結末は苦い。そして時とともに主人公にとってさらに苦いものになっていくことだろう。
思い出の中のイタリアが輝けば輝くほどに、主人公のいる場所の影は色濃く感じられる。
この小説というか告白録の素晴らしさは、最初にページを捲ったときから惹き込まれる美しいイタリアの風景と、数多くの蘊蓄や哲学であろうと思う。
いい車、いいワイン、いい女、いい本、いいサラミ、価値あるものの性別は全て女性であるイタリア。
イタリアはロマンスだ。

http://spenth.blog111.fc2.com/blog-entry-113.htmlより

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