- 税務調査立会い年間200件!ギリギリを攻めたい社長のためのグレーな税金本 人気税理士YouTuberによる合法的節税術
- 永江将典
- サンクチュアリ出版 / 2024年9月10日発売
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その税理士がどのようなサービスを提供してくれるのか。
節税対策に協力的かどうか。
いままで、どのような経験を積んできたのか。
税理士の主な業務は
「申告書の作成」
「記帳代行」
「節税対策や税務相談」
である。
税務調査で指摘されても、一切責任は追及しないと言うと、税理士は節税に協力しやすくなる。
税理士を紹介してもらうのであれば、長年にわたり会社を回している、あるいはしっかりと儲けを出し続けている経営者にお願いすること。
税務調査への対応が1~2件だと初級レベルの事務所で、年間数十件から数百件だと中級レベル。税務署OBが審理専門官として勤務していたとすれば、トップレベルの税理士法人である。
小規模企業共済はノーリスクハイリターンの節税商品で、毎月一定額を積み立てて、退職時や事業をやめたときに、積立金額に応じて退職金が支給される。掛け金は全額所得控除(課税の対象にならない)の対象となるため、節税効果が得られる。
出張がよくある職場だと、「出張日当」にすることにより、非課税の給与とすることができる。職員に支払う給料のなかで、出張日当を2万円としたりすることにより、税金対策とすることができる。
また、「事前確定届出給与」を利用し、役員報酬を減らして、賞与を増やすことで、法人が負担する社会保険料の支払額を抑えることも出来る。
「中小企業経営強化税制」は、必要備品をすべて経費に出来るというもので、利用すべき。
「人生を変えるには、時間の使い方、住む場所、人間関係の三つを変えるしかない」
2024年10月30日
- 高学歴のトリセツ 褒め方・伸ばし方・正しい使い方 (星海社新書)
- 西岡壱誠
- 講談社 / 2024年3月20日発売
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褒めること、気を遣うことなど、色々勉強になったが、やはり一番いいのが、「会社で遊ぶ」人がいるということが重要で、働き蟻の法則じゃないけれども、50%仕事して、50%余っていると、その50%で新しいこと考えられるような、そういう組織のほうが、つまり、いつでも辞めていいと思える人間が楽しく働けている会社のほうが長持ちするし、いろいろな事が出来るという指摘が重要だった。普通は全員が100%、効率的に働いている会社が組織としては理想かも知れないが、それだと新しいこともないし、指示待ちしかどんな社員もできなくなってしまうのだ。
2024年10月22日
- なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える
- 川原繁人
- ディスカヴァー・トゥエンティワン / 2023年7月21日発売
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音韻変化について触れた所で、言語の次に何をいうか未来予測できるヒントがあるように思えた。
言語って、予測に基づいて受けとめられているもののはずで、それは知識ゼロからの説明でさえも、その、言葉は「未来」からやってくることの呪縛からは逃れられないはずである。言葉の未来予測に、最終的に行き着くことが、張り巡らされているのが、本著であるように思う。
2024年9月7日
わりと遣唐使の「現実論」が述べられていて、好感が持てる。
【遣唐使は出来うるかぎり唐代学術の正統を引いた、校訂の行き届いた善本・完本の蒐集に努めたと思われるが、その目的を達するのは容易ではなく、結果として多くの端本・異本や素性の定かでない本を持ち帰らざるを得なかったのである。】P208
唐の時代は写本中心の時代であるし、書籍はとても貴重品で、特権階級の貴族のみが持ち得るものであった。個人蔵書の秘密主義も生み出し、底本の借り出しも困難になった。
相応の人脈やコネの構築がなければ、借書は不可能であった。ある意味、手当たり次第可能な限り底本を借り出し、写し取るで精一杯だったのではないだろうか。
また、「日本国見在書目録」中の端本、異本、目録外本の多さや舶載書の遅れなどを考えるのならば、恩恵は被れていないようだ。
「正本」が手に入れられなくて、日本古代の学術基盤が薄弱だったことと、唐代のアカデミズムからすれば異端の在野の学術・技術が古代日本に持ち込まれたことの影響の大きさが、これからの研究課題であるとしている。
とにかく遣唐使過大評価はやめようという論考である。
隣国新羅は毎年遣唐使を出していたが、20年に一度なんかは、普通に考えれば、日中関係は疎遠と言える。
商船もなかなかない。一行のメンバーは500名だが、実際に外交使節に相当するのは割合は少ない。
中国商船は、「国風文化」誕生に物質的基盤を用意したが、遣唐使の時代は、「唐風文化」とはいえない、もっと違う捉え方の時代だと述べている。
また、朝貢をした理由としては、技術の粋である錦、綾、羅、縠、紬、綿、絲布、絹など高級繊維品や、真珠・金・銀・鉄の工芸加工品、氂牛の尾など、貴重品は垂涎の品々であって、これらは輸出は禁止で、回賜品であった。この輸出制限が、周辺国に朝貢させる契機にもなっていた。
香薬も、入手するのは非常に困難であった。
漢詩文集も、その成果をそっくりそのまま渡すのは禁止されていた。
それゆえ、すべての輸入物は天皇のもとに厳しく管理され、支配のためにすべて使用される方向になった。反体制の人物に知識や貴重な品がうつることを防ぐことが出来た。中国文化の模倣の域を出なかったとも言える。(それゆえ、オリジナルの部分もあることは検討しないといけない)
2024年8月25日
- 長安: 絢爛たる唐の都 (角川選書 269)
- 門脇禎二
- KADOKAWA / 1996年4月1日発売
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遣唐使の派遣には、儒学・諸学の修得が重視されていた。成文法による法治の体制=律令制度のいっそうの整備が求められていた。
玄宗はこのころ、政争を収束させ、均田制を立て直し、均田農民は800万戸を超えて、長安の人口は100万になり、玄宗自身は学問が好きで、多くの学者を招き、万巻の書を集め、法律や官制を集大成させる事業を進めました。
遣唐使は氏や家ごとの祭儀のあと朝廷を拝し、大使に節刀を賜ったあと、難波津から出発し、筑紫に向かいました。太宰府に立ち寄った後、南路は、大津浦から五島列島の中通島相子田浦、福江島川原浦に渡り、風を待ってそこから一気に東シナ海を乗り越えます。
隋・唐の長安城は東西が約10キロ、南北が約7キロという非常に大きな長方形の都城である。
興慶宮の南側に龍池という大きな池があり、あやぎぬをつかって二階建ての楼船をつくり、それを外輪船のように象に踏ませて、そのなかで遊んだという。
一番良いお茶は爛れ石のところで、しかも、朝霧がでて、午前9時を過ぎたら太陽があたり、三時ぐらいになると沈んで陰になるような場所のお茶がいい。また火は、台所にあるような薪や炭をつかうのではなく、別の、においのない清潔で綺麗な炭を使いなさい。
水は山水が一位、川水が二位、湧き水が三位である。揚子江の南零水がいいという。
中国の煎茶は、唐代、そもそもは抹茶であり、粉にして保存する。団茶であろうと葉茶であろうと、飲むときは薬研で粉にする。薄い銀で装飾された箱の中に茶の粉は保管され、銀のさじですくって、鍑という釜に入れる。脚が三つあり、それに鍋をのせたようなものだ。
釜の湯が沸いたら、釜の中に粉にしたお茶を投げ入れる。お茶そのものの味を楽しむのならば、塩だけは入れても良い。ネギ、生姜、ナツメ、ミカンの皮、グミ、ハッカ、塩も入れてかき混ぜて、瑠璃の椀などにくみ分けて飲むのが当時の茶の楽しみ方だった。ほかにも唐代の人は茶に合う碗として青磁を好んだ。唐代は、煮出す、煎じることが中心。
あと上京使節団の謁見は麟徳殿である。
老子道徳経に
第十二章
おびただしい色は人の目をまどわせ、おびただしい音は人の耳をだめにし、おびただしい味は人の口をそこなう。
狩猟で競い、追跡すれば、人の心を凶暴にする。
めずらしい価値ある品物はその持主の安全をおびやかす。
だから、賢者は腹に集中し、感覚の誘惑には集中しない。
このように、彼はあるもの(内部の力)をとり、他のもの(外部の力)を捨てるのである。
というのがあるので、おそらく玄宗の飲むお茶はシンプルであっただろう。
2024年8月24日
- 遣隋使・遣唐使と住吉津
- 住吉大社
- 東方出版 / 2008年5月28日発売
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唐では中国人の海外渡航を禁止している。妻を外国に連れて行くのは法律で禁止されている。
遣唐使が20年に1回だったのも、経済的に採算がとれないイベントだったから。高表仁は、日本への渡航を「地獄の門」と評価している。航海技術の向上がある以前は、かなりの確率で海の藻屑になるものでした。
唐代で仏教が優位になったのは則天武后の時代ただ一回だけである。
玄宗皇帝のころは、道教が盛んでした。玄宗皇帝は自ら老子の「道徳経」を注釈したこともあります。道徳経は自然を例えにだしながらかなり相対的で、自己を無とすることを主張し、調和が来ることを述べているものです。
玄宗は道教の狂信者になっていたという。
「道教に心をとどめ、仏教を重ぜず」だったという。
道教を崇めない国である日本は、中国の高僧達にとっては、行くべき場所なのではないかという思いがここから根付いてくるのだと思いますし、それが最終的に空海に繋がるのだと思います。
住吉津はもともとは港だった時代はあったけれども、難波津が開発されて、長柄のあたりに停泊地があって、そこで貢ぎ物を積み込んだとある。
筒男三神は船の帆柱を神格化した存在である。
筒男三神は、難波津の守護神であるとともに、王権・律令国家の所有する船、あるいは大王が乗る船の帆柱に依りつき、航海の安全を守る神である。
しかし、そこの祭祀にあたっていた津守氏は、筒男ではなく、大海神社の大綿津見神・綿津見神を氏の神としていました。
難波津の位置は高麗橋付近のようです。
筒男三神は、いわば国家管理の神でした。
住吉津は三輪山から見ることができたというのも、国家の管理する津たりえた理由である。
また季節風のことが分からなかったと言う議論もここで論じられている。夏には大洋から大陸に向かって風が吹くという季節風の基本的原理から言えば、6,7月に日本から唐に向かうのは理にかなったことであり、帰国する際は強すぎる季節風に翻弄されることで沈むこともあるので、時期を間違えているわけではないのだ。として、東野氏の遣唐使研究に手厳しい指摘をしている。
また、高麗橋付近がなぜ選ばれているかというと、遣唐使の本船は、船喰虫がつかない水深の深い川港に繋留されていて、ここには深い川があったでの、ここからみんな遣唐使として乗り込んだ。
また、住吉津にも細井川があり、ここも乗り込めなくはない。入り江があったと考えられているようである。また大伴氏は住吉の邸宅を本拠地としていて、合体して考えれば、難波津で荷物などをとりいれ、偉い人を住吉から乗せて、それで出発したのではないだろうか。
2024年8月24日
弁正と李隆基が囲碁の初手合わせをしたのが712年8月~9月に限られる。
弁正が相手していたのは、皇太子でも皇帝でもなく、郡王時代の李隆基である。
弁正の「還俗」とは一介の留学僧が一門一派を超えて一段高い学問の境地に到達したことであり、唐側の禁令「諸蕃の使人、娶り得たる漢の婦女を妾と為る者は、並びに蕃に還らしむるを得ず」から、愛妻との縁を切り捨てることはできなかった。
弁正は愛妻家であったのかもしれない。
弁正の父は秦牛万呂。孫娘二人は藤原宇合の子どもと結びつき、泰氏と藤原氏の血が合流している。
また遣唐使は、その前に白村江に負けていて、新羅との争い、新羅への、日本へ朝貢させる国に過ぎないという絶対、その新羅との関係悪化と同時に展開する日唐関係の改善が、遣唐使の狙いでもあった。広成に謹上される憶良の好去好来歌も、その使命を託し、願い、祈るものである。
弁正は三論宗の僧侶で、道慈と同じである。聖徳太子が仏教を導入してから、三論宗は白鳳時代を通して常に盛んだった。また弁正は滑稽と評価されているが、立ち位置としてこの滑稽は、皇帝に直言せずにいかに諫言するか、直接的に言えないことを言うアドバイザーとして、弁正は李隆基に対して振る舞っていたと言える。
また弁正の朝主人の詩も、これは唐代、中宗のとき、金城公主が神龍3年(707年)4月、吐蕃(チベット)と和親柔遠策として中宗は娘を嫁がせる。景龍3年(709年)10月に吐蕃から嫁迎の使節が来京し、翌年正月に公主一行が吐蕃に向かって発った。
従臣たちは餞別の詩を作り、修文館大学士李嶠をはじめとした文学従臣らの作品が「文苑英華」に残っている。
朝主人の後半は、すべて楽曲名を連ねて作成してある。この詩を与える相手も音楽の達人でなければならない。弁正の朝主人の詩は李嶠らの詩に似せながら、音楽のタイトルをつかって、パロディにしている。これは、詩を与える相手が、皇帝ではない。むしろ唐代随一の横笛の名人であった李隆基であったであろうと思われる。
李隆基が朝廷を「我家の朝堂」と言い放ったことを踏まえて、中宗の応制詩を擬作し、奉るではなく「与える」とし、親友になりすまして、かつ、あなたが皇帝であることを自覚せよということを伝えるものであった。
玄宗朝の出来事には弁正がいたことの影響が大きい。
弁正は、李隆基に気に入られていたのは間違いない。詩文・音楽の知識も皇帝を楽しませるほどある。
旧唐書・日本伝は、弁正の加わった第7回遣唐使のことを始めて記し、高い関心を払っている。また、717年の開元5年の遣唐使では、四門博士による経典教授を要請したり、阿倍仲麻呂の出世、吉備真備の帰国後の出世など、唐・日本におけるキャリア保証の一手を担ったのは弁正だと言える。それは733年、泰朝元に対して、玄宗が、弁正の息子だということで特に優遇したことからも分かる。道慈はもともと優秀だとはいえ、高僧として選ばれているのも、弁正によるバックアップが大きいだろう。
道慈の、皇太子(のちの聖武天皇)にささげる詩は、おそらく弁正と同じ場でつくられ、そこで道慈は朝元のことを頼んだと思われる。また弁正の絶句「在唐憶本郷」の日辺と長安は「世説新語」における晋の明帝の故事である。膝の上にすわっている状態だと、皇帝の立場であり、すると、日からやってくる人はいない、長安からやってくる人はいるとする。よって日より長安のほうが近いとなる。しかし、皇帝をまえにすれば、日のほうが近いとなる。なぜなら、日は目の前にあり、長安は見えないからだ。こうした細やかな視座視点の切り替えができるのがすばらしいということだ。
ちなみに弁正は長安にいた。唐には正直憧れていたし、面白いけれども苦労が多い。日辺は長安のこと。「長安と日本をみて、雲と雲の端や...
2024年8月23日
- 遣唐使の光芒 東アジアの歴史の使者 (角川選書 468)
- 森公章
- KADOKAWA/角川学芸出版 / 2010年4月21日発売
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森克己の遣唐使船がお粗末だった説に対する反論が掲載されている。
沈没船の発見によって、船の構造が判明するなどして、遣唐使船のイメージは一新されているという。
遣唐使船の大きさは三〇メートル。幅九メートル。排水量二七〇トン。積載量一五〇トン。二本のマストの帆船で、船底は尖り、波を切り裂いて進み、網代帆と藤の纜、布の帆もある。横波に弱い構造だった。
また出港時期であるが、唐の正月儀礼に遣唐使は参加していたので、どうしても6,7月にタイミング的に出港しなければならず、季節風に対する知識がないわけではない。台風の恐れのないのは10.11月くらいになるので、出港時期はそんなおかしいものではない。また、遣唐使は20年に一度の出発なので、船を操作する人も、一世一代の挑戦で、技術の共有や継承が難しいことも想像できる。
遣唐使は到着しても、何も歓迎もなく、自力で役所に出向いて日本から来た遣唐使であることを役所に申請して、食料を貰わないといけない。大宝のときもそうだ。1年に2回もくらい派遣してくる渤海や新羅と異なり、20年に1回くらいしかこない日本は、このような扱いになるのもやむを得ない話だ。即官憲がきて審査する体制でもなかった。
遣唐使船は、住吉社で推進式を行い、難波津に移動して出発する。
到着して、役所に向かう。つぎに、都へと向かう。全員が唐の都に行ったわけではなく、一部だけである。人数分の馬が用意された。五品舎人や宦官が来て、長安城から東に三キロの長楽駅にて酒や肴を準備して、エネルギー補給。そのあと、外宅とされるところに案内される。監使と呼ばれるものが管理者として、接待したりしてくれる。その後、皇帝と謁見する。国書を携帯して渡す。礼見の場所は大明宮紫宸門南側にある宣政殿で行われる。複数の国が同時に出席する。
日本の遣唐使は、唐側の理解の便宜のため、唐風の官職名を有していた。粟田真人は「民部卿」だったら、唐風に「民部尚書」を称した。
大宝のときに定まったのは、日本国号だけではない。二十年一貢の制度が決まったのも大宝のときだという。
弁正と玄宗の関わりは皇帝に即位後も続き、皇帝との人脈作りに弁正は尽力した。また、同時に行った坂合部大分も、長大少髪というイメージを中国に残していて、唐の人士と交流していた。道慈は百座仁王会に屈請された100人の高僧にも選ばれていて日本の仏教界に鑑真を呼ぶきっかけの人物となる。とくに玄宗在位中は安定した日唐関係を維持することになった。
結局、遣唐使が日本に持ち帰ったものを整理すると
仏教関連……教学の伝授、経典、仏像・図像、寺院の図、僧侶招聘
儒教関連……教学の教授、孔子廟の見学、唐礼、公羊・穀梁伝、その他書籍
その他の学芸……律令、陰陽、医学関係、香道、舞楽、囲碁、琵琶、暦など
その他将来品……水はかり、測影など技術品、仏足石図、呂律の道具、弓、工芸品
唐の服装の制度、儀礼、長安の実見
となる。
2024年8月23日
- 日本史の現在1 考古 (日本史の現在 1)
- 設楽博己
- 山川出版社 / 2024年5月28日発売
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かなり冷静な議論であり、非常に優秀な古代史スタンダード本である。
遣唐使の拒否したものとして、明確に「道教」であると言われていて、道教の開祖である老子は唐皇帝李一族の祖であり、道教を遣唐使が持ち帰って日本に取り入れるということは、唐を崇めることになる。唐から学んでも唐に飲み込まれることはしない、という「日本」の対外姿勢から、国家哲学が見えてくる、極めて良い本だ。
また日本という名称も、「一般名詞」であり、中国の圏域に入りこんだ名前でもなく、国号変更の理由をはぐらかす遣唐使と、納得のいかない中国の姿勢などが取り上げられている。隋の煬帝への国書も、最大の問題点は、両方を天子としたところであり、その姿勢は、日本の考えがどのようなものだったかうかがい知ることができる。また「天皇」やスメラミコトという言葉についても、かなり古くから使われていることについても論じられている。
本の末尾にある聖徳太子論も冷静でかなり好感が持てる。これから歴史を学ぶ人にとっては絶好の本だが、すでに学んだ人にとっては受け入れがたいところが多々あるだろう。いくら実証・きちんと論じられていても、人は受け入れられないものなのだ。残念な、マイナスに快楽を求める人間にとっては、むかつくことが、きちんと書かれていて面白い。
日本という国号は、壬申の乱という革命を経て、飛鳥浄御原令か大宝律令によって制度として日本を定め、天武・持統から公的に始まり、大宝の遣唐使は日本国号を唐に承認して貰うという任務を帯びていた。
粟田真人は落ち着いていて、学識深く、則天武后は長安大明宮の麟徳殿で彼を宴した。唐と倭国の緊張関係を、これでもって精算し、倭国はあたらしい日本となりましたということを、イケオジ粟田真人が則天武后に伝え、則天武后も彼を気に入ってそれを受け入れたという。しかし、隋・唐にとっては、天皇はなかなか受け入れがたく、せめて日本国王であったという。
その章を読んでも、様々な議論を参照しながら、妥当な点を述べている所に、好感が持てる本である。
2024年8月23日
- 遣唐使 (日本歴史新書)
- 森克己
- 至文堂 / -
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情報は古いものの、やはり遣唐使本としては避けては通れない本であると思う。
初期遣唐使は2隻よりなり、1隻120人前後がのり、中・後期は、4隻をもって編成。四舶(よつのふね)と呼ばれた。
第一船は大使、二船は副使、三船・四船は判官が乗る。
その船の造りは悪く、水が入ってきて船内で人が溺れたり、幼稚な技術であった。つなぎ目は唯短水草で埋めていて、壊れやすい。
「遣唐使船の船底は扁平で波を切るに不適当であり、また帆がうまい工合にできていなかったものと推測される」と述べている。
また遣唐使船に船号・位階が授けられている。
706年2月には粟田真人がのる船に船号「佐伯」・従五位下。
遣唐使船の発行地は難波の三津浦である。裴世清も難波館に来ている。
また、当時の遣唐使船は、季節風に関する知識を欠いていたとしきりに主張されている。
博多から唐に渡るには秋がもっともよい季節で、夏は逆風が吹く。
中国商船は、日本から中国に行く際、北西風のある8,9月か、3,4月をえらぶ。しかし遣唐使は南東風のある6,7月に出発しており、これでは沈みにいくようなものだと評している。
遣唐使の海洋渡航では、住吉神社が崇仰され、仏としては長谷寺観音が信仰の対象となったという。
あと、古麻呂の強烈な抗議にあるように、遣唐使の一つの目的としては国際的地位の引き上げにあった。
「本国政府の望む自主対等の外交は客観情勢からして到底望むべくもないので、せめて唐朝に集まった諸外国施設のなかでその国際的地位を高め、特に何が何でも新羅の下位には絶対に立ちたくないというのがわが遣唐使たちの終局の目的であった」(P80)と森は述べている。
古麻呂が既定の席次を覆えし、わが国の席次を新羅の上に変更させたのは、外交の勝利であったという。
というのも、新羅は山野で取れる野生品を日本や唐への貢ぎ物とし、日本からは、絹や綿、糸など、唐からは金銀製品、絹織物、書物、薬品や貴重な南海の産物を得ており、それも日本にとっては気に入らないことなのだ。
また、唐でどんな朝礼や儀式や、宮廷がより宮廷らしく、唐の帝国らしくなるか、その真似をしているのと、音楽も多大な砂金を送り先生から猛勉強したり(藤原貞敏)、そこにあるのは帝国らしさを目指す姿である。
文化を輸入する・ブックロードというが、そのほぼすべては、体制をいかに固めるかである。
しかし、それはマルクス主義的な世界観で語られるようなものではなく、貧しく、弱い我が国が、巨大な国に向き合うような絶望感でもなく、もうあと数段階自分たちには力が足りないと意識する国と人々が、「もうちょいやけど、じゃあどうしようか」と思って、その一歩のために法律や宗教を、その経験と経典を持ち帰ることでもって実現していく感じがある。
弁正などは、あえて仏道を捨てて、玄宗の若きころの囲碁の相手をして、唐の皇族のふところに入り込むことによって、多くの遣唐使のサポート役にまわって経典や制度を日本に輸入するために尽力した。すべてを犠牲にした男かもしれない。
2024年8月23日
いろんな唐の食べ物や景色があって面白い。
洛陽にある池、新潭(しんたん)。侍従、侍女。
蒸芋、饅頭、煎餅、砂糖黍。
人物の推薦 姚崇。
拱手。高力士。
遣唐使がちょくちょく出てきて、日本人らしい振る舞いで活躍していて、弁正が常にサポート役を担っている。
2024年8月22日
- 唐から見た遣唐使: 混血児たちの大唐帝国 (講談社選書メチエ 125)
- 王勇
- 講談社 / 1998年3月1日発売
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P6には【お国自慢の品々をたずさえた外国使節、故郷に錦をかざろうと読書にふける留学生、仏教書の翻訳にあけくれる異形の僧侶、酒場でつかれたように踊る金髪碧眼の胡姫、千金を惜しむことなくつぎこむ波斯(はし・ペルシャ)の豪商、黙々と主人につきそう肌黒の崑崙奴など】といったように、小説的な描写もある専門書になっている。
また、702年6月29日出発し、中国の楚州塩城県に到着し、長安に向かった大宝使節一行は、李唐の統治は途絶えていて、武氏の則天が周王朝を建てた時期なので、正しくは日本のこの再開一発目の施設は「遣周使」になるのだ。
この時、粟田真人を見た地元の唐人は、礼儀もいいし、穏やかで落ち着いていて堂々たるベテラン粟田真人を見て、東の果ての倭国は礼儀の国というのは本当だと信じざるを得なかったという。
さて、ここでは弁正の活躍が述べられている。
とくに、阿倍仲麻呂の破格の出世であるが、「仲麻呂を推薦したのは、玄宗の寵愛を受けていた弁正であることが考えられる」と述べている。日本の一留学生がいくら優秀でも、限界はある。唐の国立大学に入学し、進士に及第し、唐の官吏になるのは、皇帝のコネを持つくらいの怪物的人物が必要である。それが弁正だ。大先輩弁正の斡旋はバカにならないと思われるということが論じられている。日本での位階が唐においてもそのまま認められたりもしているのだ。
弁正は囲碁を好み、李隆基の豪邸によく出入りし、上流階級の仲間入りをして還俗して唐の女性と結婚、妻子を持つようになった。
弁正は俗姓は泰氏。渡来系で、性格はほがらかで、論議や冗談を交わすのが好きな、遊戯に熱中する人物だ。のちの玄宗と手談の相手をつとめた。玄宗の邸宅は、隆慶坊に弁正を招いていた。702年10月から中宗毒殺事件の8年間が、弁正と李隆基の、囲碁をしあった時期だ。
囲碁の構図は、明皇会棋図に描かれている。
斧鉞を持つ内官。
弁正大師の侍者の沙弥。
彩色の座布団に腰掛ける弁正。
道冠を被った道士。
竜倚に座り、手前に碁盤を並べているのは皇帝、唐明皇。
滑稽な格好をしている優。
道士。
彩色の座布団にすわる役人。
同時に入唐した道慈も、弁正とは異なる形で唐で活躍し、ひそかに西明寺の図を写し、日本で大安寺建造の手本にした。経典を渉覧し、尤も三論に詳しい男である。その道慈と異なり、弁正は皇族と交わり、道教の風習に馴染み、僧籍を捨て、遊士のように、俗世の栄達を極めた。ちなみに息子の泰朝元はめちゃくちゃ年少なのに、なぜか日本に渡っている。唐に帰って来た時は、玄宗皇帝より格別の褒美を貰っているという。
703年、則天武后は、麟徳殿の宴会に粟田真人らを招き、司膳卿の官職をあたえたとある。703年の正月から十月のあいだのときだ。20歳の李隆基は、皇帝の護衛および御幸のつきそいに、日本使の招宴に同席していた。
郡王のころだった李隆基があいてした法師弁正は703年の正月から十月まで。706年10月から708年4月まで。709年冬から710年6月まで。この期間だけ、囲碁の相手をしていたといえる。
則天武后は、仏教を重視したが、則天武后失脚後は道教が重視された。弁正もそれにあわせて、僧侶であることを辞めている。706年10月から708年4月までの間だ。その間に、袈裟を捨てている。
20歳未満の仲麻呂は、弁正の忠告や援助によって出世。仲麻呂が弁正に頼った頃、長男の朝慶(704年生まれ)は13、4歳、次男は朝元は12歳であろう。弁正は道慈にくれぐれも我が子の面倒をみてほしいと懇願したのだろう。来日の年次は718年だ。
朝元は、貴重な薬品とどうじに、弁正の望郷の歌も日本に届けている。
舎人王子は、のちに、鑑真を日本に招くた...
2024年8月21日
- 遊仙窟 (岩波文庫 赤 35-1)
- 張文成
- 岩波書店 / 1990年1月16日発売
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主人公の張生が旅行中に神仙窟に迷い込み、仙女の崔十娘 (さいじゅうじょう) と王五嫂 (おうごそう) の歓待を受け、歓楽の一夜を過ごすという筋。
ご飯とエロ描写に優れており、これを単なる俗物とするのではなく、ある種あこがれの世界、こういう風な世界に近付けると面白いよなという模範になっている作品だと思うし、万葉集などに多大な影響も頷けるものである。ラストはちゃんとキスシーンも愛撫シーンも、おっぱい揉んだりもあるし、体位もあるし、間接的だけど、勃起して射精して萎えるところまで書いてある。
また、突如食べ物などの描写が豪勢になされる所も面白いところだ。
【東海の鯔魚(なよし)の条(すわやり)、西山の鳳の肉のまるぼし、鹿の尾と鹿の舌、ほし魚と焼き魚、雁の肉のししびしおに、荇菜の漬物をそえた物、鶉の吸物と桂を加え米であえた肉汁、熊の掌と兎の股、雉の尾の肉と豺の唇など(P43)】
【しばらくして、飲み物、食べ物がすべて来た。いい香りが部屋にみち、赤や白、色とりどりの品がずらりと前にならんだ。
海陸の珍味、山野の果物、野菜をえりすぐってとりそろえ、肉は、竜の肝、鳳の髄があり、酒は玉醴(ぎょくれい)、瓊漿(けいしょう)があった。城南の雀噪(じゃくそう)の禾(あわ)や、江(かわ)のほとりの蝉鳴(せんめい)の稲、鶏の吸物、雉の吸物、鼈のししびしお、鶉のあつもの、桑の実で肥らせた小豚や、蓮の葉のでるころの小さな鯉があった。
鵞鳥の子やあひるの卵が、銀の大皿に光りかがやき、麒麟のほし肉と豹の胎が、玉の畳子に目もあざやかに盛られていた。
熊の生肉の純白と、蟹の醤(みそ)の純黄とのとりあわせ。さらに、まあたらしい魚の鱠(なます)は、紅い縷(いと)に劣らず輝いていて、ひえている肝は青い糸と色がまぎらわしかった。
葡萄と甘蔗、愞棗と石榴。河東の紫の塩と嶺南の丹き橘。敦煌産の八つ実のつく柰(からなし)、青門の五色の瓜。大谷の張公の梨、房陵の朱仲の李(すもも)。東王公の仙桂と西王母の不思議な桃。さらには、南燕の牛の乳房に似た椒と、北趙の鶏の心臓そっくりな棗。(P50-51)】
とある。
庭の描写も面白い
【園内は、そのとき、何万株ものさまざまな樹木が、青を含んで緑を吐き、花のむれが四方に輝き、紫を散らして紅を翻えしていた。
激石と鳴泉、築山と石橋がある。夏・冬にかかわらず、愛くるしい鶯が錦の枝にさわぎ、古今を無視して、見事な魴が銀の池におどり、あでやかに花木がおい茂り、ひやりとした風が吹きそよぐなか、白鳥と鴨が分れ飛び、芙蓉(はす)がいりまじって出ていた。
大きな竹、小さな竹のおびただしさは、渭南の千畝を圧倒し、花のつぼみ、花の咲きほこるにぎわいは、河陽一県をしのぐ盛観で、青々とした岸の柳のしなやかな枝は武昌の柳をはらいのけ、さかんに茂る山楊の箭幹は、董沢の蒲より多かった。】
十娘の寝間の描写もこれ。
【屏風が十二双めぐらされ、画障(えのついたて)が、四、五帳おいてあり、両頭に、いろどりのある慢(かたびら)をしつらえ、四隅に香袋がさがっていた。檳榔と豆蔲子(ずくし)、蘇号と緑沈の香などである。あざやかに紋様を織り出した枕をおく蓆(むしろ)や、眼もあやないろとりどりの衣裳をしまう長持があった。
あとについて寝室に入ると、あちこちに綾織物や薄物の衣裳が輝いていた。鏡台には蓮花の飾りがあり、金の履には翡翠が細工してあった。帳の入口には、銀製の虺(き)の装飾が施され、寝台のはしには、玉の獅子が置いてあった。蛩駏を織りこんだ毛氈が十重ね、鴛鴦の図柄のある被(ふすま)が八畳、それぞれ置いてあり、かずかずの袍と袴(こ)とは、世にもめずらしいほど艶麗であった。見目形は生まれながらそなわるものだが、真底からの色好みなのである。
紅...
2024年8月19日
- 遣唐使 (岩波新書 新赤版 1104)
- 東野治之
- 岩波書店 / 2007年11月20日発売
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遣唐使が日本から年に何回朝貢にいけばいいかという取り決めで、費用や渡航の準備も大変だし20年に一回でいいよという取り決めをしている。朝貢としては間隔が最長の形であったと言える。(P43)
この二十年一貢の取り決めは、大宝の使いである702年か、その次の養老の遣唐使717年あたりで決められたと思われるそうだ。(P44)
ちなみに大宝の使いが対面したのは女帝則天武后であり、『史記正義』にはこの時、「日本」への改号は大宝の遣唐使に対して通達されたとある。日本の天皇は唐の冊封を受けてその地位を認められるという立場ではなかったが、唐にとっては臣下であることには変わりなかった。日本は自分達の国が倭国と呼ばれるのは嫌がった。それで、たぶんヤマトでもいいし、なんとでもいろんな国名の候補があったのだけれども、国際的には一応通じているのは「日出ずる国」である。中国からすれば、日本という国名は、中国を世界の中心とする中国王朝の中華思想に同調する意味があったでの、中国からすれば、「日本」は別にそれでいいんじゃないかなとなる。しかし、日本が、自分達は東の辺国ですから、と、謙虚にふるまってこの名前にするだろうか。もし本当に中国にヘイコラ頭を下げるのだったら、そのまま「日出国」とか「日登国」とか、辺国らしい名前にするような気がする。しかし「日の昇る本のところ」で、それを、へりくだったものだと考えるイメージは現代人にとっても持ちにくいし、うまいこと考えているとしか思えない。蔑称がそもそも気に入らなくて名前を変えたのだから、蔑称→蔑称に変えるはずはなく、「初日の出」を拝む文化が日本にあるように、素朴な太陽信仰もちょっとはあるように思う。もちろん、仏教の経典に基づき、日出処・日没処は使用されたのだが、どう考えても、没するよりは出てくる方が上だし、考え方にとってはかなり中国を相対的に捉える変更も可能である。例えその時そういう東の辺国にすぎないとされるような国名であっても、考え方によっては、はじまりの大地、すべてのスタート地点とも考えられるような、変更可能性にあふれた国名の付け方だと思われる。
さて、大宝度、弁正が唐にいったときは、南のルートで、南と行っても、黄海ではなく東シナ海を真横にぶった切って航海していくルートです。702年は特別編成の五隻で、30年あまりの中断を経ての再開なので、唐との国交回復が大きな使命だった。またこのメンバーには「執節使」が置かれていて、いわば天皇から大刀を賜った全権大使。まかされたのは粟田真人。これを渡されるというと、よほどの文句なしのリーダーでないと。粟田真人は孝徳朝の白雉4年(653年)第二次遣唐使に学問僧として随行しているので、約50年ぶりの渡唐になります。律令についてもすでにプロですし、国はどういうルールで動かしていけばいいのか、都市と国土はどのように設計していけばいいのか、とりあえずありったけ情報収集してくれというのが天皇らの願いだったでしょう。
あと、遣唐使船についても触れられています。遣唐使船といえば、網代帆ですが、麻布の帆も装備されていて、風向きに応じて併用されたのではないかと述べられています。また、東野氏は遣唐使船の復元をやり直す時期が来ている。もっと巨大な船だったのではないか。遣唐使船は長さ三〇メートルほどと見積もられているけれども、短すぎる。これほど大量の人数が入るのだろうかと疑問がある。実際、奈良の遣唐使船の復元に立ってみたけど、50人乗せてもいっぱいいっぱいなくらいで、あきらかに船の大きさおかしいというのが素直な気持ちだ。
あと、弁正とともに唐にいった道慈も優秀だ。法隆寺近くの豪族額田部の一族だが、16年にわたる留学を終えて、最新の「金光明最勝王経」の中国語訳を持ち帰っている。しかし、遣唐使で思うのは、やはり天...
2024年8月18日
- 女皇陛下の見た夢は 李唐帝国秘話 (講談社X文庫 きE- 14 ホワイトハート)
- 貴嶋啓
- 講談社 / 2019年7月5日発売
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参考文献がこええよ!っていえるくらい、時代考証をバッチリして書き上げた小説。中国史専攻でないのに、これをやりとげた作者は凄いと思う。
あまり馴染みのない、けれども、調べたからこそ出てきた単語は以下の通り。
宮城
太初宮
公主
臙脂色の裙裳
金糸を織り込んだ羅の襦衣
紫紺の披帛(ひはく)
金の簪
女官
宦官
殿内
侍衛
殿宇
尚寝局(掃除、家事)
宮女(下っ端、玉の輿を夢見る)
青磁
白磁
黄釉陶
黒釉陶
宮奴
双耳壺
女皇陛下の寝房について
紅い毛氈が敷かれ
金箔が施された龍が絡みつく丹塗りの柱に、天蓋から幾重にも色絹が垂らされた大きな牀(しょう)。そのかたわらには精緻な彫刻の施された衝立や螺鈿細工の厨子。腰ほどの高さの飾り棚には、菓子が高く盛られた高坏が置かれている。迎仙宮。
男寵の服装。錦繍の衣をまとう。
胸まで引き上げた裙裳に、透けそうなほど薄い絹の襦衣を羽織り、大きく開けた衿元から玉のような肌を惜しげもなくさらす。
婕妤。
宮城内の正殿は明堂。通天宮。
四時に即した下層の上に十二辰にのっとった中層を載せ、その上の円形の屋根の上には金で飾られた鳳凰の鉄像が鎮座する。その北西にそそりたつのは、巨大な仏像が安置されているといわれる天堂の五層の塔。それらの周囲には、紫緋の袍をまとい、金や銀の魚袋を下げる金帯冠を着け、笏を持った高官達。
長生殿
金龍を這わせた朱色の柱に、黒檀の衝立、上質な香が焚かれている。天蓋の羅布。
上官婕妤。結い上げられた花の簪。髪は黒々と。色鮮やかに刷いた紅。その横に入れた流行の飾り黒子。
作品は、もうちょっと恋愛パートがあっても良かった。というか、恋愛になるまえに話が終わった物語だった。
2024年7月31日
- 困ったときは再起動しましょう 社内ヘルプデスク・蜜石莉名の事件チケット
- 柾木政宗
- 講談社 / 2021年9月10日発売
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謎の小説だ。いったいどんな気持ちでこの小説を書いたのだろう。何を目的としているのだろう。
退屈といえばそうなるかもしれない。しかし、そういう問題じゃない。作家は、新しいことに挑戦したいと思う。事務小説。それもいいだろう。しかし、この小説、事務仕事の長い自分から言えば、事務小説とはとても思えないものに仕上がっている。
むしろこの作家は何を書きたかったのだろう。不思議だ。何かと戦っているのか、読んでいて、書いている人間のしんどさが伝わる。不思議で、悲しい小説だ。もっとキャラクターを、生きた人間のように、いきいきできたはずである。
事務小説を事務のように書いてどうなるだろう。事務仕事をしている人間はいつもこう思っている。「事務仕事は、いつでも取り替え可能な仕事。所詮、使い捨てられる。でも、どんな仕事も使い捨てはあるかもしれない。だから、いつかこの地獄から抜け出して、ちょっとでも自分の好きなことに関われる事務仕事をしたい」では終わらない。さらに続きがある。「しかし、事務仕事なんか辞めて、大冒険がしたい。そうして、また事務仕事に戻ってきたい」
そう、無人島に漂着するなり、ヤクザにさらわれるなり、「嘘だろ!?」と思える展開で事務仕事を壊すこと。それからまた事務仕事に戻ってくること。それが事務小説なのだと思う。事務とは、人間の日常であって、特別でもなんでもないのだから、事務をぶち壊すことが、事務小説なのだから。
2024年5月16日
- 幻談水族巻 いちばん近くにある異世界の住人たち
- 福井栄一
- 工作舎 / 2022年6月28日発売
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大坂の川の水がことごとく赤く染まって、その水で米を炊くと飯も赤くなった。虫眼鏡で確かめると、水が赤く見えたのは、無数の小蟹がいたせいだった。原因はわからない。
……といったような、リアリティのある話から、鱶に食われた娘の半身に父親が針を通して、餌にして、食った鱶に復讐する話などの、ダイナミックなもの。
それから、スッポンの骨まで食べたら、身体中からスッポンの骨が湧き出て苦しみもだえて死ぬ話。三本足の亀の煮汁を飲むと、身体が水になって溶けて死ぬ話。結構えげつないのもある。
川に毒を流して漁をすることの逸話がいくつかあり、毒流し漁があるにはあるのだけれども、色々と注意しなければならないということが、川の神の怒りという表現で伝えられている。そこも興味深かった。
フリガナが多く、丁寧に作られた一冊だと思う。いわゆる、怪異入門としてはバッチリだと思う。
2024年1月4日
- 妖怪の民俗学: 日本の見えない空間 (ちくま学芸文庫 ミ 2-4)
- 宮田登
- 筑摩書房 / 2002年6月1日発売
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怖いという感情は、「幽霊」の場合は「特定の個人的心意の反映」であり、当事者のみ真の恐怖を味わうのに対し、「妖怪」は「共同感覚」のうえに置いて怖いと思うことである。
しかし、ウブメの例にあるように妖怪と幽霊の違いの区別をつけることができない例もある。
結局、幽霊や妖怪とはなんだと言われれば、おもに宮田氏は「自然環境破壊」の結果と、妖怪や幽霊や神を結びつけて、それをベースに論じているのだ。つまり、人間が自然を開拓してきた結果に潜む、とあるエアスポットに妖怪や幽霊や神が出現する。
一理はあるが、そこまで全部に結びつくことであるかどうかは、議論が必要だろう。
柳田国男と井上円了の学問の方法スタイルを比較しているのも面白い。柳田は「神が零落した姿」を妖怪としているが、一方井上円了は不思議な現象を分類整理し、最終的には科学的に原因を究明し、原子や電子などの自然現象こそが不思議で、化物は不思議ではないという方向に進んでいく。
宮田氏はまた、妖怪などの怪異には、子どもや男ではなく、必ず若い女性、下女の存在が怪現象においては重要であることを論じている。つまり、自然を我が物としてコントロールして、都会や農村で暮らしている人間が、何かその自然のなかでコントロールしきれないものを感じる。それが妖怪であり、その現象を感じ取るのは主に若い女性であることを述べている。そして、それはどんな場所で起こるかといえば、どこかの境界、辻、橋など、どこかからどこかへ向かう途中の、あちらとこちらの間に象徴されるところで、怪異の現象が起こるという。
基本的なことをまとめると、自然破壊、若い女の感受性もしくは暴走、辻や橋などの境界ポイントの三つが揃うと怪異役満ということである。
本著の中身は、怪現象の事例も多く、楽しんで読めるが、現在、この三つに当てはまらない怪異もスマホなどの情報機器の発達によってもたらされるものなので、ここで宮田氏が示した枠組みが今現在どのように更新されているか、それも読んでみたいと思う所である。つまり、ホラーゲームなどの怪現象のゲーム化はどう論じるのかというところだろう。また、モキュメンタリー風のホラー小説の流行などは、宮田氏の示した枠組みでどう考えれば良いのか。自然破壊・開拓の結果というよりは、自然復活とその超克を願うところもあるのではないか。
2024年1月4日
- 驚異と怪異: 想像界の生きものたち
- 国立民族学博物館
- 河出書房新社 / 2019年9月3日発売
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図録で、かなり良いデキであると思う。比較神話学の話が最後の方に出てくるが、こういう横断的研究、総合的な発表と展示が成されることによって、これは〇〇独自であるとか、これはオリジナルであるとか、そういう粗雑な議論をなくし、違いを見極めるフィルターを高めてくれる本になっている。怪異について調べたり、書いたりする人間にとっては必携のアイテムだろう。ベトナムの水上人形劇の鳳凰や不死鳥も載っていて、本当に細やかで凄まじいコレクションと網羅っぷりである。大傑作だ。
2024年1月4日
- 図書館と読書の原風景を求めて
- 小川徹
- 青弓社 / 2019年11月22日発売
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いきなり聖徳太子と図書館についての考察があり、わりと面白かった。図書館と読書の原風景なので、図書館エッセイかと思ったのだが、原風景というか原初の姿に近い。日本に限定して、図書館文化史の詳細版といった感じで、楽しめた。
佐野友三郎が自殺していることを初めて知った。その佐野の辞世の句「なにごとも いはで散りけり 梨の花」で使われた梨の花を、枕草子にて絶賛されていた梨の花への評価のサンプリングではないかと述べている小文は切なくて良かった。
2023年11月16日
- 図書館の原則 図書館における知的自由マニュアル 第10版
- アメリカ図書館協会知的自由部
- 日本図書館協会 / 2022年2月26日発売
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一番読むべきところはP102~P113までの「挑戦」を取り扱ったところだ。「挑戦」とは「個人やグループの反対に依拠して、あらゆる種類の資源を除去、制限する試みをいう。カリキュラムや図書館から資源を除去して、他者のアクセスを制限しようとする試みをいう。
この「挑戦」に対する事務的処理の段取りがすべて記述されているし、しかもかなり合理的だ。校長や図書館長が勝手にクレームの入った本をびびって除去しようとした場合の対処まで書いてある。(方法は、校長や図書館長より上の存在に、自分が睨まれないようにしながら、うまいこと伝えることという、実に事務職や司書の弱い立場に寄り添った記述になっている。)
アメリカの図書館は、キャンセルカルチャーに対し、どのように立ち向かっているのだろうか。その段取りや体制の基礎が、ここに書かれている。
2023年11月16日
- 公立図書館の無料原則と公貸権制度
- 稲垣行子
- 日本評論社 / 2016年7月21日発売
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これからの図書館が抱える問題の地盤として、基礎としてなるべく産み出された非常に素晴らしい博士論文だと思う。これからもどんどん図書館の民間委託は進むし、本は増え続けるので、管理の費用は嵩むし、クラウドファンディングなしに図書館は運営できなくなったりするだろう。そんな未来を想定した場合、どのような基礎学問で、未来を考えていったら良いか、議論の土台となる本がこの論考だと思う。
P1に【個人の人格の尊厳に価値を認め、かつ価値相対主義を基底とする民主制社会においては、個々人の人格の発展や社会的意思決定に資するために国民の知的要求を満たし、必要な情報を得る自由や権利を保障することには多言を要しない。】とあり、しかしながら情報は持っている者と持っていない者では非対称性を伴うので、対称性をあげるためにアクセスの向上システムを作らないといけない。その代表が図書館としている。
P123には【図書館は、思想善導の思想を励行したことにより、若者の国策遂行のために有用な人材として育てあげ、戦場に送り出してしまったことへの反省により、1954年に基本的人権のひとつとして「知る自由」を持つ民衆に、資料と施設を提供することは図書館の最も重要な任務であると宣言して「図書館の自由に関する宣言」を作成することになった。1979年に改訂された時に前文の4に「わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する『思想善導』の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である」と掲げた。】とある。
ちなみに、【日本の無料原則を英国およびアメリカ合衆国の無料原則の運営状況などと比較すると、図書館の無料原則を厳格に守っているのは、日本だけである】(P290)と述べており、おそらく、近いうちになんらかの形で図書館にお金がかかる部分が増えてくると思われる。もしくは図書館内の「広告掲載」部分が多くなるなどがある。大阪の図書館が、「辰巳商会中央図書館」になっているのも、そのせいだろう。有料にするわけにはいかないので、必死だ。
無料原則は「情報への自由アクセスは民主主義社会の市民にとって基本的な権利だから」「有料制によるサービス提供は、差別にあたる。税金で運営されているし、公共のものである」「すべての人々への平等なサービスは無料原則によって可能である」「無料原則により、成人教育の場となれる」「有料制は二重課税になる」「利用者は有料制になると金額に見合ったサービスを求めるので、高いと支払わなくなる」が存続の理由としてあげられている。
そうした中、問題として上がるのは、図書館は本を貸し出して、著作者に入るはずの売り上げ金の権利を奪っている、侵害しているという問題だ。
これをどう解決するかについて、著者は貸与権の運用として、このような提案をしている。
①公共貸与権は特別法として制定し、著作権法の規定に縛られないようにする。
②「文化支援」として、助成金を著作者全体で分けあうようにする。ベストセラー作家も売れない作家も、報酬額は平準化されたものとする。
③報酬の対象は「書籍」のみとする。
④公貸権は「公立図書館」のみを範囲とする。
⑤貸出回数をもととして、公貸権制度に登録している著作者全員に基礎報酬金額を加える。
⑥報酬の処理は国で別団体を作る。
⑦貸し出したデータなどの内容は出版社などが参考にすることで活用していく。
⑧著作者や出版社がその図書館で講演会などを開きやすいようにする。図書館と著作者双方の利益が一致することを目指す。
とある。しかし、このように図書館でも著者に貢献できる...
2023年11月16日
- 社会を映し出す『図書館の権利宣言』
- 川崎良孝
- 日本図書館協会 / 2021年6月14日発売
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かなり専門的な本で、ざっと読んだ。
印象に残ったものとしては、検閲に対する図書館の態度だ。もちろん抵抗はあるものの、基本的に検閲の報告は図書館からはなされず、その図書館に、検閲対象となった本は自然と消えていたり、そもそも入らないのである。その図書へのアクセスの自由を確保する戦いが『図書館の権利宣言』であり、自由の保障であり、根源である。図書館が自由であるならば、私たちも自由である、ということだ。しかし、私たちとされるものは時に自由を自ら奪いに来る。図書の検閲、排除が大好きなのだ。昔は保守だったが今はリベラルとされる人やある種の人々が「表現の自由戦士w」と笑いながら、表現の自由の譲歩を迫る場面があるが、結局少しでもそれを譲れば「で、いったい誰がブレーキかけるの?」という議論に結論がでないまま、表現の自由、アクセスの自由も追い込まれて、さながら「図書館戦争」になるわけである。「図書館戦争」は、おそらく左派の人々は大嫌いなのだろうと思う。
この本では、主に検閲するのはいわゆる保守派であったり、するわけだが、その根拠は、共産主義思想だから排除しようとするのと他に「わいせつ」だから排除しようというものがある。これもいまTwitterを賑わしている議論と本質的に変わらないだろう。自分に取って気に入らない表現はわいせつ物として検閲、排除する。コンビニに排除しても、この世のどこかにあること自体が気に入らない。「わいせつ」とされ、本が燃やされてきた歴史を纏めた本はあるだろうけれども、今一度誰かが纏め直して、思想によって本が排除されることのないように、モノを書く自由、作る自由が確保されることを願う。
この本を読めば、表現の自由なんて、あっという間になくなることがわかる。「で? 誰がこの表現規制の波にブレーキかけるの?」の答えは、規制派の内側からは決して出てこないのも、読めばなんとなくわかる。なぜなら、規制派は、自分の組織や思想の運動を維持継続することも目的にあるので、「はい、ここまで規制したので、解散」とはならないのである。「まだまだ課題はある」とやり続けるのが常である。
図書館の組織は、船橋市西図書館蔵書破棄事件のときに、たしか「ず・ぼん」だったと思うけれども、右派の本だから俺らの反応遅かったよねと座談会で反省していた。プロの図書館研究者であれ、思想によって、対応の時間差が生じてしまうのである。
よく、音楽と政治とか、文学と政治とか、いろいろ絡めて語られる。それは常に、反体制という文脈で述べられているが、そんな反体制も、いつ体制的な動き、警察官みたいな動きをするかわかったものではなく、例えば政治と農業が結びついた場合、栽培方法をイデオロギーに基づいて国が指導して何億人と餓死することもあるわけである。音楽や文学は、餓死することはないが、中途半端な思想はかならず自己をよく見せるためにラディカルさを名乗り出しその方向に舵を切る。ラディカルと名の付くものはたいがい、すっかすかの馬鹿げたものをごまかすために使われるものだ。事務体制の隅から隅まで整ってはじめてシステムや体制になるのだ。こうした思想による統制は右であれ左であれ常なので、この本から、図書館がいかに戦ってきたか知るべきだろう。
いわばこの世には三つの思想があり、「右」「左」「図書館」である、といえる。言い換えれば、「右情報統制」「左情報統制」「情報自由」だろう。そして、思想と情報自由は極めて相性が悪いのだ。そして、情報自由は思想や哲学ではなく、どちらかといえば、事務とか仕事とか経営学とかことわざとか、そういう「人間としてあたりまえの合理性や常識」に近いのである。
2023年11月16日
- 勉強力をつける: 認識心理学からの発想 (ちくま新書 165)
- 梶田正巳
- 筑摩書房 / 1998年7月1日発売
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