各地方を歩き回って、確かめ切った、ベトナム料理の現地リポート本。かわいいイラストとともに、センス良くまとめてある。かなり信頼できる人な感じがするので、オススメホテルのところをコピーとった。コロナ禍が終わったらフエに行きたいので、ヴェダナ・ラグーン・リゾート&スパか、Pilgrimage Villageのどちらかに泊まりたい。めっちゃ宿泊料金かかるやろけど。

2021年2月13日

読書状況 読み終わった [2021年2月13日]
カテゴリ ベトナム

 ショートショートの奥義書のようなもの。すごいと思う。
①不思議な言葉をつくる
②不思議な言葉から想像を広げていく
③想像したことを短い物語にまとめる
 が、骨子である。
 この本は具体的でとてもいい。

1.まず、名詞を10個書く。(太陽、傘……)
2.その名詞の一つを選び、思いつくことを5つ書く。(あたたかい、核融合、命をもたらす……)
3.名詞の一つから思い付いたその5つを、10個の名詞のなかの別のいくつかと組み合わせる。(3つくらい出す。命をもたらす傘……)
4.組み合わせた言葉の中から一つを選ぶ。
5.それはどんなモノか?説明する。
6.それは、どこで、どんなときに、どんな良いことがあるか?書く。
7.それは、どこで、どんなときに、どんな悪いこと、またはさっき書いたこと以外のどんなことがあるか?書く。
8.上に書いたことをまとめる。(出たものは全部使わなくてOK)
9.主人公は?
10.ほかの登場人物は?
11.どこで起こったの?
12.いつ起こったの?
13.5つの段で「それから?」の疑問を入れて場面をつくる。(雨を生き物にする傘が手に入った → それから? → 雨と友達になった → それから? → 夏の日は、友だちの中に入って涼んだ。 → それから? → 冬の日に友達が凍った → それから? → 悪ガキのいたずらで友達が粉々に割れてしまった → それから? → 雨を生き物にする傘で友達を探し続けている。街は雨人間だらけでパニックになったけれども。
14.ショートショートの出来上がりとなる。

 雨の話はいま即興で作ったもの。本当に見事な指南書だと思う。

2021年2月12日

読書状況 読み終わった [2021年2月12日]
カテゴリ その他

 描写の勉強のために読んだ。

「上から下までまっ白に装うておられた。襲(かさね)の衣も、領巾(ひれ)も、裾引く裳(も)も、清浄な、輝かしい白でござった。お頸の飾りは大きな水晶の玉。髷の飾りは、みごとな白金細工…」、野菜の塩漬け、魚の醤(ひしお)漬け、「冠もかぶらず、いい加減に結うたみずらは、左右の高さが違う。まとっている白銀色の袍(ほう)は、いつかた着たきりなのか、馴れてクタクタである…」、酒器、盃、薬湯、器、「槿(むくげ)の花弁の張りも新しい朝なのに、すでに耳が痺れるほど蝉が鳴いている。あわあわと群れ咲く薄紅の向こうに、目にしみる六月の蒼穹が広がっている」、「皿には芋茎を炊いたのと、ノビルと、干蛸が盛られている」、巻子、「興であったぞ」、円座(わろうだ)のささくれ、板戸のはねあがった窓。
 色々と参考になった。

2021年2月6日

読書状況 読み終わった [2021年2月6日]
カテゴリ 日本小説

 日本とキリスト教について考えるために、もしくは明治を考えるために、もっとも外せない人物は海老名弾正だろう。彼は1856年福岡県、武士の家に生まれ、1937年(昭和12年)に亡くなった。熊本洋学校や同志社英学校で学び、同志社ではのちに総長にもなる。

 彼の「説教」の内容は、多神教の批判から始まる。
 忠臣は二君に事えずというが、これは誠に素晴らしいことであり、神に対してもそうで、この神もあの神も拝むというのは夫婦別ないがごとくだ、と多神教を批判する。儒教=キリスト教で神道を批判しているような感じだ。
 また、神に仕え、神に服従・従順となることについて、婦人なら難しいことではないかもしれんが、独立自主の精気に燃える男子にとってはこりゃ実に苦しい至難なところであると述べていて、自分も神を愛しつつも、神に対する謀反心があることが述べられている。(P92)
 神の愛は山海無量である。謀反心を持っていても、悔い改めれば、偉大なる属神の勇者となれるのだ。
 神の救いは、人を独立させることにある。目の見えない人に、手にすがってこいと言うのではなく、目をあけてやって自ら歩ませた。神に頼り込むことによって、人は独立するのである。
 つまり、独立心ある燃える男こそ、キリスト教に入って、神の愛でもって真の独立を得るのだ。神に仕えることは、恥ずべきことではなく、むしろ立ち上がることであるという。

 主君のために生命を捨てるのが武士であると、海老名は教えられてきた。その主君のところが、キリストに変わったのが海老名の抱えた問題であり海老名の価値観であり……そしてある意味日本の宿命的なものを体現している。
 植村正久と「キリストは神か人か」の論争をしており、植村がキリストを超越的・絶対神的とし、奇跡・十字架の贖罪などを文字通り信じるのに対し、海老名はキリストをわれわれと全く同じ人間であるとした。では海老名はキリストの神性を認めないユニテリアンであるかといえばそうではない。
 海老名は、原罪や贖罪信仰は否定する。自分が神の子であるという自覚はある。人間の内には救いに至る神性がある。人間は神の子であり、神と連続する。
 キリストは我々と同じ人間であるが、人間に内在する神性を完全な形で表した人なので、一点の罪悪もない完全な人格であるとした。キリストが人類にとって救い主であるのは、人類が神の子・神性であることを自らが示したことにある。少しでもキリストに近づくことがキリスト者の理想の生涯ということになる。
 キリスト教ではこのように個人にも価値を認める。
 海老名にとってのキリスト教とは、日本人にとっての個人の目覚めであり、キリストは神の子であり、人間に、「人間みんなに神性がある」を示した人がキリストである。

 キリスト教の日本化について、海老名は、キリスト教には普遍的要素と民族的要素の二面があり、どちらかだけのキリスト教は存在しないと述べている。(P220)
 ヨーロッパ各国をみても、キリスト教は各国それぞれに異なる。日本ももちろん異なる。だからといって、海老名はキリスト教を日本化しようとしているわけではなく、むしろ日本のキリスト教化のために、「天皇一人を神聖として認めるのではなく、国民各自が神の子として神聖な存在とされなければならないし、男女は共に神の子であるから平等であり、結婚における一夫一婦制がキリスト教倫理であるとして主張した」(P223)のだ。

 海老名は、武士の子として、忠臣であるべきとして育ち、武士を失った日本という国でキリスト教に出会った。そしてキリストに仕えた。すると、海老名は、人々の中にみな神性があり、個人それぞれが日本男児として、婦人として、神と共に強く立ち上がることができる、独立できると説いた。忠臣と独立。それ...

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2021年2月1日

読書状況 読み終わった [2021年2月1日]
カテゴリ 宗教

 「人間は権力をもてば濫用するものだということをいつでも念頭に置かないといけない」と述べる岸田秀。
 謎の多い人物だ。
 学者なのか? 精神分析者? 評論家? 心理学?

 さて、彼の理論は彼個人から出ている。

 岸田理論と呼ばれるものはこうだ。人間は他の動物と違って、非常に未成熟で生まれる。生まれてすぐ立ち上がれるわけではない。人間は、本能が壊れている、壊れたまま育つのだ。「人間は本能の壊れた動物である」「本能が壊れた人間は、本能の代用品として自我という行動規範を作った」という岸田理論。
 しかしそれは、「私自身の観察」から来ていることがハッキリ述べられている。(P50)また、「この世界は幻想だ」と岸田が言っているのは、自分の感覚だけで言っているだけのことだとも述べている。(P113)ある意味正直で非常に好感が持てる。お前の考えやんけ! と。精神分析ってそういうものなのかもしれない。

 岸田理論を続ける。
 「自我」は「非自己」の集まりである。狐が取りついて考えさせているのかもしれないのに、それを自分だと勝手に決めつけている。一方「自分の存在そのものでありながら、「これは自分ではない」と見なされて自我から排除されたもの」があり、これが「エス」と呼ばれるものだ。
 人間は根本的に倒錯しており、自我だけでは自分の存在自体が生きていることにはならず、エスを解放していきたいが、エスを解放すれば自我が崩壊する。自我の正しさは根拠なく盲信するしかない。そして、自我を無我に持って行きたかったり、もしくは自我を強く持ちたかったりして、二つに分裂する。
 エスか、自我か。そしてさらに、無我か強い自我か。人間の精神は引き裂かれるわけである。

 (P74)では岸田はこう述べる。
【「意味づけ」ということ自体が幻想なんですけれども、でも何かしらの意味づけをしなければわれわれはやっていけないんですね。生きていることに価値があるという幻想が必要なんです。そして、その価値が正しいか間違っているかということではなく、その価値を自分で選べるという意味でわれわれは自由なんです】

 本能が壊れていなければ、本能に従っていればいいだけで、親の規範なんか必要ない。他の動物は親の規範なんかに従っていない。本能が壊れているから、親とか神の規範を求める。神の起源は本能の崩壊にある。本能が壊れたから、世界を理解可能にするために「言語」が生まれた。

 この本におけるメインは三浦雅士との対談だ。

(P306)では、三浦は「本能が壊れたので世界を分節化していくために言葉が必要になったというときの言葉は、話し言葉である以上に、たとえば文様のようなもの」と述べている。
 岸田は、それに続けて、「世界の構造化には時間が必要」と言っていて、時間を介して世界と自我はつながることを言う。そして世界が時間を持つ、持続性をもつためには、定着するものが必要であり、何かのしるし、文様が必要となる。スピーチとか命令でなく。それが言語の起源であるという。

 またエリック・A・ハヴロックのプラトン序説を取り上げて、三浦は、「プラトン以前は詩人は叙事詩を丸暗記している琵琶法師のようなものだった、歩く辞書だったが、詩人がそういう存在だったからこそ、プラトンは「国家」でその国家から詩人を追い出し、文字で自分の考えを持てと言った」という説明とかが面白かった。

 近代日本は、外国を崇拝し憧れる卑屈な外的自己と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己とに分裂していた。そしてアメリカにレイプされた云々はまあご愛嬌のような議論だが、そこそこ楽しめた。

 「諸君!」における対談「中国の害毒から日本の山河を守れ」は笑える。特に安田喜憲がひどい。岸田秀もかなりひどい。加藤徹...

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2021年2月1日

読書状況 読み終わった [2021年1月31日]

 反米反中は思想・哲学としては考えられていいし、考えるべき重要なテーマだが、政治の次元では論外どころか論外以下の議論であることがよくわかる書物。大人としての常識の正解をキープすることの大事さ、難しさが書かれている。国同士が連携することの大事さと、困難が、よくあらわれている。
 一貫しているテーマは「敵と似た者となるな」だろう。

 著者は言う。
 「敵と似た者となるな」。そう米国社会を諭したのは、冷戦戦略の構築者ジョージ・ケナンであった。一党独裁のソ連に対して、ある意味で民主主義のアメリカは不利である。そうケナンは認識していた。
 「敵と似た者となるな」。アメリカの強みは個人の自発性を尊重する活力に満ちた市場経済であり、民主主義である。
 ケナンの対ソ戦略は、ロシアの歴史と社会を内在的に分析し、その強さと弱さを知ったうえで構築されたものだった。
 一方ネオコンの戦争は相手への内在的理解など必要としない。普遍的理念や絶対的価値を口にする人ほど、他人を容易に葬る者はない。しかしケナンは違う。
 彼はロシアの外交伝統とその国内基盤を説き明かした。ロシアの仮借ない権力政治と膨張主義の伝統、それはロシアの安全保障上の脆弱性や不安と表裏となしている。ロシアは外部勢力に根深い猜疑心と敵対意識を持つが、外敵が強大である時、忍耐強く待つことができる。ソ連政府は米国の工業力と軍事力の恐ろしさを知っている。だから米国が堅忍不抜の意思をもって、ソ連の軍事膨張を許さないことだ。長期にわたり「封じ込める」ことによりソ連の内部変化を促す、それが対ソ基本戦略たるべきだ。

 これだけでも、では日本の外交はどうすべきかが、見えてくるような気がするのだが、どうだろう。

 橋本内閣による九六年の日米安保共同宣言など、日米同盟の拡大強化によって二一世紀の安全保障を担う方向が日米間で合意されている。戦後史における最大の業績は、日米提携を半世紀で終わらせず、二一世紀への資産として残したことである。著者はそう評価をくだす。

 そして「自衛」についてはこう述べる。
 国際的連携がしっかりしている時に、自助努力はとりわけ効果的である。もし米国、中国など主要国との関係が崩れていれば、自助努力をいくらしたところで、安心・安全は得られない。良好な国際環境の下でこそ自助努力は生きる。インド洋での給油活動、ソマリア沖の海賊対処活動は極めて重要である。
 現代の世界では、軍事力は自分で自分を守るというレベルではなくなった、良好な関係を築きつつ、そのうえで訓練・自助努力を入り込ませる。そこまでシビアであるのだ。

 日本の安全と、生存のための経済活動は、国際的な連携によらずして全うしえない。

 著者は、六万トンをこえる巨大な不審船を小ぶりの海上自衛艦一隻が追尾し、停止させ、臨検を行う演習のとき、水平線のいたるところに米英仏豪の軍艦が浮かんでいたことを例に出す。様々な国家と連携して、はじめて勝てるのだ。
 そして現在、日米同盟を損なっては、日本の安全は成り立たない。それとともに、オーストラリア、インド、韓国など、海洋の自由を重視する国々との提携・協力を強める。かつ、中国を敵にしないことが大事。相互利益を土台に一定の協力関係を維持することである。中国から見て、いまいましいが手が出せない、やはり協力関係が中国自身にとっても利益だ。そういう存在になることが日本として偉大なことである。最も危険なのは、無謀な反米論・反中論に政治家が媚びて振り回されることだろう。これに尽きる。

 読んでいて面白かったのは、アメリカ外交の分析だ。非常にわかりやすく述べられている。
 アメリカは「普遍的価値」「経済的利益」「地政的考慮」の三つのロジックを組み合わせて外交を展開させる。...

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2021年1月31日

読書状況 読み終わった [2021年1月31日]
カテゴリ 経済・政治

 表紙の絵は良い。

 レビューをざっと読んで、気になった映画。
「港の日本娘」「花つみ日記」「野戦看護婦」「卍」「火星のカノン」「よこがお」「制服の少女」「女たち」「私、君、彼、彼女」「Go! Go! チアーズ」「残夏」「マルホランド・ドライブ」「マリー・アントワネットに別れをつげて」「恋物語」「コレット」「第三夫人と髪飾り」「若おかみは小学生!」「ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン外伝ー永遠と自動手記人形」「キャロル」「リズと青い鳥」

2021年1月31日

読書状況 読み終わった [2021年1月31日]
カテゴリ 星海社新書

 大日本帝国政府(敗戦)と徳川幕府(明治維新)を比較し、その歴史の繰り返しのされ方を述べ、更には三度目の繰り返しがあることを述べた本である。

 まず加藤は山本七平「現人神の創作者たち」を取り上げる。
 武士にはもともと「正統」という意識はなかった。徳川期にあっても「譜代以外は徳川家に忠誠を尽くす義務はな」いから、徳川以上の大名がでてくればそれが天下人になって「一向にかまわない」。そこで、徳川は幕府を作ると、「官学としての朱子学の採用」に踏み切る。自らの正統性=合法性を基礎づけたいからだ。そして水戸を中心に厳密な歴史の編纂がはじまるが、その結果、長い年を経ると、その目論見に反し、「『幕府』という存在は一種の非合法政権になって行かざるを得ない」。「天皇は正統性をもち、その天皇から将軍に宣下されたのだから徳川家は統治権をもつ。故に徳川家に反抗するものは反乱である」。これが朱子学の理屈だが、この論理からは、当然、その逆も真、もし正当性をもつ天皇から宣下された勢力があれば、それに抵抗するものは徳川家であろうと反乱である、が導かれるのである。

 つまり、大胆に言うと、国を統治しようと徳川幕府が朱子学を採用し、日本史もしっかりまとめあげようとしたのだが、そうすると、徳川幕府は天皇のもと、いつでも交代可能な、仮初の存在になってしまった。

 歴史の編纂はこうして、あるべき正統性の権威(=現人神の像、O正統、天皇)をますます手の届かないものに高め、定置し、強化していく一方で、現政権(L正統、自民党であったり徳川幕府であったり)の合法性を限りなく疑わしいものへと低下させていく。そして、この思想が徐々に広まると、黒船到来から、尊王の志士が生まれる。彼らは攘夷の念に燃え、今や自分を「天皇に直結していると感じ、領主も将軍も無視して尊皇運動に加わる」。封建制への否定であり、中央集権的絶対主義への志向であり、日本近代化の決定的な要因になる。この趨勢のなかから、「現人神」という観念が析出されてくる。

 しかしだ。

 黒船が来た後、尊王攘夷運動が起こり、革命がなされた。幕府がなくなり国ができた。するとその国は、もとの尊皇「攘夷」思想を捨て去り、まったくそのようなことがなかったかのごとく、それを消した。「一億総転向」という状態だ。まるで穢れを避けるかのように、かつての攘夷をどこかに流してしまった。

 そもそも朱子学では、天の秩序(自然の法則)と内心の秩序(先験的な道徳法則)は一致する。これが江戸から明治への「誠」である。いわゆるヨガの逆みたいなものか。(陽明学の議論はとりあえずぜんぶすっ飛ばす)しかし昭和にはこの「誠」は変化する。それは「自己の内なる感情にあくまでも誠実、自己絶対化」であり、天と心の一致といった哲学ではない。いわゆる今のヤンキーのようなものだ。

 薩長は攘夷に走った。そして薩英戦争、下関戦争でぼこぼこにされ、「外の世界」を知って転向した。尊皇攘夷ではなく、尊王開国して、外の世界を学ばねば、と薩摩と長州は変化した。
 明治維新後、外の世界か朱子学か、という「関係(外の世界をしって現実を味わい意識が変わる)」と「内在(天と自己が一致する静的な世界。観念の世界)」の対立軸は消えて、次の軸「中央集権(政治的集中)か民権論(底辺拡大)」にうつる。

 流れとしては、最初は排外。次に挫折からの転向。排外であったことを忘却し、進歩的になる。より下部の具体的運営議論に移る、となる。

 これはアメリカとの敗戦によって再度繰り返される。
 皇国中心思想がぼこぼこにされ、皇国親米思想となる。右翼団体でさえも、反共親米を唱える。
 その際、やはり重要なのは、「忘れる」ことだ。
 一つは、攘夷または反米であったことがまったく消え...

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2021年1月31日

読書状況 読み終わった [2021年1月31日]
カテゴリ 国の学び

(P144)「カリフォルニアを白く保とう!」という露骨な人種差別的スローガンを掲げた民主党がカリフォルニア上院で勝利を収め、さらにルーズヴェルトの方針に協力的で、排日運動に関して消極的だった共和党のジレット知事が知事選で敗れます。

 と、民主党が昔からどういう党であり、共和党がどうそれに対して動いたかが、日本人差別を例によくわかるように書かれてある。

 また、キリスト教徒からの侵略を防ごうとする秀吉について取り扱った章の参考文献は以下の通り。
・藤田みどり「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」、小堀桂一郎編著『東西の思想闘争』
・岡本良知「十六世紀に於ける日本人奴隷問題」
・岡本良知「桃山時代のキリスト教文化」
・高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」

 岩田氏の語り口は実に丁寧で、かつ、バランスが良い。第二次世界大戦は、いったいなぜ戦ったのか。その背後には、白人による世界中への侵略があった。しかし、日本においてそういう西洋からの植民地支配の研究について調べようとしても、おそらく論考としては数が少なく、日本は、世界各国がどう侵略されていったか、もっと研究を積み重ねるべきだと述べている。(西尾幹二は、アメリカがなぜ日本と戦争するのか誰もまともに答えられないし、納得のいく答えが見つかっていないと述べていたのを思い出す。西尾はそれを「歴史の闇」と述べていたが、岩田氏は「人種差別」とはっきり述べている)なので、岩田氏はヘイトにも近いような右派の韓国・中国バッシングには距離を置く姿勢だし、岩田氏は誰もが常識的に納得できる「落としどころ」を抑えているので、読んでいて主張が明確にわかる。

 大東亜戦争の原因を説明するものとして、大きく分けて四つの説がある。
①侵略戦争説
②ルーズヴェルト陰謀説
③コミンテルン陰謀説
④暴発説

 ①の侵略戦争説だと、日本がアジア諸国を力づくで侵略したという説明の仕方だが、この説明の難点は、どうしてアメリカと戦争状態に陥ったのかが説明できない。
 様々な原因が複雑に絡まって勃発した大東亜戦争を「侵略戦争」の一言で済ませてしまうのは、あまりにも粗雑な議論と言わざるを得ない。一般的には、「日本政府は中国からの撤兵を求めた国際社会の要求を拒否、中国への侵略戦争を続けるためにアメリカなどと戦争を始めたのです」と言われているが、しかし、自分達の国力を遥かに超えるアメリカに対して、中国の戦争を継続したいからという愚かな理由だけで攻撃を仕掛けたというのでは、納得できない。
②ルーズヴェルト陰謀についても、日本にアメリカを攻撃させることで、日米戦争を開始させ、その同盟国であるドイツを攻撃しようと考えたというものだが、三国同盟では、日本がアメリカに宣戦布告をしても、ドイツが同時にアメリカに宣戦布告するようなものになっていなかったし、全部をルーズヴェルトの陰謀にするのは極端すぎる。③共産主義者陰謀説もそうで、彼らが日本の対ソ戦を回避しようと躍起になっていたのは事実だし、影響はあるけれども、彼らの謀略がすべて成功し日米が開戦に到ったというのも、短絡的すぎる。
④暴発説は、昭和初期の軍人、とりわけ軍人の驕りが戦争の原因であり、彼らにはリアリティが欠如していて、無謀な戦争を起こしてしまったというものだ。しかし、いかに昭和の軍人が愚かな存在であったにせよ、彼らは何の理由もなく戦争を始めたのだろうか。大義名分の一切立たない愚かで無謀な戦争を始めたのだろうか。確かに愚かではあったが、あまりに一方的すぎる認識ではないか。軍人たちが暴発し、すべてをコントロールして、戦争まで持って行く。しかも大義も何もなく。そのように片付けられない何かがあるのではないか。

 本著は、「世界の歴史にはずっと人種差別の歴史があり、...

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2021年1月31日

読書状況 読み終わった [2021年1月31日]
カテゴリ 国の学び

 アダルト小説は、きっかけ・描写・オチに大きく三つに分かれていて、特にきっかけから描写までのリズムは早く、描写がとにかく長く、内容はエスカレートしていき、最後のオチは映画の終わりのようなエンドを迎える。
 この本におけるキーアイテムは「フレアスカート」だ。とにかくフレアスカートが出てくる。そんなみんなフレアスカート履いてるんか!?
 最初の話のオチは、不倫した人妻が、男がやってくるのを玄関で待ち構えて、やってきたと思って「尻の穴をなめまわして!」と叫んだら、「お、おい、亜希子」と、それは間違いなく夫の声だった。
 バッドエンド!
 エロ小説のバッドエンド率は70%ほどあると思える。因果応報である。

 2番目の話。タイトルはセクハラクリニック。展開は名前の通りである。オチは「セクハラ産婦人科医師を逮捕!」のニュース。バッドエンド! と思いきや、主婦の奈津美は、ネットに出回ってしまった隠し撮りされた自分の動画を観たいと発情して終わる。

 3番目の話は、元上司に調教される話。基本的に、「調教」が非常に多い。カップル喫茶にハマったりしつつ、その元上司に調教されたまま話は終わるので継続ノーマルエンドである。なんでエロ小説の人妻はこんなにほいほい言うことを聞くのだろうか? 疑問はすぐに解ける。エロ小説だからである。

 四番目は女教師が生徒に手を出す「教え子への禁断奉仕」。タイトルの通りである。で、オチは、女教師がやったことが生徒から週刊誌の記者に情報が流れて、バッドエンド!

 第五話は「同級生との危ない遊戯」。これもタイトルの通り。流れもそのままで、同級生と不倫する話だ。ケツを叩く描写が多く、パシーン!パシーン!と音が鳴る。オチは、同級生の女性とことをすませた同級生の男が飲み屋に一人で行く。そこにはその男の中学時代からの悪友がいる。
《乾杯のビールもそこそこに、富田のスマホを覗き込んでいる。
「俺の勝ちだな。やっぱり美紀は俺のことが好きだったんだぜ。ま、俺もマジでやりたかったから、賭けに乗ったんだけどな。ほら、一万円オールだぞ」
「くうっ、あの美紀が、こんなこと……たまらんな」
「じゃあ、次のチャレンジャーは誰だ?」
「よし、俺がやる。ターゲットは千穂でいいか。新婚だからオッズ高いぞ」
 クラス会で配られた名簿が、こんなゲームを生み出した。》
 「こんなゲームを生み出した」と、突如読者にゲーム紹介がなされる終わり方が味わい深い。
 うーん。
 文学エンド!

 最後の収録作のタイトルは「快楽を運ぶ宅急便」。魔女の宅急便を彷彿とさせるタイトルである。内容もタイトルのままであり説明は不要である。
 行為に及んで終わり、人妻玲子の家から運送屋の男が去っていったあと、入れ違いに小1の息子が帰ってくる。郵便受けのうえに置いてあったという段ボールを持って。玲子は段ボール箱をあける。一枚のメモがあった。そこには、『ほしいモノ、着てみたいコスチューム、してみたいプレイなどございましたら、いつでも御用命ください。できる限り迅速に対応させていただきます』と、連絡先とともに書かれてあった。
(ふふっ、セーラー服でも注文してみようかしら)
 玲子はうれしそうに、息子の頭を撫でた。

 文学エンド!

 このように、バッドエンド、文学エンド、継続ノーマルエンドの三種類がエロ小説にはあるし、そしてタイトルが内容のすべてを表しており、小説の本懐を思い出させてくれる。

2021年1月30日

読書状況 読み終わった [2021年1月29日]
カテゴリ 日本小説
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 こんな有能な旦那が欲しい。普通に凝った料理だし、正直言って意識が高すぎる。賢すぎる。だから、この本のタイトルは非常にミスリードであるように思える。
 読む前に想像していたのは、
・スーパーで安く買えてお得なものベスト10(料理する必要なし)
・卵を焼いて、これをかけるとおいしい塩ベスト10(塩をかけるだけ)
・めかぶと納豆を買うだけで栄養バランスが取れる証明

 そう、料理はワンステップしか求められていない。
 醤油をかけるだけでおいしいもの。
 サーモンに柚子胡椒をかけるとビールが止まらなくなるとか。

 そういう意識の低さである。

 しかし、この本は、意識の高い、凝りに凝った節約料理と、なかなか面白い料理エピソードが満載で、まったく「生き抜く」参考にはならない。

 ただ、高級料理店での、むかつくエピソードは面白い。
 こういう、金持ちども、もしくは人間の醜さ(国内、海外含む)を書いたエッセイを、星海社新書で発刊してはどうか。そのほうが、絶対に良い。

 キャバクラ前の同伴だらけのうなぎ屋の不機嫌な店員とか。

 それと、百貨店のレストランに外れ無し、は、本当にそう。うすうす気付いていたけど、ついつい隠れ家レストランにチャレンジしてしまう。そして何度騙されたことか。あんまり知らない人と食事するときは、まずは百貨店のレストランだと思う。そのほうが、店で失敗する確率が非常に少ない。
 あと、イタリアは何を食べてもおいしいというが、人種差別があったり(アジア人は地下室、白人は日当たりのいい一階に案内される)、ランチが最低4000円かかるとか、サイゼリヤで普通にうまいという結論にも頷かされた。

 というわけで、タイトルと内容はあってないが、中川ファンは大喜びの一冊だ。

2021年1月29日

読書状況 読み終わった [2021年1月29日]
カテゴリ 星海社新書

 本著の核心部分ではこういうことが述べられている。

《すべての悪は行為から生ずる以上、悪を避けたいと思うならば、行為の拒否である怠惰を推奨しなければいけない。何もしなければ悪は起きないのだ。そもそもこの世に生まれなければ、私が苦しむこともなく、私がこの世に私の子を生まなければ、私の子が苦しむこともなかったのと同じように。》

 昔、とにかく仕事をしない人A君がいた。あるイベントで、そのイベントのマガジンが発刊されていたのだが、そのA君がそのマガジン発行の責任者をやると言い始めた。A君はイベント内の人物として、まったく仕事をしないリーダーで有名だった。私や、他のスタッフのサポートでなんとかイベントは成立していた。しかしそのマガジンについては、まったくサポートはつかないのだ。A君の自力が試されるのだった。
 そして、一号も発行することなく、マガジンは休刊した。そうそうたるメンバーが歴代編集長になってきたのだが、A君のおかげでぶっつぶれた。そのぶっつぶれ方も、鮮やかなものだった。
 A君は何もしなかった。
 何もしなかったのだ。
 だから、イベント上、なんのトラブルも起きなかった。楽しみだったマガジンなのに~という愚痴も聞かれなかった。塵芥のように消え去った。どうしてこのような鮮やかな撤退が可能だったのか?
 そう、本著が述べるように、「何もしなかったから」だ。だから、イベントに対してアンチである人らも、このつぶれたことを話題に出すことはなかった。話題にできないほどの消え方だからだ。
 しかし、このマガジンは、実はイベント運営にとって少し負担になっていた。誰かやってくれる人はいないか。扱いに困り果てていた部門だった。
 A君はそれに対して、やる気満々で、俺がやると述べ、そして何もせずに終わらせた。ある意味、イベントの運営を救ったとも言えなくもない。
 何もしないこと。しかも、自分ではやる気満々なのに、ついついネトゲと酒で毎日過ごすことで、まったく何もしない。究極の堕落をしてしまうことで、イベントを、もしくは僕たちの負担を救ってくれたのだった。
 この本を読んで、ずっとA君のことを思い浮かべていた。真の堕落とは、もしくは怠惰とは、もしくは生き方とは、反出生とは何かと答えるのならば、「とにかく何もしない」というのではない。むしろ「やる気満々で手を挙げて、一切何もしないで酒飲んでネトゲする」という方が最強だと思える。布団の中でただ寝転がるのではなく、みんなを巻き込んでプロジェクト責任者になってから熟睡する、この気持ちの良い睡眠! しかも何もしないことによって、部門がつぶれ、それによってコストが削減され、組織がうまく動くようになったのである。

 彼はその後、落ち込んだであろうか?
 否、断じて否。
 楽しそうに笑っていた。
 酒を飲んで、落ち目のメジャーリーガーよりも自分は持ってる、と笑っていた。メジャーリーガーであったある日本人がケガなどで日本に帰る羽目になった。その映像を見ながら、A君はにやりと笑って、俺はモッてる。持ってる。そう、呟いたという。
 ああ、シオランも裸足で逃げ出す思想家だよ、A君!

 しかし、A君ほどの強さを持たない人間はどうすればいいのだろうか。怠惰の哲学を実行できるのだろうか。
 そもそも、怠惰人間には、「巻き込まれ」がない。
 怠惰人間は、行為の拒否によって社会からつまはじきにされるが、そのかわりに行為の錯乱から、完全にではないまでも、身を離すことができる。

 要するに、真の自由を求めるものが怠惰人間なのだ。

《自由とは、他人に自らの流儀で生き、そして自らの流儀で死ぬのを容認することを意味する。ところで情熱的な確信者ほど、この自由を実現することから縁遠い存在もない。確...

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2021年1月29日

読書状況 読み終わった [2021年1月29日]
カテゴリ 星海社新書

 最初に赤ずきんやオオカミを登場人物にして、トラウマや自分の殻を乗り越えるストーリーは書かれている。後半から、色々と重要な点に触れて行っている。

「ジュディス・ハーマンによる回復の3段階」として、
・安全、安心の確保
・再体験(安心できる関係の中で、語ったり書いたりして過去を再体験する)
・社会的再結合(社会的なつながりをつくる)

「メアリー・ハーヴェイによる回復の7段階」として、
・記憶想起の過程の主体者になる
・記憶と感情の結合
・感情耐性
・症状統御
・自己尊重感とまとまりある自己感
・安全な愛着
・意味を見出す

 愛着障害を治すための方法とよく似ている。「居場所の確保」「キーパーソンと、サブキーパーソンの設定」「治療対象に役割を与える」といったことが愛着障害治療にあるのだが、本著でも、ほぼこれに近い流れがある。

 被害者にとって大切なのは、症状が出てきたとき「これは症状なんだ」とわかること。その状態に対処できること。そして、どんな時に症状が出るのかがある程度わかって、あらかじめ備えができることです、と筆者は述べる。
 そして、「被害・加害の関係にはまらない」ということが大切であり、仕事、役割があることに繋げていくことの大事さが書かれてある。被害と加害はもちろん事実としてあるので、ゆるぎないのだが、結局被害者であることを胸に刻み続けると、そのたびに加害者が内側から現れて何度も自分自身をズタズタにしてしまう。被害・加害の枠組みから逃れることは、これ以上加害者に自分自身を傷つけさせないためである。つまり加害者をぶっ殺すためにも、被害・加害の枠から脱することは大事なのだろう。その枠から脱するには、重要なのは、己に仕事があること、社会のなかでの自分がいること、である。それが自己尊重感につながり、「私は汚されてしまった。何者にもなれない」から「何者かであること」に進むことができる。よくマンガとかで●●四天王とか出てくる。四天王はそれぞれが個性的だ。そしてそれぞれが何者かであり、何か能力を持っている。もちろん過去にはそれぞれつらいものを背負っている。しかし、四天王の一角を占めることにより、戦えるわけである。

 白川氏の最大の仕事は震災時、被災地で被災者の心のケアにあたったことだろう。被災者と地域の回復プロセスには、かなりの力と、まっすぐな論理が貫かれており、非常に明確でかつ正確だ。

 被災者が日常生活を取り戻し、コミュニティが機能を回復するまでには、一般に次のようなプロセスを経ると言われている。

1 英雄期(災害直後)
多くの人が自分の危険をかえりみず、勇気ある行動をとる。
2 ハネムーン期(1週間から6カ月)
たいへんな体験を乗り越えた被災者が強い連帯感を感じ、助け合いながら危機を乗り越えていく時期
3 幻滅期(2ヵ月から1,2年)
被災者の忍耐が限界に近づき、支援が行き届かないことや行政サービスへの不安、やり場のない怒り……ケンカなどのトラブルや、飲酒問題も起きやすくなります。同じ被災者でも状況がさまざまに異なることから、地域の連帯も失われがちになります。
4 再建期
被災地に「日常」が戻りはじめ、被災者も生活の建て直しに目を向けるようになる。復興ムードが高まる一方、そこから取り残される人も出る。

 幻滅期には支援者・被災者みんなにバーンアウトの兆候があらわれる。「みんなつらい思いをしてるのに、よくそんな呑気でいられるものね!」といった態度やブラックユーモアが多く出始める。
 書かれていることに、非常にリアリティがあるし、かつ、客観的に書かれてある。この被災地での四段階の「期」を知っているか知らないかだけでも、どうすればいいかそれぞれが考え対処できる有効なツー...

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2021年1月29日

読書状況 読み終わった [2021年1月28日]

 ついこの間だが、維新の会支持者の上司が、嬉々としてこう述べていた。
「これからはAIやで~。AIやで~、お前らのやっている事務仕事は、これからAIが全部やってくれるんやで~仕事なくなるで」
 私たち下っ端は、決して抽象化され得ない奇々怪々の現実を最前線で相手取って事務仕事をするので、おそらくAIに代用させるのは膨大なコストがかかるだろう。というか、事務仕事の一番重要なポイントと、ビッグデータは、とても相性が悪い。事務仕事とは、固有名詞と数字を扱うことである。固有名詞はビッグデータにはならないし、数字はあえていえば「AIが出した後のもの」である。これからはむしろ、AIに処理不可能と排除された人々を相手取るのが人間の役割となるだろう。AIに適度に処理されていく人間となるか、そうはならない人間となるか。その部分を丁寧に見て行って処理することが事務仕事のこれからとなるのかもしれない。よって、仕事は増えていく。これからも、単純に、必要になるスキルは「ほうれんそう」ができることと簿記とエクセルを使える力ぐらいのものである。

 この上司は、新しい社員が入社するたびに、「この人はめっちゃパソコン使えるねんで~」と私にどや顔を浮かべてわざわざ告げに来る。いったいなんの意味があるのかわからないが、その新しい社員は6名ほど入ってきたが、みな辞めていった。あまりにも馬鹿馬鹿しい職場だからだろう。天下り先みたいなところで私は事務仕事をしているので。なので、仕事が終わったあとが、私の人生の本番である。なんで辞めないでいられるかはわからない。転職が怖いだけだろう。

 さて、本書はその上司や維新の会が、コスト削減や、改革のために使う便利な言葉である「AI」という単語を非常にわかりやすく説明した良い本だと思う。

 AIは勝手に考える神のようなものではない。
 あくまで人間の手で制御されるものである。
 その核心部分は実にシンプルで、「褒められたらその行動をより多くとるように効用関数を変化させ、怒られた場合にはその行動を抑制するように効用関数を変化させる」のだ。
 このようなAIの調整力における、どれだけそれらが良かったか、AIがなにを達成しないといけないのかをフィードバックする「親」に相当する部分を「目的関数」という。
 目的関数は「こういうAIが欲しい」という目的部分の評価軸だ。目的関数は最初に人間が設計する部分であり、これらは多くの場合シンプルなプログラムで記述される。画像認識なら「AIの出力の正解率」を計算して出力するプログラムである。

 AIと言えば、人間のように思考するものだと考えがちだが、現在のAIというものは、ジョン・サールにおける「中国語の部屋」という思考実験と同じであるという。中国語の手紙が届くのだが、部屋の中の人間はそれが読めない。でも、手元にマニュアルがあり、こういう中国語が来たらこういう中国語を返せと書かれてある。人間はそれで返事してやり取りを成立させるのだが、これは人間が中国語を理解していると言えるのだろうか、でも完璧なやり取りはできているのですよ?といった思考実験だ。
 AIは自身のプログラム(マニュアル)に従って出力しているだけであり、外からの入力に何かを感じたり考えたりしている訳ではないのである。「人のような人工知能」は制作不可能であることをこの中国語の部屋の思考実験は示している。

 また論語の中に、「子曰、由、誨 女知之乎。知之為知之、不知為不知。是知也。」という話がある。
「「知る」ということは、知っていることを知っていると、知らないことは知らないといえることだよ」という意味だ。ソクラテスも似たようなことを言っていた気がする。この哲学上最も有名なこれが、AIにとっての最大の壁となっている。
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2021年1月28日

読書状況 読み終わった [2021年1月28日]
カテゴリ 情報科学

P103
また原作では、ヒロインの相手役は別の女性の支えもあって立ち直る。しかし『金色夜叉』の貫一は金への憾みと執着から、冷酷無情な高利貸になり金の亡者となり果てて、みずからの誇りや人生の意義も見失っていく。高利貸に、「こうりがし」(=こおりがし・氷菓子)という発音の類似と、厳しい取り立ての冷たいイメージから、「アイス」という異名を与えて流行語にしたのもこの作品である。宮と貫一の人生は、後年ふたたび交錯するが、その展開も原作とは似て非なるものであった。

 いやいや、「ピンプ」の「アイスバーグスリム」よりも先どりしすぎやろ、このアイスの異名……は、さておいて、この本、非常に面白く、それでいておさえる所をおさえた最高の近代文学入門となっているように思う。

 円朝と二葉亭四迷の、耳から目へ移動するさいの、落語速記本と、それから、「勢いで書いた」という偶然性の面白さ。やはり、音の蓄積、落語のリズムの蓄積、それが言文一致につながり、日本の近代文学の始まりとなったのだ。「リズム」が近代文学の誕生の核心であったことが述べられているように思う。

 それから、一葉と三宅花圃からみる、女流作家たちの萩の舎でのしのぎの削り合いと、書いてお金を稼いで生きていく様。
 痩せ世帯の大黒柱とセレブお嬢様。お金持ちであるはずの三宅花圃も葬儀代を出せないほど苦しんでいたが、社交界を描写する小説で人気を出し、無事に葬儀を行えた。
 一葉の強みは貧しい中で触れ合った人々、苦界の人々を描き出すことができたということだ。
 この対照的な世界の見方の差のある二人を、同門同士として描き出していく。

 尾崎紅葉と泉鏡花における、西洋や東洋の種本を使って、翻案していく、師と弟子の流れ。(金色夜叉の原作、パーサ・M・クレーの「女より弱き者」など)この師弟関係も、西洋と東洋の種本の対比が面白く書かれている。

 次は、小説のための新聞(夏目漱石)か、それとも新聞のための小説(黒岩涙香)か。漱石は近代社会における個を追求し、弟子にその深遠なテーマを受け継がせていった。そして涙香は西洋文学を次々に翻訳し、また自身も書き、自然主義の殻をやぶり、大衆文芸の原点をつくり、現代のエンタメにつながっていく土台を作り上げた。
 もし純文学と大衆文学の分かれ目があるとするのならば、「漱石と涙香」が決定的なのかもしれない。

 ほかに、鴎外と花袋における反自然主義と自然主義、菊池寛と芥川龍之介における生活第一と芸術至上主義。各章二人ずつを対比させながら、近代文学における重要なポイントを押さえていく。入門として究極の一冊と言えると思う。

2021年1月12日

読書状況 読み終わった [2021年1月12日]
カテゴリ 文学批評

 かなりの名著だと思う。大人になるとはどういうことか、というタイトルにしても良い。また、オウムと、私たちの社会がそっくりであることと、それを認めない日本人の心性に迫った本だと思う。

 私たちが普段から求めている何かとは「なんとなく追い詰められている自分に親近感を持たせてくれるようなもの」だ。
 日本という国は、「会社」という宗教に汚染されている宗教社会であり、自分のことを理解してくれて導いてくれる「上司」が現在の日本人が求めているものだ。
 自分の頭でものを考えられない人間の、絶対者からの指示待ち状態。それが宗教であるならば、会社もオウムもさほど変わらない。むしろほぼ同一といっていい。

 では、指示待ちでなく、自分の頭でものを考えればどうか。自分の頭でものを考えると孤独になり、様々な苦難がふりかかる。当たり前である。
 自分の頭でものを考えて、それで孤独になるのなんか当たり前のことじゃないか。”自分の頭でものを考える”ということは、”一人で考える”ということなんだから。
 でも人は、「私はバカなので理屈であれこれ考える」ではなく、「私はバカなので宗教や誰かを信じれば救われる」という方を選んでしまう。
 ”日本教”の最大の教理は、「自分達はやつらと違う、やつらは自分達と違う」である。
 だからサラリーマンは自分たちがオウム真理教とそう変わらないことがわからない。

 オウムの青年たちは、世間的過去を共有しない「濃厚すぎる関係」だけがあって、人間関係というものはそういうものだと、勘違いしている。だから、宗教という濃厚の中で、オウムの信者はバラバラになっている。「それを知らないで”大人”もへったくれもない」という事実が、平然と隠されている。
 また宗教でもなんでも「特別な自分になって今までの屈辱を一挙に清算してやる」と思ったって、そんなことが”解脱”につながらないのは、もちろんのことである。何も考えませんと言っているのと同じことだ。
 仏教の根本は、そして悟りとは「一度で死ねるただの人になること」であるのだから。

 「ただの人になれるかどうか」。それが、自分の頭でものを考えることである。

2020年12月30日

読書状況 読み終わった [2020年12月30日]
カテゴリ 宗教

 米と塩、鉄、柱など、「物」や「食」によって古代から神話までさかのぼりながら歴史を解説していく本。神話についての解説も、日本武尊が農業を広める話であることも、鉄が昔から作られていて、鉄の権益が非常に重要だったことも、だいたい説得力があった。怨霊史観についても、古代においてはありえないと一喝している。騎馬民族征服説についても、馬をあやつる者は必ずズボンを履いているが、古代の日本ではズボンをはくことはなかったし、征服は一気になされるものではなく、必ずだんだんと騎馬民族の征服の痕跡が、支配する(とされている)時代のまえからあるはずだがそれもない、と、一蹴している。西洋的な奴隷のはじまりを、完全な形で存在するようになったのは桃山時代の京都島原の遊郭であり、周囲に柵をつくり、家の窓を格子でふさぎ、逃亡を監視した。こうした犯罪人ではない人間管理の最も古いものは遊郭であり、奴婢と西洋の奴隷はまったく違うことを論じているP200はおもしろかった。奴婢があまりに大仏建立の現場から逃げるので、奴婢を派遣している主人の方が奈良に引っ越してしまうという具合だ。柱のまわり方が、伊邪那岐と伊邪那美で、左上右下は礼記の影響というところとかも勉強になった。古代の勉強の一歩目のような感じの本。

2020年12月29日

読書状況 読み終わった [2020年12月29日]
カテゴリ 日本史

 音楽を哲学的に考察し、様々な音楽論の次なるベースとなるような本。
 音楽とはそれが鳴り響いている時間と場所そのものに他ならないという。
 一冊を通して、筆者は、何かを戦っているようだった。それはたぶん、音楽を、何か批評の道具にしたり、もしくは国をまとめるために道具にしたり、逆に反国家の道具としたり、もしくは音楽評論によって、このジャンルはこう、このジャンルはこう、と、その自由さをコトバによって整理してしまうこと。
 その、分類、批評、評論、整理といったものに対して、二項対立を、「対立」ではない、二項一致、それどころか、それぞれの項に、その逆の項が含まれているということをフィールドワークで証明しつつ、音楽を「意味」から解放し、本来の時空間にかえす仕事が一冊でなされている。
 そこで語られているのは、人が音を生む、音が隷属的立場にあるというのを逆転させ、「人が何かに働きかけて音楽が生み出されるのではなく、音が人を「癒し」へと誘うことによって、新しい音の出来事で織りなされた世界が現れ、再び日常の中で生きられていく。」と述べる。
 レヴィ=ストロースは神話に「意味」や「目的」を読み取ろうとすることをやめようとした。彼は神話がなぜ不可解であるのかと問うかわりに、奇想天外な言説がなぜ「神話」として括られているのか、という問いからはじめた。
 音楽を言語の代替物とみなすことへの反論として、このレヴィ=ストロースの哲学をヒントとしている。
 神話は何かの説明ではなく、語りの時間のみにおいてそこに描かれている世界が開示される。音楽もそうなのだ。
 そこから、音を奏でることについて、アフォーダンス理論で説明がなされる。
 人が木魚を叩くとはいえず、木魚が人に叩かれるともいえない。木魚のアフォーダンスによって、木魚が人に自らを叩かせていると捉えなくてはならない。人はアフォーダンスの媒介者となり、送り手・受け手の関係のように役割を分裂させて考える必要はなくなる。音と木魚の間のメディアとして人がいるのだ。
 悲しいから、あるいは楽しいから歌うことは自明のことではない。音楽の動機について語ろうとする言説は、音楽が鳴り響く時空間を正当化する言辞に過ぎない。音楽に「なる」ことはそのまま生存することなので、音楽を困難にする社会環境で音楽の響きが一層の輝きを放つのは不思議なことではない。
 音楽がある、と感じて、音楽となるこの瞬間の状態。構造は、常にパフォーマンスの場における出来事によってしかその姿を現すことがない。

 本著は、一冊を通して、音楽を言葉や人間より上位に、むしろ「文化」という言葉と音楽は同義語であるとして、音楽のライブ性、街中で鳴っている汚い音も、ひとつの「いまここ」のライブとして、「音楽をいきいきと語ることは可能か」に挑戦した書物である。そこでは、人間の位置づけを、聴く主体、操作する主体、演奏する主体からずらして、むしろ中間に位置づけさせる中間管理職みたいなところに置くことが特徴的だ。音楽について述べる言葉も、その更に下だ。そのうえで、音楽についてどう語ることができるだろうか。本著では、それについてはあまり述べられていない。しかし、自分が音の中で中間管理職でいたことを語れば、何かそれなりに書けそうな気はする。

2020年12月27日

読書状況 読み終わった [2020年12月27日]
カテゴリ HIPHOP

 ヘーゲルについて全く分からなかったのだが、落ち着いて読めて、面白かった。哲学の入門書というのは、終わりのあたりで、突如、日本人の右傾化を心配したり、日本人の「戦争への反省が足りない」といった言説が登場したりするものだと思っていたので、実に高質で、そして「ですます」口調で優しく読める本だった。
 ヘーゲルというのは、なんだか、人間がやがてトーナメント形式みたいにスーパーマンになっていく、進歩史観の究極みたいなイメージがあり、また、国家論が、なんだか恐ろしい思想に利用されて、そのおおもとになったような……要するに、でかい哲学をぶちまけた、とにかくでかい人、というイメージだった。
 しかし、本著に描かれるヘーゲルの哲学の解説は、そのイメージからは遠く離れており、まず、「個の確立」、自由と包摂に主眼がある。自由と包摂ある、愛のある開かれた世界を築くためにはどうすればいいか。そのためには、教会と国家の結託への批判、現象の認識の捉え直し、革命や独りよがりな改革的考えに対する批判的視点、個々の内側から普遍へと至る科学的な考えを準備する必要があった。

 主な主張を抜き出していく。



 世俗国家における犯罪は世俗国家が罰し、そして市民法の対象外の犯罪は、すべて「教会という国家」が罰する。教会から破門されると市民権も失う。ヘーゲルはこのような聖俗一体をきびしく批判する。「信仰に関して自由であるという他人の権利を尊重することは、本来、市民的義務である。教会の信仰はすべての個々人の信仰でなければならない」とヘーゲルは言う。ヘーゲルは古代ギリシアの多分に理想化された「自由な民族のための宗教」という理想を抱き続ける。



 イエスの道徳が目指すものは、欲望(主体)と掟(客体)の総合であり、掟は掟としての形式を失い、存在は主体と客体が対立を失ったところにある。



 生きたものは「有機組織」として多数の個体として存在するとともに、個体として対立しあいながらも、「有機的全体」との結合のうちにある。生は、結合(単一性)と非結合(分離・対立)との「結合」であり、有限な生から無限な生へと高まることによって、「生の概念」は「精神」の姿で完成する。しかしこれは宗教の役割であり、哲学の役割は、「あらゆる有限なものにおいてそれらの有限性を示し、理性による有限なものの完成を要求する点にある」という。



 ヘーゲルは、フィヒテ自然法の一番の問題点として「相互に制限しあうものとしての自由」を見ていた。個人がお互いに自由を制限しあい、ひいては個と全体が外面的な関係となり、ついには、権利の侵害を予防するため、市民の挙動を監視する警察国家にすら行きつく、とヘーゲルはフィヒテを批判していた。



 普遍と個別、これらがそれぞれはっきりと姿を現わして、独自の領域をもつようになった。そして、普遍が知の舞台にのぼった。ヘーゲルはこれを近代の特徴とした。「普遍」は「普遍」。「主体」は「主体」と、分けて考えるようになれたことが、近代であるという。



 物を知覚することにも、物には様々な要素があり、それらを全体としてまとめあげているものがあり、要素と全体を結びつけるものが力である。同一でありつつ、非同一。非同一でありつつ、同一であるという「区別なき区別」が超感覚的世界の法則であるということを認識する。そして、対象のうちに自分を見出すに至るのだ。



P93
【ここに新しい意識形態が現われて、この世の秩序を知ろうとします。自分の心のなかのすぐれたものが宿っている、それは人々が当然受け入れるはずと思い込み、「心情の法則」を立てて、それをそのまま世の中の現実としようとします。この意識は、世間をくだらないと批判し、うぬ...

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2020年12月26日

読書状況 読み終わった [2020年12月26日]
カテゴリ 哲学

 ピケティの主張は「賃金が増えるスピードよりも、金融資産(株式など)が増えるスピードの方が速かった」というもので「長期に及ぶ投資のリターンがいかに強大なものかを表した分析結果」といえると述べている。
 あと、株は5%下がったら売れとか、10%上がっても売るとか、ロボットになりきって、考えないことの大切さを説いている。
 未来のインフラに投資することが重要で、介護ロボットの開発や、医療費を抑える予防医学の研究がねらい目であることが書かれている。わたしはベトナムファンなので、ベトナム系投資信託なのだが。

2020年12月26日

読書状況 読み終わった [2020年12月26日]
カテゴリ 星海社新書

 渋い。渋すぎる。そしてこの透明感はいったいなんだろうか。
 巻末に収録されている堀文学をめぐる対談がもっともわかりやすい解説になっている。
 佐々木基一は堀文学について、こう述べる。
「軽井沢なら軽井沢という避暑地の生活とか、ブルジョア生活とか、そういうものを甘やいだ雰囲気に包んで美化して書く。しかし、自分の育った実際の家庭は東京の下町で、およそそういうものとは正反対なものですね。けれども、そういう下町的な暗さを内心に秘めたまま、清らかな、美しい世界を書くということは、やはり自分の内面に相当強く耐えるものがあったと思います。その耐える力の強さが、ああいう一見少女趣味みたいなこぎれいな作品とみえるものを少女趣味に終わらせないで、何か人間の根源に触れたみたいな力を感じさせる。そこが堀文学の生命だと思います。それと病気ということとが重なって、生の極限というか、生命の極限の場所でぎりぎりに生きている」
 実に的確な指摘だと思う。

 また、佐多稲子が「風立ちぬ」が一番好きと言うが、私もそうである。なぜなら、わかりやすいからだ。人物関係もわかりやすいし、他の短編と比べて、人も動くし、悩んだりする形もわかりやすい。病人の描写、特に急に元気になったりするところとかもわかりやすいし、自分だけが健康であることの、死が近くないことへの罪悪感もわかりやすい。風立ちぬは、他の作品と異なり生き生きとしてリアルなのだ。
 また、佐々木基一が「赤と黒」の男女関係と堀辰雄の書くものが似ているところの指摘も面白かった。
 最後の方で、「父」が不在であることが、議論されている。
 佐多稲子「堀さんは父方に対する部分といいますか、小さいときに「坊ちゃん」と言われなければお母さんが気が済まなかったという育てられ方、自分はそこではいつも違う人間だという育ち方をしているわけで、そういうものも影響するかなと思ったりするのですけれどもね。」「私、軽井沢というものが、堀辰雄の中の父方みたいな気がしないでもないんです。」

 私は病気の姉をなくしているので、めちゃくちゃ風立ちぬは読み進めるのがきつかった。楡の家は、ウィキペディアを読んで予習をしてから読むと良い。基本的に堀辰雄文学は予習して読むものだ、と思う。透明感がありすぎて、なかなか初見では見えないものが多いのだ。

 しかし、戦争中であろうが、プロレタリア全盛であろうが、革命が起ころうが、なにがあってもぶれないその堀の作風! これは対談でも評価されていた。この堀文学がまったく堀文学のままであり、芥川文学のように、様々なジャンルを試みるのとは正反対の感じは、非常に面白いところだと思う。ブレないってなんだろう? を考えるとき、堀文学が一番参考になるだろう。

2020年12月22日

読書状況 読み終わった [2020年12月22日]
カテゴリ 日本小説

 片山広子とその娘が出てくる。軽井沢の文学作品。堀は、母娘両方好きなんじゃないか、とツッコミたくなる。芥川の欲望を引き継いだのかもしれない。結局、母娘とも好きなんやろ? って聞いたら、芥川も堀もぐぬぬってなりそうなんだ。さて……。
 この堀辰雄の書く軽井沢の世界。閉じられた世界である。どんな「外」もありえない。
 これは埴谷雄高の「死霊」とよく似ている。山本清風という人物があるとき言った「死霊」レビューが忘れられない。
「死霊は安心して読める」と。
 堀辰雄の小説も死霊と同じく、安心して読めるものだ。すべての登場人物は彼の支配下にあり、男キャラはほぼゼロ。女たちは他の男に目移りすることはなく、ギャルゲーかよってくらいに、映画のように堀に向かって恋をし懊悩し、主人公もまたなぜか懊悩する。完全に演劇の世界であり、そこに合理的な人間像はない。ロマンチックと言ってはそれまでだが、それは死霊がロマンチックな感じがするのと似ている。堀辰雄が生と死と愛のロマンチックであれば、死霊は自我と革命と思想のロマンチックかもしれない。
 そしてそのロマンチックとは、基本的に芥川も堀もゴールズワージーの「林檎の樹」のようである、と、思うのだが、言いすぎだろうか。
 ただ、踊り子に対する絹子の態度はリアルだった。踊り子を人間とは見ていないかのような女の態度。怖いよ。

2020年12月22日

読書状況 読み終わった [2020年12月22日]
カテゴリ 日本小説

 言葉の問題を取り扱った一書である。
 「コトバ=民族」という概念に反し、と、本の発行者の説明にはあるけれども、かなり「コトバ=民族」に近いことをリービは述べているように思うし、この本を、反体制的だったり、何かしらマイノリティ云々のつもりで読むと、肩透かしをくらうように思う。むしろ、コトバ=故郷、であり、中国がモンゴルなどからコトバを奪う戦略をしている理由が、本著によってよくわかる。

 太宰治の津軽の一文を取り上げて、「故郷といえばたけを思い出すのである」と「どこ」と指定しない帰郷について述べている。帰郷とは、「どこ」ではなく「コトバ」なのだ。
 太宰は、この人(たけ)が「自分」を「母」のようにむかえてくれたという「フィクション」によって、「ノンフィクション」の名作の結末を書いた。「架空」というアイロニーをふくめて「母語」だったのだ。

 原民喜の原爆文学について、フィクションとノンフィクションの境をぼやかした描写は、同時に世界各国にとって未来に展開されるかもしれない姿であると、リービは述べる。「証言する文学」は、過去を証言しているだけではなく、未来を予言しているかもしれないと感じられたとき、仏教やキリスト教の地獄を超えて未来像を暗示する。地方都市が普遍的な都市となるのだ。

 日本語で書くということは、たとえ日本人として生まれた書き手であっても、文字を輸入したゆえに、どこかで外国人のように書かなければいけない、そうした課題を背負っているとリービは言う。日本では、書き手は、どれほど能動的であっても、どこかで非常に受身的な立場に立たされる。文化を受ける形で書かざるを得ない。古事記はそういう緊張感があるし、日本最初の文学作品であり、かつ、天皇の人間宣言は古事記でなされている。中国や西洋に対抗して日本というローカルがある、ということが、宣長によって逆転される。ローカルがある普遍に変わる。固有が普遍に変わる。本当の人間の、国の姿が、ここにあるぞ、という主張が古事記にあると宣長は述べる。こうした古事記の面白さは、イデオロギー論争に巻き込むのはもったいなさすぎるとリービは述べる。

 ローカルから普遍へ。そしてコトバの故郷は場所ではないことを述べてから、彼は外国と日本について考えていく。

 万葉集を読む限りは、渡来人の山上憶良をいちいち「渡来人」と断ってはいないし、憶良自身も日本の外交官になっているので、自分を日本人(大和人)と自覚していたはずである。こうした日本についてどう考えればいいか。新宿が象徴的であるとリービは述べる。
 新宿は、街全体がアニミズムであり、神社のようなところである。外の者がやってきても次々と飲み込んでいく。神社的であるのだ。出ていけ出ていけと言われながら、外国のものが飲み込まれていく(出ていけ出ていけと言いながら飲み込んでいく)矛盾が新宿にある。

 近代西洋マイノリティは、そこまで「コトバ」を問題としない。また、書きながら受け身になるというのも西洋にはないだろうと、リービは言う。
 日本のマイノリティなどの問題は、マルコム・リトルがマルコムXとして生まれ変わることを選択した問題とは、まったく異なり、「コトバ」の問題であるのだ。

 なんでも飲み込む新宿という日本。そこではただ一つ、コトバが故郷としてある。日本はコトバによって成り立っている国であり、そのはじまりは、外国の文字を輸入して自国の音声にあてはめるという方法にある。よって、日本の神にあたる確かなものとは音のことであると思える。

2020年12月5日

 アイデアからアウトラインを書く。
 アウトラインをもとに箱書きする。
 冒頭、展開、クライマックス、結末を箱の中に書き入れる。
 ハコのシーンを入れ替え差し替えする。
 箱書きをもとに、プロットを書き込む。
 一応の完成まで持って行く。 
 停滞を感じたら、「なんでもいいから事件を起こす」。または「構想になかった対立者を出現させる。」

 対立、葛藤、障害、謎の提出、意外性に感情を込めることで、これらが面白くなる。

 山に登るように焦らず書き、不完全でも書き終わること。

 小説は、個々のストーリーの総体。エピソードを団子のようにつなげていっても、全体を語ろうとする心構えが必要である。
 プロットの中の一つの場面、一つのエピソードを語る時、この作品のテーマは何かを、この場面で何を表現すればよいかを、一本芯を通す気持ちで、意識しながら会話と描写をすすめていかなくてはならない。ピッチャーのように、悪いなりに工夫をするべし。
「キャラクターはマンガになるような極端な形」と認識すべし。
 サイドストーリーは気分転換に入れて良し。
 ファーストシーンは中間から。

2020年12月3日

読書状況 読み終わった [2020年12月3日]
カテゴリ その他
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