以下ネタバレあるかもです。
この「模倣犯」は1995年から連載が開始され2005年から文庫が発売された、1冊500ページほどの文庫5冊からなる大部の作品です。
再読です。
文庫版が刊行されてすぐ購入し一読、今回改めて1巻から5巻までを通して再読、さらにもう一度1巻を読んだうえでこれを書いています。
何でわざわざこんなことを断ったかというと、まずは本作のストーリーテリングの力のせいです。
初めて読んだときは、その息をもつかせぬストーリー展開に夢中になり、一気呵成に読み進んでしまいました。いえ、一気呵成なんてかっこいいものではありません。実は、ストーリーの先を知りたいがあまり、途中ほぼ斜め読みや飛ばし読みになったところもあるほどで、何と「模倣犯」というタイトルの意味を読み返すまで思い出せなかったのですから、その力の凄まじさを感じる反面、自分の読み方の拙さが恥ずかしくなります。
今回、逸る気持ちを抑えてきちんと内容や表現も追うつもりではあったのですが、それでも再読を始めるにあたってはやや抵抗がありました。ジェットコースターのようなストーリーのあちらこちらで、傷つけられる人々の多さと受ける傷の深さを覚えていたからです。
勧善懲悪や傷ついた人たちへの救いと再生のようなものがこの大作の中心にはなってはいません。勝者が最後にかろうじて掴み取った勝利の証は、多くの人が当たり前のように手にしている平凡なものであったり、自分の心を振り返って覗き込む冷静さであったり、堪えていた想いを初めて表に出した泥酔しての号泣だったりします。いずれも勝者がそれまでに失ったものとは比べ物にならないささやかなものです。読み終えて溜飲が下がるようなものではありません。
そんな中、再読に踏み切る背中を押してくれたのは、3巻の帯にある「究極のエンターテインメント」というコピーでした。
酷い目に合わされる人たちはいるけれど、でもこれはエンターテインメントなんだ、彼らは最後には勝利するんだ、と自分に言い聞かせながら読み進めないと、冒頭の塚田真一のエピソードも、続く有馬義男のエピソードも、直接グロテスクな描写があるわけではないけれど「正視に耐えない」というか、彼らの心の裡を想像すると熟読するのが辛いエピソードが続きます。
でもそれは最後の勝利の前振りだ、って自分に言い聞かせながら、1ページずつページを繰りました。
そのようにして読み進むにつれ、この巻の中盤、有馬義男(彼こそがこの大部の作品の主人公だと、再読して思うようになりました)が犯人に振り回されているあたりから、ぼんやりと、この作品は「悪」対「善」の戦いなんだなあと思い始めました。
なにしろ、有馬義男は日本中の善を集めるとこうなるというキャラクターを作者が造形しているように思える人です。単なる善人、お人よしではない、額に汗して実直に働き、人の話をよく聞き、その中のうさんくさいものをしっかり見抜く人です。その言動を武上に「ごく普通の人のごく普通の言葉、態度、生き方の在りように、いずまいを正さずにはいられないような気持ちになることもある」と評されています。
宝物だった孫娘の死も、かつて美しかった一人娘が心を閉ざしてしまったことも、何十年と地元に根を張ってきた店が傾いてゆくことも、そして犯人グループからのあまりに酷い仕打ちも、社会正義の実現を叫びつつその実は中身はまったく空虚な前畑滋子をはじめとするマスコミたちも、義男を打ち負かすことはできません。
迫り来る老いと死に対してさえも「酒も飲まず、煙草も止め、降圧剤はきちんと飲み、眠れない夜でも横になって体を休め、味気ない飯も薬だと思って喉に押し込」むような戦いを挑んでいます。
そうしてとうとう義男は犯人グループに一撃を食らわせます。これは小さな一撃のようで実は蟻の一穴です。
善の最初の勝利であり、その小ささに反して、再読を始めたときに思っていたのよりはるかに大きなカタルシスを感じました。
なにしろ、この戦いは悪が圧倒的に有利です。警察が犯人チームを追い詰めるのには時間と手続きが必要で、攫って殺して埋めるだけの犯人に対し、警察は捜査して、資料を作って、逮捕して、マスコミ発表して、裁判をして勝訴し、刑を執行しなければなりません。
不眠不休で捜査に当たる警察メンバーですが、読者はその職業的正義感を大きく超える献身に声援を送りつつも、歯がゆさを抑えることができません。
そんな中で有馬義男は善が善であるゆえの世間知だとか常識だとか人生経験だとか、そういったもののみで悪に一撃を加えてくれました。
再読をしてよかったと感じた瞬間です。
一方の悪代表。
犯人グループは自らのしていることをまったく悪いことだと思っていません。何かの劇かショーを演出しているだけ、状況を完璧にコントロールして楽しんでいる超越者を気取っています。
それがいかに幼稚なものかは第二部で、そして善がいかにして不利な戦いを制して悪に打ち勝つかは第三部で語られています。
最後に一言。
宮部みゆきさんの小説は、初期の作品であっても古さを感じないものが多いのですが、本作については古さを痛感する部分があります。
一つは喫煙。
以前、ジブリの「風立ちぬ」で喫煙が話題になったことがありました。喫煙を推奨しているように見えるという禁煙ファシストの意見に、当時の時代感には欠かせない小道具だ、って常識的な意見が対立してました。
本作では、作者がスモーカーだからか、喫煙者、喫煙シーンが多く、あまつさえ前畑滋子を初めとする女性の登場人物にも多くの喫煙者がいます。
いい悪いではなく、ここに古さを感じてしまいます。
もう一つは携帯電話を巡る状況。犯罪やその捜査を警察が行う状況では、どうしても携帯電話の有無がトリックやアリバイに大きな影響を与えます。本作は携帯電話が普及し始め、ポケベルもよく使われているという微妙な状況だけに、一層時代を感じてしまいます。
逆にそんなことを感じない部分もあって、これはもうマスコミの愚かしさがそれ。30年近く前から、全く変わっていないその浅薄さ、浅ましさに今さらながら鼻白む思いです。
蛇足ですが、エピグラフは「くじ」の一節。
『贈る物語 Terror: みんな怖い話が大好き』(光文社文庫)(https://booklog.jp/users/hanemitsuru/archives/1/4334741630)で読むことができます。
SNSでいい気になって石を投げているあなた、いつ逆に投げられる立場になるかわかりませんよ…。
このエピグラフを1995年に引いた宮部みゆきが偉いのか、1995年のエピグラフが十分に通用する現代の私たちが愚かなのか、どちらでしょうね。
- 感想投稿日 : 2019年7月21日
- 読了日 : 2019年7月21日
- 本棚登録日 : 2004年5月5日
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