若きサムライのために (文春文庫)

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著者 :
Midnight Ramblerさん  未設定  読み終わった 

三島由紀夫の洞察の鋭さが良く現れている内容。本のタイトルにもなっているエッセイ「若きサムライのために」は一つの題材について10ページもないけれど三島のエッセンスと強烈なメッセージがつまっている。
また「お茶漬ナショナリズム」は外国と日本を比較して日本はやっぱりすごいと結論づけるような言説が巷に溢れている今こそ読むべきだろう。
自分も三島由紀夫の最期へつながるものを一見すると関係のない作品中にまで見出してしまうところがあるので解説には共感できる。

追記 2014 12/24
60年代後期の三島由紀夫は文武両道を掲げ、自衛隊に入隊したり、盾の会を結成したり、剣道をやったりと文学以外の活動を精力的にやっていた。三島はいったい何を考えて文学以外の活動をしていたのだろうか?「文弱の徒について」を通して考えてみたい。

まず文弱の徒とは何であろうか。三島は次のように説明する。
「文学というものは、ちょうど蟹が穴の中に身をひそめるように、安全地帯に籠ろうとするには最適な仕事である。なぜなら文学は何とでも言いわけがつくからであり、文学の世界はこの現実の世界とは何のかかわりもないという前提に立って、どんな批評もできるからである。そして、ほんとうの文弱の徒とは、文学以外のすべての関心と努力を放棄して、文学の中でだけ許されるような無道徳、ふしだらを自分の生活の理想として、人に迷惑をかけて省みない人たちのことである。」P.88
文学は現実世界とかかわりを持てない。ゆえにそこにあるものを現実世界で理想としたら齟齬が必ず生じる。だとしたらなぜ人々は文学に理想を見出そうとするのか?
「なぜならば、文学に生きる目的を見つけようとする人は、この現実生活の中で何かしら不満を持っている人である。そして現実生活の不満を現実生活で解決せずに、もっと別世界を求めて、そこで解決の見込がつくのではないかと思って、生きる目的やあるいはモラルを文学の中に探そうとするのである。」P.88〜89
現実世界で不満を持ってそれが現実世界で解決できないからそれを別世界に求める。これが答えと言っていいだろう。だがもちろん別世界で解決したとしても現実世界の不満や問題が解決されるわけではない。つまり文学は問題解決の手段としては不適当ということになる。
もう少し詳しくみていくと三島は文学には二流品とほんとうの文学があるという。
「それは一人の人間をより高い精神に向かって鼓舞するようにつくられている文学で、それは平均的な人間のモラルを、ほんの少し引き上げて、人生というものをほんのちょっと明るく見せかけ、人に欺瞞を与えるようにうまくこしらえられてある。」P.89
「それはすべて柔かい、またある場合にはきびしい母親や教師の手であって、そういう文学に親しんで人生に目ざめた人たちは多い。そしてそういう文学は(中略) 父親や先輩が言ってくれないことが、興味を引くようにうまく織り込まれている。」P.89〜90
「小学校の三、四年から少女たちはそのような小説を読み出し、自分たちのほのかな夢やその夢がある美しい清純な恋愛に結晶しながら、やがてそれが世間の波風に破れてゆくけれども、なおかつ力強く生きようという勇気を与えられるのである。」P.90
三島が二流品と呼ぶ文学は事前に答えが用意されていて、その答えまで読者を導いてくれる文学と言ってもいい。しかしながらそれは現実世界とは別世界の理想であるため現実世界では脆くも崩れ去る。それでは理想に生きることはできても本質的な問題解決にはならない。
では、ほんとうの文学とはどういうものであろうか。
「ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。(中略) この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。」P.90より
「そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが「よい文学」である」P.91より
三島がほんとうの文学と呼ぶ文学は答えまで導いてくれない。人間や人生が本質的に持っている闇の部分を読者の前に曝け出すだけである。
「一流のおそろしい文学に触れて、そこで断崖絶壁へ連れてゆかれた人たちは、自分が同じような才能の力でそういう文学をつくれればまだしものこと、そんな力もなく努力もせずに、自分一人の力でその崖っぷちへ来たような錯覚に陥るのである。」P.91より
「その錯覚からはさまざまなものが生れる。自分は無力で、文弱の徒で、何の力もなく、この人生を変えることもできず、変革することもできないけれども、自分の立っている位置はあらゆる人間を馬鹿にすることのできる位置である。あらゆる人間を笑うことのできる位置である。」P.91より
「それは文学のおかげで得たものだから、(中略) 何ひとつ能力がないにもかかわらず、自分は人間の世界に対して、ある「笑う権利」を持っているのだという不思議な自信のとりこになってしまう。そしてあらゆるものにシニカルな目を向け、(中略) ある激しい純粋な行為に対する軽蔑の権利を我れ知らず身につけてしまうのである。」P.91〜92より
なるほど、ほんとうの文学は二流品とは違って現実世界の人間の抱える問題を暴き出してくれるかもしれない。しかしながら文弱の徒はそれを自分で暴き出したわけではない。それなのに彼らはその問題を抱える人間を嘲笑うのである。彼らはその問題を解決するための力を持っていないというのに。
「こういう文学の毒を人一倍知っている私が、それから身をかわそうと思ったことは無理ではあるまい。そして身をかわしてみても、職業的文学者としての私には文学はしつこくついてくるが、せめて職業的文学者にならない人たちにその害毒を知らせたい気になるのも無理はあるまい。これが私が文弱の徒をののしるようになった理由である。」P.92
ほんとうの文学は答えまで導いてくれない。そして嘲笑うだけの文弱の徒を生み出す。二流品は答えを与えてくれるがその答えは現実世界に存在する問題の本質的な解決策にはならない。三島はそこに文学の危険性と限界をみたのではないだろうか。仮に三島が幻想の世界に生きる人間ならば、それでもいいかもしれない。ただ人間の醜さを嘲笑っていればいいからである。しかし三島は現実世界の人間であり、現実世界の人間が抱える本質的な問題に立ち向かっていこうとした。それゆえに三島は文学以外のものからその手段を求めるしかなかった。そしてその答えが運動であった。
「ただ一つ剣道をやってみて竹刀を振ってみるだけでも、そのニヒリズムの沼からは瞬間的に脱出できるということに気がついたのは、はるかあとのことであった。最も単純な行為がそういう文学病をどこかからなおすということに気がついた」P.92
こういった文学への考察と模索から文学の限界を感じた三島は、突き動かされるように文学以外の活動に精を出していたのかもしれない。

レビュー投稿日
2014年12月23日
読了日
2014年12月23日
本棚登録日
2014年12月22日
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