日本語を書く部屋 (岩波現代文庫)

著者 :
  • 岩波書店 (2011年10月15日発売)
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感想 : 5
3

 言葉の問題を取り扱った一書である。
 「コトバ=民族」という概念に反し、と、本の発行者の説明にはあるけれども、かなり「コトバ=民族」に近いことをリービは述べているように思うし、この本を、反体制的だったり、何かしらマイノリティ云々のつもりで読むと、肩透かしをくらうように思う。むしろ、コトバ=故郷、であり、中国がモンゴルなどからコトバを奪う戦略をしている理由が、本著によってよくわかる。

 太宰治の津軽の一文を取り上げて、「故郷といえばたけを思い出すのである」と「どこ」と指定しない帰郷について述べている。帰郷とは、「どこ」ではなく「コトバ」なのだ。
 太宰は、この人(たけ)が「自分」を「母」のようにむかえてくれたという「フィクション」によって、「ノンフィクション」の名作の結末を書いた。「架空」というアイロニーをふくめて「母語」だったのだ。

 原民喜の原爆文学について、フィクションとノンフィクションの境をぼやかした描写は、同時に世界各国にとって未来に展開されるかもしれない姿であると、リービは述べる。「証言する文学」は、過去を証言しているだけではなく、未来を予言しているかもしれないと感じられたとき、仏教やキリスト教の地獄を超えて未来像を暗示する。地方都市が普遍的な都市となるのだ。

 日本語で書くということは、たとえ日本人として生まれた書き手であっても、文字を輸入したゆえに、どこかで外国人のように書かなければいけない、そうした課題を背負っているとリービは言う。日本では、書き手は、どれほど能動的であっても、どこかで非常に受身的な立場に立たされる。文化を受ける形で書かざるを得ない。古事記はそういう緊張感があるし、日本最初の文学作品であり、かつ、天皇の人間宣言は古事記でなされている。中国や西洋に対抗して日本というローカルがある、ということが、宣長によって逆転される。ローカルがある普遍に変わる。固有が普遍に変わる。本当の人間の、国の姿が、ここにあるぞ、という主張が古事記にあると宣長は述べる。こうした古事記の面白さは、イデオロギー論争に巻き込むのはもったいなさすぎるとリービは述べる。

 ローカルから普遍へ。そしてコトバの故郷は場所ではないことを述べてから、彼は外国と日本について考えていく。

 万葉集を読む限りは、渡来人の山上憶良をいちいち「渡来人」と断ってはいないし、憶良自身も日本の外交官になっているので、自分を日本人(大和人)と自覚していたはずである。こうした日本についてどう考えればいいか。新宿が象徴的であるとリービは述べる。
 新宿は、街全体がアニミズムであり、神社のようなところである。外の者がやってきても次々と飲み込んでいく。神社的であるのだ。出ていけ出ていけと言われながら、外国のものが飲み込まれていく(出ていけ出ていけと言いながら飲み込んでいく)矛盾が新宿にある。

 近代西洋マイノリティは、そこまで「コトバ」を問題としない。また、書きながら受け身になるというのも西洋にはないだろうと、リービは言う。
 日本のマイノリティなどの問題は、マルコム・リトルがマルコムXとして生まれ変わることを選択した問題とは、まったく異なり、「コトバ」の問題であるのだ。

 なんでも飲み込む新宿という日本。そこではただ一つ、コトバが故郷としてある。日本はコトバによって成り立っている国であり、そのはじまりは、外国の文字を輸入して自国の音声にあてはめるという方法にある。よって、日本の神にあたる確かなものとは音のことであると思える。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学批評
感想投稿日 : 2020年12月5日
読了日 : 2020年12月5日
本棚登録日 : 2020年12月5日

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