映画「ジョーカー」見てからのダークナイト。
アニメのバットマンを小学生頃に見て以来のバットマンだった上に、バットマンの実写版は初めてだったが、バットマンシリーズは子供向けカートゥンだったことがおかしかったのか、それとも大人向けにアレンジされたものだったのか、どっちなんだろうか。
それくらいに重かった。
なんでもないただの人がバットマンなんだということを思い知る。彼はゴッサム・シティにとってヒーローだろうけど、決してスーパーマンのような超人ではなく、むしろ、市民の誰もがバットマンなり得るんだと物語る。それはラストで、一般市民と囚人で分けられた船の中がそれを示している。囚人たちは最後一般市民のためにボタンを押さず、むしろそれを投げ捨てる。彼らは自分の命を犠牲にして、名前も知らぬ一般市民を守る選択をした。バットマンはジョーカーに対して人々の良心について語るが、良心こそがバットマンであり、バットマンはバットマンという固有名詞を持った良心なんだろう。
同時に人は誰もがジョーカーになり得る。それはトゥーフェイスになってしまったハービー・デントがそれを示しており、同時に一般市民船に乗った彼らを指している。(後者は結局ボタンを押すことができなかったが)
事実、ジョーカーは日本語吹替版では、バットマンに向かって「落ちる」という表現を使う。ジョーカーはよくわかっているんだ、誰もが彼の側にやってこれることを。
人が倫理や道徳、あるいは法律のレールの上から落ちてしまうことはあまりにも容易いことだろう。誰もが自身の感情を持っており、それらの感情は時に倫理観や道徳心から外れてしまうこともある。しかし、その感情を抑え、あるいは消化し、踏みとどまることができ、良心を大切にし、他人を慮ったとき、誰もがバットマンになれるんだろう。
この作品はバットマンたちの作品だったのかもしれない。
- 感想投稿日 : 2020年4月13日
- 読了日 : 2020年3月29日
- 本棚登録日 : 2020年3月29日
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